拙作のバージョンアップ。 なんだかんだと作業を開始してからリリースするまで2ヶ月近くかかってしまった。 人月で言えば1または2人日程度の量なのだが,色々ありまして。 すみません。主な変更点は以下のとおり。
2003年05月01日 Verion 1.0.4b (βバージョン)
・ロシア語のリソースを追加した。(自信なし)
・GnuPG のレジストリ設定から gpg.exe のパスを取得するようにした。
・--use-agent オプションに対応した。
このロシア語が曲者だった。 せっかくユーザの方からリソースファイルをいただいたので何とか反映しようと思ったのだが, テキストエディタで編集するとファイルが壊れちゃうのよ。 しょうがないのでリソースエディタ上でチマチマと...
もう一個の目玉は --use-agent オプション対応。 WinPT Tray に同梱されている gpg-agent.exe と組み合わせて使う。 これがかなり便利。 しかもパスフレーズの入力に標準入力を使わなくて済むのでセキュリティ上も多少有利か? (主に海外から)要望の多い機能だったので対応出来てホントによかった。
まずはめでたい! 日本語版が出るのは今年末だそうだが, 前みたいに売りっぱなしじゃなくてちゃんと障害対応もやってくれるのならそのくらい待ちましょう。
GPL などにはないというけれど, 作者は GPL で全然 OK のつもりでも作品が著作権や特許に抵触すれば結局それなりのペナルティを払わざるを得なくなる。 GNU やメジャーなオープンコードプロジェクトがうまくいってるのはその辺の法的な問題をちゃんと回避できるように(ライセンス以外の部分で)自衛しているからだと思う。 そういう意味で CC ライセンスのコードはちっとも厳しくないし, むしろ明文化することでより自覚的に行動できるメリットもあると思う。 私は CC ライセンスツールは今のところ「戦略商品」だと思っているので, コンビニエンスストアほどにはお手軽に使えなくて当然だと思う。 この辺は Mat さんあたりとはちょっと考えが違うかも。
更に「時限」の問題について:
「日詰明男氏による "operation x" 構想」 っていうのはちょっと面白そうかな。 これについてはまた後日。
面白い! これも「時限」の問題の一種。 個人的には, ネット上での個人活動は2-3年がサイクルではないかと思う。 つってもそこで寿命になるのではなくて別の形に変化または昇華していくサイクル。 逆に言えば, そう割り切って2-3年のスパンで区切りをつけるように行動計画を立てれば中身の濃い活動を続けていくことができるのではないかと思う。
私の話で恐縮だが, 私は1999年に SETI@home プロジェクトに本格的に参加した。 このときはプロジェクト自体「2年」という区切りがあったので私の方もそのつもりで計画を立てた。 しかし実際にはプロジェクトは2年間延長されもうすぐ5年目に突入しようとしている。 正直な話, ネット上の4年は長いと思った。 開始当初に比べればユーザのマシンのスペックもネットを取り巻く環境も激変してしまっている。 こうなると BOINC の進捗の遅れがもどかしい限りである。
山根信二さんにレスポンスをいただいた。 有難や。
まず,暗号方式について。 (つっこみより)暗号方式については具体的に「どれ」と決まっているわけではないのでは, という指摘。(確かにそうですね) もひとつは記事の紹介。
この記事の後半部分が特に注目かな。 RFID の単語がはっきり出てるし分かりやすい。 私が「中央集権的グリッド」の根拠のひとつとして考えていたのは (個人的なファンであるたるさんの記事は別にして) 「世界標準のOGSAの登場でWebサービスが変革する」 の記事。 あぁ, でもここも Sun が前面にでてるなぁ。
山根信二さんの記事(5/2 分)も注目だ。
なるほど ?
