2006年11月01日

☆ 「ITメタボリック症候群」って

ネーミングセンス悪いなぁ, 日経。

チェックリストを見る限り「ITメタボリック症候群」というよりはむしろ IT Addiction だよな。 IT 投資自体が目的化し, それをしないといけないような強迫観念に駆られる。 典型的な嗜癖行動じゃん。

☆ ケータイ族は受動的?

あーあ, ほらね, やっぱり「文明の衝突」もしくは「優越感ゲーム」になっちゃうんだよな。

道具なんてのは二次的なものに過ぎない。 そうでなければ日本人ユーザの多くが Yahoo! Japan や楽天や mixi に安住している理由がわからないだろう。 「携帯はコミュニケーションデバイスの面が強い」と言うが, ケータイ上で行われているのがコミュニケーションかどうかも疑わしいし。 あれは単なるコネクションで互いに Keep Alive 信号を送りあってるだけでしょ。 だからハマるんだけど。

確かにケータイは制限が多いし視野も狭い。 故にユーザはそれをプロトコル(儀礼・典礼)でカバーする。 「繋がりのコミュニケーション」というのはつまるところプロトコルに過ぎない。 でもこれはパソコンから見えるネットでも同じなんだよね。 パソコンから見えるネットは見えすぎるが故に簡単に迷子になる。 迷子にならないようにするにはやはりプロトコルを決めておくに限る。 例えば連絡は mixi でとりあうとか。

また「PCのネットサービスは能動的であることが求められて」はいない。 それは Google や SBM やフィードなどを積極的に使う一部のユーザだけだ。 「能動的」というのは実にきれいな表現で, ネット上のツールを使って情報をむさぼる人というのは傍目にはむしろ嗜癖的だ(他人のことは言えないが)。 っていうか, ネットでは誰かが何らかの手順を踏んで提供している情報しか得られないのだから(ネットで得た情報を使いまわしている人も含めて)ほとんどの人は受動的だよね。 受動的にむさぼるのがネットユーザ。

まぁでも, それなら TV から「受動的にむさぼる」人もネットで「受動的にむさぼる」人も本質的に同じってことになる。 それを使って遊ぶ行為も同じ。 昨日見たドラマについて友達同士とだべるのも, ネットで見つけたものをブログで紹介してコメントやトラックバックを集めるのも同じってことだ。

(11/3 追記) はてブのツッコミより:

「能動的・受動的の視点を急に別の話にしちゃっている。それだと「新聞記者もどこかの企業の発表や事件を受動的に伝えているだけ」とも言えてしまう」

違うの? 企業のプレスリリースや警察・検察のリーク情報を右から左に横流しするだけのマスコミのどこが「能動的」? その手のマスコミ報道が一次情報だとでも? そんな昭和時代のマスコミの権威性なんかとっくに崩れちゃってると思ってたけど。

(11/8 追記) 更にツッコミ。ってか前のが書き換えられている。

「マスコミ論については同意だけど「ケータイ族・パソコン族の対比」という視点から逸脱しているという意味で能動的・受動的の視点を急に別の話にしちゃっているのは変わらない。」

そりゃ当たり前。 逸脱もなにも私は「ケータイ族・パソコン族の対比」なんてものはないと書いてるんだから。 他所のコメントでも書いてるけど私はそんなものが比較の対象になるほど両者は極端に違わないと思ってるし, どちらかを「アホ扱い」しているわけでもない。 冒頭に書いてるでしょ, そんなものはただの「文明の衝突」もしくは「優越感ゲーム」だって。 もし私が何かを「アホ扱い」しているのだとしたら, それはむしろこの状況を見て「文明の衝突」もしくは「優越感ゲーム」というフレームに耽溺している人たちだ。

(11/10 追記) 更にツッコミ。だんだん不毛になってきた。

「そりゃspieglさんが「対比なんてない」としている物を、元記事ではあえて対比させて(細かい)差異を見いだした記事なんだから「優越感ゲームだ」というのは指摘としては過剰。というか単なる揚げ足取りか。」

「ケータイ族=テレビが好きな層と考えてみる」は本当に「あえて対比させて(細かい)差異を見いだした記事」なの? とてもそうは見えない。 加野瀬さんと松永英明さんの違いは決定的だろう。 そうやって何でも「それはネタだよ」と言って済ませているのか, モヒカン族ってのは。 加野瀬さんの立ち位置は松永英明さんから見れば「ケータイだけしか使えないとき、「フルブラウザを入れたらいいのに」と」言う人であり, ここの記事をパソコンで読んでいる人のほとんどで, 既存のケータイよりも W-ZERO3 あたりのスマートフォンのほうが「おされ」(古語)だと思っている人で, 少し前の私である。 何度も同じ事を書いて恐縮だが, 「自分」はネットで能動的に振舞っているように見えていても本当は情報を収集する行為に耽溺しているだけであり, それこそがネットとの供依存関係なのかもしれない。 ならば, ケータイに(他称)受動的にハマっている人たちもパソコンで(自称)能動的な人たちも本質的には変わらないのだ。 そしてそれは外交の世界で破滅的な仮想現実を継続させるためだけに「文明の衝突」を唱える人や何もないところに格差を作って優越感に浸る人たちとも同根なのである。 過剰でも言い過ぎでもないよ。

☆ ネットの魔法使い

そういえば, 昨日行った店の女の子に「「しょこたんぶろぐ」ってどうやってみるの」と言われ, 検索サービスから件のブログを見せてあげたのだが(ちなみにその店にはパソコンがあって常時ネットに繋いである), その奇天烈な内容を見てひとこと。

「この子,魔法とか使えそう」

いやぁ, 激しく同意です。 ちなみにその素敵な感想を述べた女の子はしょこたんと同い年だ。

☆ "The Hubble servicing mission is go!"

やったー。 ちょっと首がつながったよ。

☆ ついに IPA も フィードを!

久しぶりに IPA セキュリティセンターのサイトを覗いたら RSS フィードがあるのに気がついた。

やっとかぁ! いやいや, 感謝しています。

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2006年11月03日

☆ 「知識」を強要するマフィア共

う〜む。

未履修問題については私自身は今ひとつピンと来ないので(某所では書いているが)スルーするとして, 「教養」とか「常識」とか言われるものの取り扱いが今と昔では異なっているようには感じる。 私たちが学生の頃は「常識」というのは「学校で習うまでもなく知っているべきこと」だったが, 今の子供たちにとって「常識」とは「当然学校で習うべきもの」になっている。 世間とか社会とかいった仮想的な枠組みがあったころは, その枠組みの中で自然に「教養」とか「常識」とかいったものができあがっていた。 しかしそういったものが壊れてしまった現代では別の「規制力」で「教養」とか「常識」とかいったものを規定し線引きするしかない。 そういうことなんだろう。 しかし「当然学校で習うべきもの」について社会が要求するものと大学が要求するものと文科省が学習指導要領として要求しているものなどがそれぞれみんな違うんだから破綻してないほうがおかしい。

私は微積分は中学の頃から知ってたけど日本の政治や政党については学校を出るまで知らなかったし興味もなかった。 興味のある分野は詳しいけど, そうでないなら疎くて当然。 そんなもんでしょ。 知らなかったのならこれから学べばいい。 そのための学校なんじゃないの。 それに今の学校に入学時スクリーニングが機能するはずもない。 そりゃあ第2次ベビーブーム世代までの話だ。 「〇〇大学卒」ブランドを維持したければ入学時ではなく在学中に選別すればいい。 いつから学校は学生に「知識」を強要するマフィアになったのか。

...ってな風に考えるのも面白いかも。 でもやっぱりピンと来ない。

☆ サービスの地平線

面白い。

「del.icio.usのユーザーは見栄をはって英語のタグをつけてるんじゃなくて、ただ単にオートコンプリート使いたいから英語のタグを使ってるだけ」

というのは少なくとも私には当てはまらない。 見栄でもオートコンプリートを使うためでもない(確かにオートコンプリートは便利だが)。 それに del.icio.us で日本語のタグをつけている人は意外にいるし。

Popular pages は全く使ってない。 最初に見た瞬間に「使えない」と思った。 多分私が英語不得手だからだと思うが, 充分雑多に見える。 なので subscriptions (かつての inbox)に適当なタグをセットして利用している。

del.icio.us と「はてブ」の違いは端的に言ってマスとミニの違いだろう。 del.icio.us から見れば「はてブ」はミニなのである。 それぞれのサービスに入ったときに見渡せる範囲の境界(地平線)が違うということだ。 意識される地平線が違うから使い方も違うし(ユーザの使い方にあわせてサービスの仕掛けも最適化される)タグの傾向も異なる。

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2006年11月04日

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2006年11月05日

☆ 中立性と公平性

Vox の気になる記事。

この辺は詳しくないので憶測しか書けないが, 内容を読む限り「中立性」と「公平性」を意図的に混用しているように見える。 例えば「ネットワークコスト負担の公平性を維持するためには中立性が崩れるのもやむなし」とか「ネットワークの中立性とコスト負担の公平性を両立させるにはどうしたらいいか」とかいうのならまだ分かりやすい。 しかし総務省の資料からはそういう風には読めない。

どうなってるんだろうねぇ。

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2006年11月08日

☆ や〜っと

Vox で家族・お友達設定している方々には既に報告済みだが, ようやく仕事決まったよ。

まだお互い様子見で仕事自体はきつくないのだが, 環境が激変してしまってそっちに身体が慣れるまでしばらくかかりそう。 ちうわけで, ここの更新は引き続き滞ります。

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2006年11月09日

☆ 支配(コントロール)への幻想

つらつら思うに, これってば要するに「支配(コントロール)への幻想」なんだよな。 たとえ理科の基本的な知識がなくたって, ただの水が意思のようなものを持っていて, 私達人間から(しかも日本語で!)意思が伝えられて, 更にそれに反応するなんて普通思わないじゃん。 つまり「水からの伝言」信者たちは, たとえ相手が自然であろうとも自らの意思で以って「変えられる!」と傲慢にも信じているわけだ。 この世界の全て, 空気や水や大地や植物や動物やもちろん人間や宇宙までも彼等に使役される存在なのだ。