ん〜, でも例えば CC ライセンスを無保証にしてしまった場合, 派生作品を公開する個々人が著作権等を侵害していないかどうか調べなければならなくなる。 作品を保証することによるリスクと作品を無保証にすることによるリスクのどちらを取るかということになるのかな。 これは作品の内容によるような気がする。 例えばフリーソフトの場合著作権以外に特許に対しても配慮をしないといけない。 UNISYS の例など典型的だ。 こういう状況では保証することにあまり意味がない。 ある日突然ライセンスが変わったり未知の特許が浮上したりするからだ。 CC ライセンスがソフトウェアをサポートしないのはその辺に理由がありそうである。
まぁでも文学作品でも商標の問題とかあるからなぁ。 あぁ,そうか, そこでギコ猫の問題にもつながるわけだ。
おっ, FDL をめぐって何か面白い議論がされているらしい。
個人的には「オプション」扱いであるなら著作者によって改変不可な部分を設定するのは構わないと思うけどね。 運用上困るというなら GPL/GPL2 みたいに分けるとか。
今回の戦闘が「商周易姓革命」と完全にオーバラップしてしまう私としては, 米国艦上での終結宣言もできの悪いパロディにしか見えない。 しかもバグダッドでやるならまだしも, 自分の陣地内でしかもイラクの人達の多くがまだ起きていないであろう時間にである。 これから恐らく戦利品の争奪が本格化するだろう。 「商周易姓革命」の例に従えば当然まず身内からの分配となる。 しかし壊すだけ壊して放置プレイ中のイラクに対してはどう落とし前をつけていく気なのか。
機能部分には特にクレームがなかったのでロシア語のリソースを修正して正式版をリリース。 ついでに英語リソースについてもフォント名を「MS Shell Dlg」に変更した。
この「MS Shell Dlg」だが,一種の alias でレジストリに登録されている。 ところがよく調べてみると「MS Shell Dlg」が定義されているのは W2K 以降らしい。 つまり Win95/98 ではうまく動かない可能性がある。 MFC でラッピングしたダイアログの場合は MFC 側でプラットフォームに依る違いを吸収してくれるそうなのだが, 拙作はバリバリの Win32API で実装しているため設計を根本から見直さないと無理。
できれば全てのリソースを「MS Shell Dlg」で統一したかったのだが日本語に関しては今回は諦めた。 Becky! 2 を Win95 で動かしている人の話は聞いたことがあるので,簡単に切り捨てるわけにはいかない。 まして Win98 は(サポートが終了しているとはいえ)バリバリに使っている人も多いからなぁ。
う〜む, そんな機能があることも知らなかったり。 まぁHTMLメールの方は Becky! 側の設定でかわせるが, Web ページの方はついうっかりということもあるからなぁ。 というわけで, ML に問い合わせ中。
...うーむ。 ML の反応がほとんどない。 私が朝投げたメールも帰ってこない。 どうなってるんだろ。 反響があり過ぎて向うでパンクしてるとか。
と思ったら修正版(2.05.11)がリリースされている。 さすが乗松さん,こういう時は仕事が速い。
「つっこみ」 でリクエストがあったので,ちょっといじってみました。 INI ファイルの [Settings] セクションで
[Settings]
MDalgo=RIPEMD160
ってな感じで指定すると署名に使うメッセージダイジェストアルゴリズムを指定できます。 ただし INI ファイルに直接書くので Becky! が動作中は変更できません。 また相手が知らないアルゴリズムで署名すると相手側は検証できなくなります。
今回はここ以外特に告知せずお道具箱(https://baldanders.info/spiegel/archive/gpg-pin/)に置いておくだけにします。 試したい方は勝手に取っていって下さい。 バージョンは 1.0.5b です。 反響があって需要がありそうなら正式に盛り込みたいと思います。
正直な話, 今のバージョンはもうあまり弄りたくないんだよねぇ。 特にリソース周りはひとりではメンテできないところまで来ちゃってるし。 やっぱいちから作り直さんとダメかなぁ。 でも普段の日はあまり時間が取れないってのが...
如何にして今の憲法は生まれたか。 個人的には特に9条とのからみで考えてみたいところである。
面白い話だが, ある商品を使うのにその中身を知らなければならないというのは, 業界・メーカー・技術者の傲慢だと思う。 殆どのユーザは「パソコン」をやるために「パソコン」を買うのではない。 トラブルの改修や学習のコストをユーザに支払わせるような極悪非道を平然とやるところが「パソコン」業界以外のどこにある? 例えばケータイを使うのに TRON を知る必要があるのか?
BkGnuPG 1.0.4 と 1.0.5b でバージョン表記が古いままになっていた。 申し訳ない。 バージョン表記部分のみを変えたものに差し替えた。 機能に変更はないので既に適用している方はそのまま使っていただいてもかまわない。
4月にでた対談本。 まだ買ってない。 もう少し資金繰りが良くなったらね。 「読冊日記」の 5/1 の記事がなかなか興味深い。
GnuPG 1.2.2 がリリース。 ページ上はまだ告知がないようだが, ftp では既に取得可能。 念のためアナウンスメールに載っていた MD5 値を挙げておく。
4e1b357b22e1d45d14d340ce03d39b63 gnupg-1.2.2.tar.bz2
01cf9c6b949603d0511f6fc07bc758d2 gnupg-1.2.2.tar.gz
bbb2691b0322f570c7e683049ba3c777 gnupg-1.2.1-1.2.2.diff.gz
7f7f4b5312f3ebddc67eba0b6a8661a4 gnupg-w32cli-1.2.2.zip
で,早速導入してみた。 以下がクレジットおよびサポートアルゴリズムの表示。(一部伏せ字)
C:> gpg --version
gpg (GnuPG) 1.2.2
Copyright (C) 2003 Free Software Foundation, Inc.