馬鹿げてると思う? でも意外にそうでもないかもしれない。 「水からの伝言」は信じていなくても, そういった「支配(コントロール)への幻想」を信じている人たちは(私も含めて)かなりいるんじゃないだろうか。 例えば「水からの伝言」信者を改心させ「正しい科学」へと導くことができる(つまりコントロールできる)なんて考えている人がいるかもしれない。 「水からの伝言」はデフォルメされた一面に過ぎない。 私たちのほとんどは実は「水からの伝言」信者の予備軍なんじゃないのか。

なんてなことを最近考えたりするわけよ。

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2006年11月11日

☆ 「創作するインセンティブ」

著作権が「創作するインセンティブ」を保護するために作られたものだという考え方, っていうか定義か。 それがネットの普及によって機能しなくなりつつあるどころか「創作するインセンティブ」を阻害する要因になりつつあるという話。

そもそも「創作するインセンティブ」は何か。 それはたったひとつしかない。 共有し共感する喜びだ。 そのために「表現」があり, 「表現」を伝播する「流通」がある。

本当は誰も「創って」なんかいない。 ただそこにあるものに気付いた(見つけた)だけだ。 だから「それ」はいつまでも消尽しないし誰にも帰属しない。 帰属せず消尽もしないのだからコントロールもできない。 しかし「コントロールできない」ことに恐怖を感じる人はそれを良しとしない。 だから「それ」を誰かに帰属させ, いかにも消尽してしまうかのごとく装った。 (比喩表現だからね。念のため)

かつて「表現」は物理的な「入れ物(コンテナ)」に封入する必要があり, 「流通」は透過的ではなく物理的・経済学的な障壁が存在した。 各国の著作権法は経済学的なアプローチからその障壁を下げるように設計された。 しかし現在ではネットの普及により「表現」と「流通」のかたちは劇的に変わってしまった。 ネットは「入れ物(コンテナ)」を不要にし, 従来の物流ルーティングを無効にする。 つまり設計の前提となるものが変わってしまったのだ。 著作権法が「インセンティブ法」であるなら, 前提条件が変われば法も変わらなければならない。

著作権法が守るべきものは何か。 クリエイターの名誉や生活? コンテンツ(=コンテナ)企業の利益? 著作権法は彼等の存在を必須条件として設計されている。 彼等を保護することは「創作するインセンティブ」を守ることに繋がると考えているわけだ。 しかし本当にそうなのか? そうではない可能性をネットは示しているのではないのか。 「それ」は彼等とは無関係に存在し得る。 不特定の誰か同士の関係性の網が続く限り「それ」もまた存続しつづける。 彼等がいなくても「それ」が枯渇することはない。 何故なら「表現」は万人が手にする(すべき)手段であり, 複数の人がコミュニケートする場では必ず行われるものだからだ。 重要なのは(彼等だけではなく)あらゆる人が「表現」を行使する場を奪わないことだ。

彼等が守ろうとしているのは「創作するインセンティブ」ではなく「創作にかかるコスト」だ。 現行の著作権法はインセンティブの名のもとに「創作にかかるコスト」を担保する。 「創作にかかるコスト」を失うことは, それを名目とした糧を失うことでもある。 だから絶対に死守しなければならない。 「創作するインセンティブ」をぶっ潰してもだ。

なんてのはどう?

(11/13 追記) 参考(めっさ重要):

☆ 覚え書き

そうか。 ツンデレは「とげとげしさと物欲しさのリンカーン・ロッグ」なのか?

別の話。

NHK の話は(話を鵜呑みにするなら)マーケティングのターゲット・セグメントが10代から20代前半の子という点がポイント。 本当に自分の欲望に素直ならやたらと他人のものを欲しがったりしない(いや,欲しいと思うだけなら大人でもあるだろうけど,その感情が何に由来するか分かっている)。 よく小学生あたりが「他の人はみんな持ってるのに私だけが持ってない」と親に Nintendo DS をねだるような感覚を上手く利用しているわけだ。 本当にそれが欲しいのではなく, 手に入れる行為に執着しているだけ。 それよって「友達関係ダイアグラム」が担保されると思い込んでいるわけだ。 自分が本当に欲しいものが何か分かっていない, ある意味人格形成の途上にある層を狙ってマーケティングを行うのだから, 悪質っちゃあ悪質。

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2006年11月12日

☆ ありゃりゃ

ここ見て登録しようとしたら繋がらない。 嫌われたかな。

...おっ, 入れた。 メンテナンスだったらしい。 「Spiegel」で検索すると見つかります。 多分。

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2006年11月13日

☆ タブが英語なわけ

「サービスの地平線」について, なんと del.icio.us の for タグでツッコミをいただきました。 いやいや, どうもです。

「Spiegelさんはなぜ英語のタグを使うのか」。 理由は単純です。 英語じゃないと日本語圏以外の人に認識されないだろうから。 私のブックマークはほとんどが日本語記事なので, その時点で見ないだろうという話はありますが, それでもまずシグナルを送らないことには誰も気付かないでしょう? 私の場合一応タグの内容にも気を遣っていて, del.icio.us 内でポピュラーなタグを使うようにしています。 どうせやるなら「世界」を意識してやろうよ, ということで。 ちなみに私は Flickr や Vox でもふつうに英語のタグを使います。