This program comes with ABSOLUTELY NO WARRANTY.
This is free software, and you are welcome to redistribute it
under certain conditions. See the file COPYING for details.
Home: ****************
サポートしているアルゴリズム:
公開鍵: RSA, RSA-E, RSA-S, ELG-E, DSA, ELG
暗号: 3DES, CAST5, BLOWFISH, AES, AES192, AES256, TWOFISH
ハッシュ: MD5, SHA1, RIPEMD160, SHA256
圧縮: Uncompressed, ZIP, ZLIB
ちうわけで, SHA256 がサポートされるようになった。 めでたい! GPGrelay 経由だが OpenPKSD とのやりとりも問題なさそうである。
うお? GnuPG の アナウンス ML 経由で bugtraq の報告が! まだちゃんと読んでいないが, 1.2.1 以前のバージョンにはセキュリティ上の問題があるらしい。 1.2.2 で FIX しているので是非アップデートを!
どうも噛み合ってないような。 (日記と時事 & ML という)異なる土俵・媒体で書いているのだから議論になりようもないか。 『中央公論』 2003年1月号の特集記事は私も読んだが, 失礼ながら森山和道さんの記事が運用上のセキュリティやユーザのプライバシーについて言及しているようにはとても読めない。 問題の存在を提示するだけでは言及していることにはならない。 私達ユーザ(あるいはもっと受け身的に「消費者」)が知りたいのは問題の本質は何でありそれに対してどう対処している(しようとしている)かである。 そしてそれらについて具体的に説明してはじめて「言及している」と言えるのだ。 あの特集でプライバシーの問題について某かの suggestion を提示しているのは山形浩生さんの記事くらいで, あとは行政や業界に対する提灯記事にしかみえなかった。(5/5 に補足があります)
そういえば 『中央公論』 の次の次の号(2003年3月号)の「情報自由論」から東浩紀さんが「プライバシー」について書いておられる。 「プライバシー」について考えるということはこれだけ大変な事なのである。 多分すぐに答えはでないだろう。 現時点で RFID タグなどを使ったトラフィック解析は社会的コンセンサスが得られていないとみなすべきだ。 それを行政や業界が「分かっている」つもりになっているという状況があるなら非常に危険だと思う。
[memo:5793] で多分私の放言についてコメントをくださっていて非常に恐縮している。 「官僚」 と十把一絡げに書いてしまったのは確かにマズかったかもしれない。 申し訳ない。 ただし私は「官僚組織」については今だに不信感を持っている。 「上意下達」型コミュニケーションは未知の問題や変化に対応できないからだ。
ぶはは!
yomoyomo さんからツッコミをいただいたので補足(というかいいわけ)をしておきます。 IC タグの話じゃなくて 『中央公論』 2003年1月号の特集記事の話。
確かに「提灯記事」は言い過ぎかな。 最近情緒的な表現が多いなぁ。 気をつけます。
『中央公論』 2003年1月号の特集記事は, 「世界がサイバースペースと融合する日」 というサブタイトルのとおり, もともとセキュリティやプライバシーについて論じる場ではなかったと認識している。 読んでいない方のために各記事のタイトルを一応挙げておくと
の4つ。 このうち森山和道さんが書いておられるのは最初の記事と三番目の記事。(最初の記事は青山祐輔さんとの共著) 「発行前から時代に取り残される住基カード」という副題がついているのは最初の記事ですね。 書評を書くのは私の手に余るのでベタな感想を書いてしまうと
という感じ。 そしてこの中でユーザの立場で書かれているのは2番目の山形浩生さんの記事のみだった。 もちろん業界や行政の立場で書くことは必要なことであり悪いことだとは思わない。 しかし一方で東浩紀さんが同じ号の「情報自由論」でこれからの社会における「セキュリティ」について前半のまとめをしておられるのと比べると見事なコントラストを成している。 (繰り返しになるが)これらの記事を以ってセキュリティやプライバシーについて言及しているとはとうてい思えない。 私がつい「提灯記事」と情緒的な言葉を書いてしまったのはそういうことなのです。
もうひとつ書いておくと IC カードと IC タグではセキュリティやプライバシーについて異なる議論が必要だと思う。 上記の特集記事で森山和道さんや山形浩生さんが指摘しておられるが, IC カードでマルチアプリケーションを組み込むようになると, アプリケーションの組み合わせによってユーザは複数のカードを使い分けその時々で異なる振る舞いをするようになると予想できる。 そしてその「異なる振る舞い」を保証することがユーザのプライバシーを守ることにつながるのではないかと思う。 しかし IC タグの場合はユーザの意図に関係なく常に「検出」されてしまう。 その「検出」されてしまうことと個々人の守りたいプライバシーとをどう折り合いをつけていくかが鍵になるだろう。(もちろん今やプライバシーと匿名性はイコールでないことは認識する必要がある)
うちのことかな,ひょっとして。 萎えますか,困ったな。
というわけで少しリフォームしてみました。 これ以上は勘弁してください。 つか, この文字数の多さで既に「優しくない」コンテンツなんだよなぁ。 今月からはなんとか文章量を今の 2/3 に抑えたい。 って, もうこんだけ書いてて無理かな。
.NET framework を入れなきゃいけないってんで今まで避けていたのだが, SharpReader がかなりいいらしいという噂を聞き覚悟を決めた。 SharpReader の最新版は 0.9.0.1。 使ってみた感じは確かにいい。 FeedReader より扱いやすい気がする。 もちろん日本語も全然 OK。 RSS の文字エンコードが UTF 以外でも読み込めるのも嬉しい。
最近 .NET framework をベースとしたアプリケーションが増えてきたねぇ。 こうやって少しずつシフトしていくのかな。
Site Map や Antenna & Links の更新スケジュールを変更した。 0, 7, 8, 9, 12, 15, 18, 20, 22時の計9回の更新。 アクセス解析を見ると夜中よりも朝や昼の方が人が多いみたいなんだよねぇ。 早朝と宵の更新は主に私用。 特に個人でサーバを公開しておられる方には日に24回も見に来てさぞ迷惑だったと思いますが, 以後このペースで勘弁してください。
毎度の事ながら連休明けはしんどい。 もともとスロースターターでなかなかエンジンがかからないのに GW ですっかり錆ついちゃってる模様。 昨日なんか寝ながら仕事してたし。(^^;)
ちうわけで, (小金ができたこともあり)久し振りに行きつけの店でアブサンで晩酌。 ママに博多土産を貰う。 明太子ポッキー。 博多の飲み屋は若い娘が多くてとてもよいところらしい。 3軒ハシゴして6,000円で済んでしまうのも素晴らしい。 何で博多の風俗カタログの女の子って口を隠すのかねぇ。 ビミョーに変。
そうそう, 本(つかコミックス)もいくつかまとめて購入。
ああああっ, 偏ってるなぁ。 『中央公論』の先月号も買った。 まだ読んでない。
RFID 反応リンク集は結構あちこちで参照されているらしい。 騒動というほどではないと思うのだが(そもそも議論として成立してないし), これだけ長く引っぱれるということはみんな関心を持っていると好意的に解釈すべきなんだろうか。 だとすればよいことである。 「羊堂本舗」の 5/6 の記事を見るとアメリカなどでは既に色々議論が行われているらしい。 これからでも遅くないので日本でももっと色んな場所で議論されることを期待します。
日本人ってどうしてこうプライバシーの問題に無頓着なのかねぇ。 Web Bug だって日本では殆ど話題にならないし。 日本って国は海外の議論の成果だけをいいとこ取りして問題の本質を微妙に避けているような気がする。 プライバシーについての議論を避けるためにプライバシーの問題を個人情報の問題に置き換えて考えてしまう。 でも本質的な議論を怠っているため, 例えば 「RFID の出力する情報は明らかに個人情報じゃないのでプライバシーへの懸念はないだろう」 と短絡して考えてしまう。 あるいは 「RFID って Cookie みたいなものぢゃん?」 というような単純な発想しかしなくなる。 したがって対処も「後追い」で「場当たり」なものになってしまう。 対処のための余計なコスト(お金の問題じゃないよ)を払わされるのは結局現場のエンジニアなのに。 これが今の日本の悪循環だと思う。
これなんスかね。 「考えている」 ってのは。 「レンジでチン」 じゃないみたいだけど。
先日挙げた山形浩生さんの記事がネットで公開されてます。
タイトルからして違うんだけど更に校正されているのかな?