ただし私のようなやり方が一般的かどうかは分からない。 前回も書いたように del.icio.us で日本語のタグをつけている人は意外にいるし。

☆ 委ねる安堵感

「なにしろ、これは「物事の善悪や美醜の判断を、自分の以外の何かにゆだねる」という話だし、「正しいものは美しい」という話だ」

これは重要な指摘。 前にも書いたが「水からの伝言」は決してデンパでもトンデモでもない。 それは私たちが属している社会の写像である。 「物事の善悪や美醜の判断」を委ねる「自分の以外の何か」とは何か。 それは「システム」だ。

自身の評価と未来を「企業」に委ねる年功序列システム。 病気にかかったらとにかく「お医者様」に全てを委ねて言われるがままに治療を行う医療システム。 「政治家先生」にお願いすればおらが町が活性化して幸せになれる日本の政治システム。 「学校の先生」の言われたとおりに履修すれば教育を受けたことになる教育システム。 「聖典」や「教祖様」の言われたとおりに修行すれば幸せになれる宗教システム。 「親」の敷いたレールを黙って歩いていけば幸せが続く人生システム。

私たちはシステムにコントロールされることを望んでいる。 システムは私たちをコントロールすることを望んでいる。 両者は共依存の関係なのだ。 そうして私たちは本来自分のものである筈の感情や価値観をシステムに委ねて安堵し, システムは「感情や価値観は我が与えたもの」とささやくのである。 だがシステムの外側から見ればそれは「支配(コントロール)への幻想」に過ぎない。

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2006年11月14日

☆ クリエイターはそんなに偉いんか?

「創作するインセンティブ」は微妙にウケていただいているようで。 個人的に関連すると思われる話題を挙げておく。

ced さんの記事はもともと Vox で限定公開されていたもの。 コメント欄でやり取りされた部分も反映されているので是非ご覧あれ。 一方, 私の戯れ言のほうは明らかにファンダメンタリズムな方向に偏っている。 なにせ「著作権以前に還れ」と書いているのだから。 しかし, だからといって「著作権なんかないほうがいい」と言っているわけではない。 私の戯れ言は以下の2つの疑問を出発点にしている。

  • クリエイターはそんなに偉いんか?
  • 著作権法がインセンティブ法って本当?

「クリエイターはそんなに偉いんか?」という点については上に挙げた 「ロマンチック・オーサーシップ」 の方が参考になるだろう。 私は(今もあるのかどうか知らないが)漫画雑誌のオビの「〇〇先生に励ましのお便りを送ろう」などの文章が子供の頃から気持ち悪かった。 「先生」になった上に更なる「励まし」を要求する作家ってなに様やねん! ってなもんである。 まぁ要求しているのは「作家」ではなくて「出版社」だとは分かっているのだが。

もうひとつのほうははっきり言ってあの「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」に対する反発と同じものだ。 ライセンスや法はインセンティブを与えない。 ただし各人が持っている「創作するインセンティブ」に何がしかの影響を与えることはできる。 著作権法がインセンティブ法だというのなら, より「環境管理型権力」へとシフトしていくのかもしれない。 しかしライセンスや法がインセンティブを与えるという発想は昨日書いたような話と同じ。 システムとの共依存者のそれである。

つまり「創作するインセンティブ」はクリエイターに特権的なものではないし, まして他者から与えられるものでもない。 しかしこのことは現在の著作権法のシステムの中からは見えにくくなっている。 故にことさらファンダメンタリズムな記述になってしまうのである。 以上, 言い訳終わり。

さて, 話がすっかりよれてしまったが元に戻そう。 公開されている「著作権法は創造性のためにあるんじゃない、お金のためにあるんだ!」 についてはまだ若干の疑問がある(実は Vox 版のほうにはちょっと書いているのだが)。 ので, ここで吐き出しておこう。

単純に考えると著作権が「作成した著作物からどれだけの金銭的利益を得ることができるか」を目的とした法律で「著作権法の存在と、創造性は関係がありません」なら著作権期間の延長を阻止する理由はないんじゃないか, ということになる。 「創作するインセンティブ」なんか建前であり, あくまで著作(権)者の利益を追求すればいいんだから, 70年と言わず権利関係者が死滅するまで保持していればいいじゃないか。 この点に関しては既に見解が示されていて,

「著作権法が作成した著作物からどれだけの金銭的利益を得ることができるかを目的とした法律とするなら、その適用範囲は商用利用を目的とする著作物に限るべきです。現行の著作権の問題点の一つは無方式主義にあります」

ということで, 問題は保護期間をいくらにするかという議論よりも, 利益を追求する市場サイドとそうでないレイヤを分けることから始めるべきだ, ということのようだ。 そこで「二階建方式案」が登場するわけ。