改善になっているようでよかったです。 私,こういうセンスはからきしなので読みにくかったりする場合は遠慮なくツッコんでください > ご来場の皆様
...まぁ限界はあるのですが。(本当は table も外したい)
うちのアクセス頻度ですか? トップページしかチェックしてないのでアレなのですが, トップページに限れば今のところ 100から190ページビュー/日 くらいでしょうか。 もしそれ以上なら, うちからというより RFID 反応リンク集からの流れでしょう,きっと。
笑うのは(いや,笑っちゃ申し訳ないが) 「おうちでできる天文学」 のアクセス量。 移転前のサイトを閉鎖したらアクセスが一気に5倍増。 殆どの方は「飛ばされて」来ている様子。 告知の仕方が甘かったかなぁ。
産経新聞ってどういう組織なんだろう。 これじゃヤクザだよ。
面白い! これって専門分野じゃなくても, 例えば「常識」を出題する某クイズ番組の問題が妙にマニアックな内容だったりするとかって奴かなぁ。 「周知」とか「常識」とか「定説」とかって単語は今や本来の意味を失っているような気がする。
一体どういう統計なんだろうねぇ。 そもそも「PC」の定義が曖昧。 普通「PC」と言えば「Programmable Controller」を指すのだが, 文脈からはそうは読めない。 きっと「パソコン」のことなのだろう。
私には「パソコン」を買わない人の方がまっとうに見える。 多くの人にとって今や「パソコン」は必須の道具ではない。 比率的には逆だと思っていた。 えっ,私。 そりゃ私にとってはメシの種ですもの。 みんな「パソコン」というブランドイメージに騙されてバンバン買ってくれれば間接的には商売繁盛!
うーむ, 最近すっかり 「RFID 反応リンク集」 のウォッチャーと化してるなぁ, 自分。 書きたいことは色々あったが Sheepman さんがきっちり書いて下さっているので, 私はその記事にもうちょびっとだけ補足することで満足することにしよう。
自らの「プライバシーを確保する」というのは, 人同士が自由にコミュニケーションを行うための基本戦略であり, ひいてはその国や地域の文化の問題なのである。 故にプライバシーの問題はまず規範のレベルで議論されるべきであり, それを補佐する形で法やアーキテクチャについての議論が行われなくてはならない。 そもそも日本では最初の「規範のレベルで議論」がまるでできていない。
office さんのコメントは秀逸。 いや前半の RFID の話じゃなくて後半のバイオメトリクス認証の話。 認証技術としてまるで不完全なバイオメトリクス認証に何故みんなこだわるのかとても不思議だったのだが, 認証ではなく顧客管理として期待されているという話に大いに納得してしまった。 確かに顧客管理として使うなら認証情報が変更できなくても問題ないし(むしろできない方が都合がいいし), 認識に誤差があっても致命的な問題にはならないわけだ。
実は『中央公論』の2月号は買ってなかった。 不覚。
どうしたんだ? メチャメチャ面白いじゃないか,5月号。 斎藤環さんの時評と東浩紀さんの「情報自由論」以外にも面白い記事がたくさんある。 特に東浩紀さんの「情報自由論」はよい。 こちらを先にちゃんと読んでおけば 「RFID 反応リンク集」 関連のコメントがもう少し変わったものになったかも。
やっと本が買える状態になった。 これから読みます。 感想は後日。
そうか北朝鮮か。 でもまだ入ってないということはないような気がする。 本当に SARS が高い感染力を持っていて WHO が示したような高い死亡率であるなら, 国境付近を中心にとっくに蔓延しているような気がするぞ。
あぁあ, きっぱり言われちゃってるよ。 まぁみんなそう思ってるんだろうけど。
ひょっとしてソフトバンクって今だに IT バブルの幻想の中で生きてるのかなぁ。 今のソフトバンクや関連会社の動きって, 10年以上前の日本でバブルがはじけた直後の成金企業の行動パターンにそっくりだよな。
自宅のサーバにも (白板代わりに) Wiki を導入しようと思うのだが, 同じのじゃ芸がないのでやっぱ Hiki か PukiWiki かなぁ。
そうそう, うちの Wiki を少しいじった。 番号付き箇条書きを扱えるようにしました。 改造内容は YukiWikiInstallMemo に書いておいたのでよろしかったら参考にどうぞ。 『Wiki Way』 には色々カスタマイズ方法が載っていたが, これ以上はいじる気にならないなぁ。 それよりもバックアップの自動化を何とかしないと。
「憲法後進国の日本が憲法的原則に無知なままでいるうちに、憲法先進国の米国が憲法的原則ならびに国際法的原則を踏み越え始める」 という文章を読んで昨日のプライバシーの話をまたも思い出した。 すなわち日本人の「プライバシー」の概念は今だに19世紀レベルなのに, 世界ではとっくに21世紀の議論が行われている。 20世紀がすっぽり抜け落ちている日本人は今のところ21世紀の議論に参加できないでいる。 参加できないから「電波」のスティグマを貼って黙殺することでその場をしのぐしかないわけだ。
「山形浩生勝手に広報部:部室」 で「xyzzy がよさげ」な発言があったので該当ページを見に行ってみる。 なんか情報が古いような。 秀丸は現在 3.19 で多言語化にも対応してるよん。 いや,そうじゃなくて, ビックリしたのは 「現在、エディタ等のツールで単にUTF-8というとこのBOM付きということになっています。」 という記述。 そうなの? じゃあ,秀丸は例外扱いなのか? ちうワケで少し調べてみた。
このうち UTF-8 について述べているのは RFC2279 の方だが, BOM についての言及がない。 これは UTF-8 が BOM を定義していないか許容はしているが無視しているかのどちらかだと思うが, これだけでは分からない。
一方 UTF-16 について述べている RFC2781 では, 0xEFFF コードは 「ZERO WIDTH NON-BREAKING SPACE」 と定義されていてテキストの先頭に置かれた場合のみ「署名」すなわち BOM として機能するとある。 更に UTF-16BE と UTF-16LE についてはテキストの先頭に BOM をつけてはならない(MUST NOT)とある。 つまり BOM が常にテキストの先頭にあるとは限らないし, テキストの先頭にあっても BOM として機能するとは限らないのだ。
ここで以下のように考えることができる。 つまり UTF-8 については事実上 BOM は定義されておらず(そもそも定義する事に意味がない) 「ZERO WIDTH NON-BREAKING SPACE」 という文字として扱うべきである,と。 こうなると勝手に EF BB BF オクテット列を付加する Windows の notepad や, 逆に付加されているものを勝手に取り去ってしまう秀丸のような実装は少々マズいということになる。 ただし RFC2781 によると, Unicode 標準では BOM が処理の途中で取り去られる可能性について言及があるらしい。 ちなみに BOM の有無でエンコードを識別する実装があるそうだが, これは明らかに間違っているということになる。 つか,プログラム設計の怠慢だよな,それ。(notepad だってそんなマヌケなことしないぞ)
しかし実際問題「見えない文字」を扱うのはかなり面倒であるような気がする。 これが BOM だけの問題なら xyzzy のように異なる文字エンコーディングとして扱うという実装も「アリ」かもしれないが, テキストの至る所に (ユーザが視覚等で認識できない)「ZERO WIDTH NON-BREAKING SPACE」 が出現する可能性があるというのならテキストエディタで編集するのは無理なんじゃないだろうか。 個人的には UTF-8 においては 「ZERO WIDTH NON-BREAKING SPACE」 はできるだけ除去するような処理系の方がスマートな気がする。 電子署名を行う場合でもテキスト全体から 「ZERO WIDTH NON-BREAKING SPACE」 を除去した上で署名・検証処理を行う方が混乱が少ないように思う。
つか, UNICODE(ISO/IEC 10646-1)ってホンマに面倒だよなぁ。 まぁもう普及しちゃってるんで今更「やりなおせ」とは言えないけどさ。
SACニュース No.717 より。
しまった,読み落としてたな。 H-II ロケットの放送について宇宙研某教授がNHKに抗議したところ, 回答が 「これはフィクションですので」 だったのだそうだ。 わはは! 日本PTA全国協議会とやらに聞かせてやりたい話だねぇ。
お出かけ前だが, インパクトのあるタイトルなので思わず考えてしまった。 私もちょっと書いておく。
「そもそも系」つうと原理主義っぽいがそうでもない。 どちらかというと「語りなおし」という感じ。 この辺の話は東浩紀さんと大澤真幸さんの 『自由を考える』 で色々書かれていて面白い。 つまりポストモダン化により哲学や思想の言葉が弱くなり, 入れ替わりに心理学や社会学といったものが台頭しそれぞれの学問分野の言葉で語りなおされている, という指摘。 essa さんは 「哲学が実用的なスキルになりつつある」 と指摘されていたが, 実はそうではなくて今世の中に求められているのはもっと工学的なものなのかもしれない。 そもそも哲学は「スキル」たり得ないしね。(あっシャレちゃった (^^;)) 大澤真幸さんは, この現象は 「ワンポイントリリーフ」 でいずれ他の学問にとってかわるかも知れない, とも書いておられるけど。
...続きはまた後程。
続き。
議論で一番重要なのは, 議論そのものではなく, 事前の擦り合わせ(ネゴシエーション)だ。 同じ言葉を使っていても人や立場によって微妙に意味が異なる。 その差異を事前に確認し把握しておかなければ議論になる筈がない。 しかし, 実際のところ専門家ほど事前のネゴシエーションが下手なのではないかというのが最近の私の印象。(もちろんなんにでも例外はある。念のため) だからジャンルの異なる人達との間で議論が成立せず単に物別れに終わってしまう。
職業エンジニアの場合, 事前のネゴシエーションは「ブリーフィング」や「レビュー」という形で行われる。 私達にとっては人によって考えや言葉が異なるというのはむしろあたり前のことであり, それらの差異を越えてメンバや顧客との間のコミュニケーション・インタフェースをどうとっていくかがプロジェクト成功の鍵となる。 ちなみに, もしインタフェースを縦方向にとれば従来の「上意下達」型の構成になり横方向にとれば XP のような構成になるだろう。 これらはやり方の問題であり, どちらが優れているというわけではない。