しかし, ここで新たな疑問が生じる。 「二階建方式」のようなレイヤを分ける方法は一見上手くいくように思えるが, その境界部分では相変わらず衝突が避けられず, むしろ衝突が頻発するんじゃないだろうか。 たとえレイヤを分けようともそれはあくまでも人の営みに関する部分でありコンテンツには関係ない。 また市場サイドはコンテンツに市場価値があると認めればなりふり構わず取り込もうとするだろう。 結果, コンテンツはより流動性を増すことになり, 水が高いところから低いところへ流れるようにあらゆるコンテンツは市場へと流入していくような気がする。 そして最後に起きるのは「コモンズの悲劇」である。

これは単なる杞憂かもしれない。 境界部分での衝突は現時点でも起きているので, それを解決しやすいスキームを作っていけばいいじゃないかという意見もある。 せっかくなので, このへんはもうちょっと真面目に考えていきたいと思う。

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2006年11月15日

☆ なんだかなぁ

「惑星新定義決定 どうなる?「冥王星」に松本零二さんが寄稿されているが, なんだかなぁ...

私の中でこの人の株がどんどん下がっていく。 子供の「小さいから仲間はずれにされちゃうの?」という質問に 「planet も dwarf planet も同じ太陽系天体であって仲間はずれではないし,小さいから dwarf planet と呼ばれるわけでもない」ときちんと答えることが教育における大人の役割だろう。 「「矮惑星」では、如何にも差別的」というのは「矮惑星」が差別的なのではなく, 彼の中の差別的感情を「矮惑星」という言葉に投影しているだけ。 「バカって言う奴がバカ」である。

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2006年11月18日

☆ Yahoo! Japan という名前がいけない

ほう, 結構なことである。 しかし Yahoo! Japan は大いなる勘違いをしている。 Yahoo! と Yahoo! Japan は(経営的にはともかくシステムとしては)完全に別物だ。 そもそも Yahoo! と Yahoo! Japan のアカウントは全く連動しない(まぁそれは Amazon も同じだけど)。 Yahoo! Japan の IM も Yahoo! では使えない。 つまり Yahoo! Japan のサービスにいる限り Yahoo! のサービスは受けられないし, Yahoo! のサービスから見れば Web 1.0 な Yahoo! Japan など古臭すぎて話にならないのである。 そんな状況で Flickr 日本語版をつくるということは現在の日本人 Flickr ユーザを切り捨てることにならないか? 日本語版 Last.fm が所詮 Last.fm ではないように。

Yahoo! Japan がとりうる戦略は多分ふたつ。 ひとつは Yahoo! との連携を強めて現在の Yahoo! Japnan サービスを捨てること(この文脈なら Flickr 日本語版には意味がある)。 もうひとつは完全に Yahoo! と「SAYONARA」して現在のポータルをベースに独自路線を突き進むかだ。 ケータイとの連携を強めつつある今, 前者の選択は多分ないと思うけどね。 どっちかというと Flickr 日本語版をつくるよりフォト蔵を買収するほうが現実的だと思うけど。 いっそのこと Yahoo! Japan なんて紛らわしい名前も捨てて「ソフトバンク・ポータル」とかに改名したら?

☆ 日本の放送はロングテールに対抗する

来たねー

「ユビキタスネットワークでの動画コンテンツは、今後の少子高齢化や医療問題に対応できる社会的信頼性の高い分野であってほしいが、YouTubeに違法な動画が増えることで、動画コンテンツに対するユーザーの認識が変わってきてしまう」

ユビキタスとか少子高齢化とか医療問題とか意味が分かって言っているのだろうか。 ソーカルテキストかよ, これ。 あと YouTube 登場前から「動画コンテンツに対するユーザーの認識」はとっくに変わっていることには気付いてないのだろうか。 YouTube によって露出しただけで別段トリガーにはなっていない。

「伸び続けるロングテールに拮抗するものとして村上氏は“ロフティヘッド”(そびえ立つ頭)が必要でると説明。ロフティヘッドを実現する考えとして「融合放送」の可能性を挙げた。融合放送とは、「放送的に制作・編成されたコンテンツが、通信で配信されるもの」だという。いわば、テレビでしていることを、そのままインターネットに持ってきた形だ」

つまり「YouTube への対抗」などではなく, もっと広く「ロングテールへの対抗」を目指すらしい。 どこへ行くのか日本の放送。

「融合放送を実現するための主な要因は、1)放送免許を持つこと、2)自主制作であること、3)配信側がタイムテーブルを組むこと、4)放送規律を守ること、5)通常の動画再生ソフトで視聴でき、DRMを使うこと、6)オープンかつコミュニティ性のあるネットワークで配信すること、7)広告収入であること」

自主制作ということなら今の TV 放送はほぼダメじゃん。 免許制で DRM 必須なのに「オープンかつコミュニティ性のあるネットワークで配信」は不可能。

ホンマにこの人こんなこと言ったのか? 中身が支離滅裂で不条理の塊であることに気がついてないのか? 本当にこんなことを言っているのなら日本の放送メディアはもう終わったね。 これならもうワンセグでいいじゃん。 こんな連中にネットに出てきて欲しくない。 自分の領土でおとなしくしていて欲しい。

☆ Yahoo! Japan が欲しいのは「友達関係ダイアグラム」

某所で関連する記事を書いていて気付いた。

Yahoo! Japan が本当に欲しいのは CGM じゃない。 Yahoo! Japan がやろうとしていることは公開・非公開を問わずあらゆるコンテンツを Yahoo! ID へ「名寄せ」することであり, その Yahoo! ID 同士を「友達関係ダイアグラム」で繋げることだ。 そうしたい理由はもちろん, より効果的に「行動ターゲティング広告」を展開するためである。 つまり「SNSの「友人関係マップ」を、増え続けるネットコンテンツのフィルタリングに生かす」のではなく, 最初からフィルタリング(=ターゲティング)をするために「友人関係マップ」を構築するのである。

ところで Yahoo! Japan の「行動ターゲティング広告」は解除できるのかな?

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2006年11月21日

☆ 「BON SAGOOL」

記事では22日からということだったが, 登録したらできてしまったのでお試し中

「それは SBM ではなく「はてブ」の限界」でも書いたが, これからは (1) 必要な情報をいかに効率よく集約するか (2) どうやって「誤配」をノイズにならない程度に紛れ込ませるか という2つを両立させることが大事だと思う。 「BON SAGOOL」がこの需要をかなえてくれるかどうかはまだ分からないが, しばらく使ってみる。

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2006年11月22日

☆ 「秀丸離れ」計画スタート

新しい職場は前とは違う意味で情報管理が厳しいところで, ついに USB メモリも使えなくなってしまった。

あと仕事用のマシンへのソフトウェアのインストールは届け出制になった。 インストール自体は勝手にやっていいらしいのだが, 個人で持ち込むソフトは FOSS で無料配布のものに限るらしい。 で, 困ったのがテキストエディタ。 職場の上司の人に恐る恐る「私は秀丸な人なんですけど」とお伺いを立ててみたところ, 「あぁ,そりゃダメですね。他のにしてください」とあっさり断られた。

ダメと言われても私は秀丸じゃないとものが考えられない人なんだよぉ! しょうがない, フリーのを適当に見繕ってみるか。 ってんで昨日は半日かけていろいろ物色してみた。 その結果, (前にも紹介したことがあるけど)やっぱり「サクラエディタ」かな, と。 テキストエディタは K2Editor とか TeraPad とか NoEditor とか色々あるわけだが, 私としてはどうしても秀丸に近い機能と操作感が欲しかったので。

私が使っている秀丸は「工場出荷時」(笑)状態じゃなくってバリバリにカスタマイズしてるんだよね。 キーの機能割り当ては DOS 時代の MIFES や Vz Editor などの影響をもろに受けていて, しかも秀丸自体を10年以上も使いつづけているわけで, もうそれじゃないとダメなのよ。 だからサクラエディタを使うにしても, その辺のカスタマイズが上手くいかないとちょっと困る。

ってなわけで, (仕事上の要請で仕方なく)本気でサクラエディタを使ってみることに決めました。 でもこれが上手くいけば秀丸から「さよなら」できるかもね。

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2006年11月23日

☆ とっくに「Movable Type の落日」は始まっている

あぁ, また人様の記事をネタにしてしまう。

まぁ「WordPressの隆盛」はこれから始まるのかもしれないが, 「Movable Typeの落日」はとっくの昔に始まっている。 私も Movable Type はもうアップグレードしない予定(でも 6A は「脆弱性への対策」と称して無理からアップグレードさせようとするからなぁ)。 つうか Yahoo! ブログや Excite ブログに満足している日本の大多数のユーザから見れば「Movable Type vs WordPress」という図式自体が成り立たないよな。 私だって「もう Vox でいいぢゃん」と思ってるし。

Vox を使い出してはっきり分かったことだが, 普通の人は「不特定多数の読者」を想像できない, もしくはそれを意識して記事を書くことは相当なストレスになる, ということだ。 それは「ブログ」が日常生活の延長線上に乗って来れば来るほど, そして Web コンテンツ間の相互関係がフラットになればなるほど大きな問題になっていく。 だから 6A は Vox を出したのだ。 Vox ならユーザそれぞれの「想像力の地平線」をストレスなくマネジメントできる。

もうひとつ言わせてもらえば, 普通の人は「何か」をやりたいから「ブログ」を使うのであって「ブログ」を使いたいから「ブログ」を使うわけじゃない。 なのに「ブログ」の管理に追われてしまうのは理不尽である。 Movable Type もそうだが, 今の blog ツールはプログラムとデータの分離ができていない。 新しいバージョンになるたびに画面のレイアウトがへしゃげて最悪の場合は記事そのものが行方不明になる。 そんなく〇ったれなツールを使い続けるだなんて苦行僧かよ。

blog に限らず巷にあるほとんどの Web アプリケーションのダメなところはユーザにメンテナンスやチューニングを強制させるところだ。 Web アプリケーションがプロシューマたちのオモチャであった「古き良き時代」ならそれでもよかったのかもしれないが, その他大勢の消費者はそうはいかない。 今の Web アプリケーションのほとんどは「管理者」と「利用者」を分離しないと成立しない。 つまりその Web アプリケーション(blog でも SNS でも SBM でも)は「利用者」のものではないのである。 そういう意味で今の Web は全く自由ではない。 自由を謳えるのは「管理者」と「利用者」の両方をこなせるごく一部のプロシューマだけである。 それ以外の人たちにとって「Movable Type vs WordPress」なんちう図式はやっぱり無意味だ。

ちなみに私は WordPress が PHP ベースであるというその一点において導入を諦めた。 色々遊んでみたけど, PHP はどうしても好きになれない。 MS の ASP を連想させる時代遅れで杜撰な設計がそう思わせるのか? まぁ手軽さも ASP なみだけど。

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2006年11月25日

☆ 「オーマイニュース」が自殺!