「そもそも系」が目立つようになってきたということは議論前の準備が進められていると好意的に解釈することもできる。 そして, もしそうであるなら, これからやっと本当の「議論」が行われるようになるのかもしれない。
ついでに。 公開された場での議論は当事者同士で納得するだけでは不十分。 常にパネルディスカッションの感覚を忘れないようにしないと。
面白いので, もう少し 「圏外からのひとこと」 をネタにいくつか。
「コンピュータ技術と現代社会」 はなかなかそそる内容だが, 「コンピュータの技術、思想は、現実社会を周回遅れでなぞっている」 っていうのはどうなのかな。 実は「周回遅れ」どころではなく「止まってる」のではないか, というの私の印象。 「オブジェクト指向」 が世に出はじめたのが1980年代(だよね?)。 あれから十数年経っているわけだけど, 要素技術的にはいくつか革新があったかもしれないが大枠としては全く変わっていない。 その辺は 「「コンピュータ革命はまだ始まっていない」,アラン・ケイ氏,未来を語る」 でも指摘されている。 それに技術が思想の後追いになる状態というのはむしろノーマルで, どちらかというと(技術そのものではない)「実装」に「思想」が追いついていない状況の方が問題。
あと XP のひとつひとつの要素は別に新しいことではなく, 昔から現場のエンジニアたちが経験的にやっていることだ。 XP の新規性は XP の手法そのものではなく, 手法を組み合わせてシステムとして最適化していることにある。(だからあれはプロジェクトのスタイルとして徹底させないと実質的に意味がない) 従って XP が(「古臭い」という意味で)ポストモダニズム的というのはある意味で当たっている。 「その先」がまるで見いだせない,という意味でも。
優秀な人間ばかり集めても優秀な人間ばかりの組織にはならない。 それが「組織」の性質だ。 もし Google が本当に優秀な人間ばかりの集団だというのなら, それは「組織」として機能していないということだ。 故に既存の企業組織が Google を真似ようとしても恐らく失敗する。 企業としての真価が問われるのは単なる集団が「組織」へと変わる瞬間である。
ようやく出ました。 今回は色々時間をかけているようなのでちゃんと直っていると期待したい。 まぁ私にはもうあまり関係ない話だけど。
物凄いテストを実施するなぁ > 品川区
いや,品川区に限らないだろうけど,きっと。 今の子供に比べれば私の時代の「受験戦争」や「学歴社会」の方がよっぽど呑気だったような気がするよ。 私らの頃は学歴の差は「ゾーニング」の問題だった(つまり地位と稼ぎで区別(差別)された)けど, 今は存在そのものが「フィルタリング」されてしまうからねぇ。
「ただのにっき」 より。
うちは今のところ公開落書き帳として使ってるけどね。 日記との違いはフローかストックかの違い。 あとからログを追えるといっても基本的に日記は時間が経てばスワップアウトしちゃうものだし。 実際そういう使い方してる人は多いと思うけど。 コラボレーションを目的とするならもっと人が集まる場所 (例えば 結城浩さんの所の YukiWiki とか) でやった方が効率がいいし私も多分そうすると思う。(もちろん人を集める目的で Wiki を開設するというのもアリ)
Wiki の面白さは 「どうにでもできる可能性」 と 「どうにでもされる可能性」 が併存していることにあると思う。 これらの可能性の範囲内で個人の落書き帳にでもあるいは複数の人が集うコラボレーションツールにでも好きなように使えばいい。 それが成功するかどうかはあくまでも「結果論」だろう。 「べき論」で語るには Wiki はあまりにも自由度があり過ぎる。 Wiki のコンテンツ上での個々人の振る舞いはあくまでもコミュニケーション戦略として考えた方がスマート。 Wiki そのものの問題ではない。
面白そうなのでこちらでも紹介。 多分に政治的な臭いもしないではないが, 私もライトアップ反対派なのでこういうイベントは大歓迎。
あぁ, うちは blog じゃないですよ。 だから変なサーチの対象にしないでね。 便宜上自分でも「日記コンテンツ」と呼んでるけど, 本当は日記のつもりでもない。 しいていうなら戯れ言・落書きコンテンツ。
どのようなレトリックを使おうと, これは明らかにフィルタリングだよな。 批判されるのならともかく, 私は身に覚えのない分類を受けるいわれはないので。 今の時代,何かに分類されているということは差別されていることと同等だと思う。
今だって十分高い頻度でクロールしてるじゃん。 2,3日前の戯れ言がもう検索対象になってたりするからなぁ。 うちみたいなところにクロールしに来なけりゃ一次情報へのヒット率は上がると思うぞ。 どうせ分類されるのならブラックリスト扱いの方が Cool。
あぁ, アンテナね。 確かにアンテナもフィルタリングの一種なんだよなぁ。 うちのアンテナに登録されることでそのコンテンツの価値が貶められるということはあるか。 ううむ...