もうこれは笑うしかない。 彼等の考える「市民ジャーナリズム」とは所詮マスコミの「システム」を模倣する体のいい盆栽に過ぎなかった。 しかしそれももう終わったことだ。

これは最近は私がよく書く「支配(コントロール)への幻想」そのものだ。 彼等のシステムにおいては「議論」や「意見」はコントロール可能なものであり, またコントロールしなければならないという強迫観念に完全に憑かれている。 それは平野デスクの

「編集部としては誹謗中傷は多寡の問題ではなく、ゼロにしたいと思っています」

という言葉で見事に表されている。 更に笑うのは同じく平野デスクの

「反対があるのなら、きちんと議論して、説得していくしかないと思う」

という言葉。 彼の中では議論と説得はイコールなのである。 議論をする際, そのホストには当然何らかの「思い」があって, そこに向かうようある程度のシナリオを立てる。 しかしシナリオ通りに行かないのが「議論」であり, またシナリオ通りに行ってしまうような「議論」に価値はない。 それなら「通達」で充分だからだ。 彼等が「オーマイニュース」上でやったのは議論ではなく通達であり, それを悟られないよう「きちんと議論して、説得していく」などということを言ったりする。 そこに嘘がある。 これはただの出来レースなのだ。

私たちはこの「オーマイニュース」の有様に似たものを20世紀の後半にたくさん見てきた。 例えば日本各地で行われた原発の建設ラッシュ, あるいはなんの役に立つんだかさっぱり分からないダムの建設, あるいは誰も通らない山奥の高速道路, 等々だ。 彼等の目的はただの「通達」であって「議論」や「説得」はただのカモフラージュに過ぎなかった。 「オーマイニュース」の嘘はそれらの模倣に過ぎない。 それが透けて見えるから批判が集中するのだ。 「オーマイニュース」の編集者達の脳みそはまだ20世紀に留まったままなのだろう。

完全なコントロールが最終的に目指すものは「静寂なシステム」であり, それは「死」そのものである。 「オーマイニュース」はシステムの熱量死に向かって三途の川を渡り始めた。

(追記) 参考:

☆ 文字集合と文字エンコーディング

あれ? Unicode の文字集合っていつの間に 32bit になったの? って E0000-E0FFF の領域があるや。 どひー。 私のときは 31bit って習ったのに。 いや, 違うな。 Unicode は 32bit で ISO/IEC 10646-1 (の UCS-4)が 31bit なのか。 UTF-8 も Unicode と ISO/IEC 10646-1 では違うみたいね。 ISO/IEC 10646-1 は最大6バイトまでのエンコーディングだけど Unicode は4バイトまでらしい。

ちなみに昔社内向けに書いた解説ドキュメントを(社外秘部分を取り除いて)公開しています。

文字コードを「文字集合」と「文字エンコーディング」に分けて考えることはソフトウェア・エンジニア必須のスキル。 ただ上記のドキュメントは5年以上前に書かれていて古すぎるので(まだ ISO/IEC 10646-1 の文字集合が BMP にしか割り当てられてなかった頃の話), 最新情報はその辺で見繕いましょう。

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2006年11月26日

☆ 「普通の人」

「とっくに「Movable Type の落日」は始まっている」に対して「「普通の人は普通の人は」って言い過ぎ」という意見が。 折角いい話なんだから Lingr に投げるかしてくれればいいのに。 もし私が「はてブ」をチェックしない人なら(まぁチェックするのは私じゃなくて Bloglines だけど)ただの愚痴で終わっちゃうよ。 もったいない。

「とっくに「Movable Type の落日」は始まっている」だけ見ると分かりにくいかもしれないけど, あの記事で言う「普通の人」っていうのは「プロシューマ」や「ギーグ」の反対語(つまり Default)だと思ってくれていい。 あるいは「普通の人」を「消費者」と置き換えて読んでくれてもいい。 私は以前から両者の間にはある種の断絶があると思っていて, この場でもしばしば指摘している。 あの記事もそういったものを前提に書いている。 ただし私は今のところそれを何らかの二項対立や「文明の衝突」に持っていく気はないのであんなへんてこな書き方になる。 申し訳ない。 もちろん両者の間に無限の立場があることは承知の上だ。 (正直に言って私自身の立場が「プロシューマ」にも「消費者」にも固定されないしね)

「普通の人」と「プロシューマ」との間にある(ように見える)「ある種の断絶」というのは, お互いの「想像力の地平線」が重ならないために起こるのかも知れない。 ならば両者を「接続」する何らかの仕掛けがあればいいわけだ。 あるいは別の視点もある。 「想像を絶する存在」をどう許容していくかという話だ。 自らの想像を絶する存在を(ハザードとして)拒否あるいは無視してしまうのは生理的に正しい反応かもしれないが, それが存在すること自体を他者がコントロール出来ないのであれば上手に付き合っていくしかない。 なんでもスルーすればいいってもんじゃないのだ。 ただし「システム」は基本的に Exception を排除する方向に機能する。 もしそれを許容するなら意図的に「例外マーク」を外さなくてはならない。 (外すだけじゃ済まないけどね)

とまぁこんな感じで「普通の人」という表現の背後にあるものを感じ取っていただければ幸いです。

☆ 2007年版『理科年表』

2007年版の『理科年表』では例の惑星新定義の話は反映されないそうだ。

「いきなり外すと読者を混乱させる」ってどんな読者を想定してるんだか。 まぁ時期的に2007年版では無理だよな。 話は冥王星だけに留まらない。 惑星の分類そのものが刷新されたんだから, まずページ構成から変わるはずである。 いや, 大変だと思うよ, 実際。 編集者の中でも葛藤があると思うし。

☆ 「秀丸離れ」計画 2

どうなんでしょうねぇ。 最近は私の周囲で「秀丸」な人はあまり見ないですねぇ。 わざわざシェアウェアを買って使う人はいないのかも。

私が DOS/V から Winfdows (3.1) に乗り換えたときは事実上「秀丸」しか選択肢がなかった。 っていうか Windows プラットフォームでフリーなエディタというものがそもそもなかった。 当時は Vz Editor (これもシェアウェア)の作者が「秀丸があるから Vz の Windows 化はやめた」とかなんとか(なんだったか忘れたけどコンピュータ雑誌上で)言っておられたくらい評価が高かった。 今はフリーのエディタもたくさんあるし, ソフトウェアエンジニアなら統合環境に組み込まれたエディタで必要充分っていう人も多いだろう。

申し訳ないが xyzzy などの Emacs 系は(私にとっては)論外。 xyzzy にするなら vi モードが使える ViVi のほうがマシ(もっとも ViVi はシェアウェアなので今回は使えないけど)。 テキストエディタというのは文房具なので機能性よりも手に馴染むかどうかが重要。 私が言うカスタマイズはあくまでもキーバンド等の基本機能のチューニングのことだ。 マクロを弄ったりする気はない(いや,昔は弄ったりしてたんだけど,もうそんな元気もないし)。 既にあるものはありがたく使わせてもらうけど。 頑張らなくても使えるものがあるなら頑張る必要なんてないでしょ。

手に馴染むエディタとそうでないエディタでは生産性も3倍以上違う。 頭で考えるよりも早く手が動くようなものでなければ話にならない。 これは「秀丸が最高で他はダメ」と言っているわけではない。 私の場合は DOS 時代から染み付いた癖のようなものがあって, それに忠実に合わせてくれるエディタである必要があるのだ。 「とっくに「Movable Type の落日」は始まっている」でも書いたが, 合わせるのは人間側ではなく, あくまでもツールであるべき。 何故ならそれは道具に過ぎないのだから。 テキストエディタに関しては今やそれができるだけの選択肢がある。

Emacsian な人はそっち系のエディタを使えばいいし, カーソルを移動させるのに思わず hjkl キーに手がいってしまう人は vi モードのあるエディタでもいいだろう。 DOS 時代の名残でファイルを開きたいのに思わず F1 キーを押してヘルプを表示させてしまう人は(それは私だ)その手のカスタマイズが出来るエディタにすればいい。 今までエディタといえば Windows 付属のメモ帳しか使ってこなかったという人は TeraPad のようなエディタのほうが向いているかもしれない。 何がいいかというのは人によって様々だし, どちらが優れているというようなものでもない。

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2006年11月28日

☆ "GnuPG 1.4 and 2.0 buffer overflow"

というわけで, GnuPG の 1.4 系と 2.0 系にバッファオーバーフローの脆弱性が報告されています。

"Exploiting this overflow seems to be possible."

だそうですのでお気をつけを。 まっそのうち修正版が出るでしょう。 ちなみに 2.0 は今のところソースコードのみの配布でバイナリは出てない筈。

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2006年11月30日

☆ 「当たり前の話」が大事

「HiromitsuTakagiのブックマーク」で紹介されてたので読んでみる。

おおっ, こっちのほうが分かりやすい。 つか「本物のプログラマ」じゃなくても普通はそう考えるよねって話だ。 「専門家」のキャンペーンに惑わされて右往左往するからおかしなことになる。 この手の話はいくらスキル(技能)を上げても身につかない。 何故ならこれは技術の問題だからだ。 技術的には一言で済むような話でもインプリメントの段階では無限のバリエーションが生まれる。 だからインプリメント段階で場当たりな対処をいくら覚えてもきりがないのだ。 しかし今の世の中に溢れる「セキュリティ」問題を扱う専門家達の多くは明らかにトンネル視野(Tunnel Vision)に陥っている。 インプリメントにしか目がいかないからその場限りの対処か極端な対処しかできない。

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