Becky! 2.06.00 がリリース。 プラグインの API が追加されたのでマイナーバージョンをいっこ上げたらしい。
WideStudio も v3.20-4 がリリース。 クラスライブラリを static リンクできるようになった。 こいつは嬉しい。 マニュアル類もだいぶ整理されているようだ。
面白いねぇ。
Wiki 運営のためのガイドラインやローカルルールを作ろうという考えは,
一見有意義にみえるが
「BBS/ML で発言する前に FAQ を読みなさい」
という発想と同じで実効性 皆無 に疑問がある。
ローカルルールや FAQ を読むような人は端から参加するコミュニティで
「期待される振る舞い」
ができる人であり,
そうでない人は FAQ やローカルルールなんか頓着しない。
いままで Wiki コンテンツが比較的うまく機能しているのは
「期待される振る舞い」
ができる人の方が多数派だからに過ぎない。
話は変わるが, 「2chニュース速報+(【出版】本にICタグの導入を検討・万引防止や顧客情報把握=出版・書店業界[030512])」 はとても楽しく読まさせてもらった。 このスレッドで展開されているやり取りはまるで子供向けのマンガのようなステレオタイプにハマっている。 私のような素人でも最初のいくつかの発言でその後の展開が読めてしまうくらい陳腐だ。 何故か。 私は最近 2ch に対する評価を変えつつある。 2ch は今や「マス-コミュニケーション」として機能している。 マスコミといえば TV や新聞などの放送形式のメディアを連想するが, インタラクティブな「マス-コミュニケーション」があるとすれば 2ch のように機能するのではないか。 面白いのは 2ch というメディアの中でユーザは極めて「動物」的に行動することだ。 それが無意識の行動なのか意識的な「振る舞い」なのかはよく分からないが, そういうマンガ的な「動物」として振舞うことで 2ch の中で一種の「世論」とでも言うべき幻想が共有されているのはとても面白い。 これは Wiki のコミュニケーションスタイルにも関係していると思う。 Wiki というシステムにはそぐわない「べき論」が横行するのもその影響があると思う。
ん〜, 技の世界だねぇ。 萌え萌え。
今月号の『中央公論』がこれまたつまらない。 そうそう, 今回の情報自由論では RFID の話がちょこっと出てくる。 スマートカードと RFID がごっちゃになってるように読めるけど意図的にそうしているのか? 相変わらず東浩紀さんの文章は読みにくい。 しかも話の途中で終わってる。 ぐゎ, 来月も読めってか。
J2SE 1.4.1_02 がリリース。 以前のバージョンは DoS をくらう可能性があるため要アップデート。 Opera のようにパッケージに Java が付属している場合には特に注意すること。
申し訳ないです。 自分で書いたことを完全に忘れてました。
オープンコードプロジェクト・コミュニティの「技術者=ユーザ」の思想は一部の人達には魅力的かもしれないが,もはや現実的ではない。 この思想は1980年代までの「冷戦構造下の時代」のものだ。 インターネットが市場に開かれた結果ユーザの圧倒的多数は(技術者でもユーザでもない)「消費者」になった。 「ユーザ」ならいずれ「初心者」から「パワーユーザ」になる人もいるかもしれないが, 「消費者」は「冷戦構造下の時代」の「技術者=ユーザ」とは全く異なる原理で行動する。 東浩紀さんの言う「動物」というやつだ。 この現実から目を背けるべきではない。
世の中に溢れる「商品」はそういう市場の構造をよくわかった上で作られている。 「商品」は「消費者」に「提供する」ものでなく「選ばせる」ものなのだ。 そういう原理で行動している人達が「パソコン」を不便に感じるのはむしろあたり前で, そういう基本的なニーズに鈍感な「パソコン業界」こそどうかしているとしか思えない。
「技術者=ユーザ」の思想は圧倒的多数を誇る「消費者」をフィルタリングする。 私達「消費者」は自分たちが技術者でもユーザでもないと「自覚」しているからだ。 かといってそれはエリート思想でもない。 「消費者」をフィルタリングするということは「消費者」からフィルタリングされることと同じだから。 これはまさしく「ひきこもり」の論理だ。
例えば「シミン」や「トンデモ」や「デンパ」を異端視して切り離す思考は心地よいが, 結局切り離されているのは向こうではなく「私」なのである。 私達はひょっとしたら自らの意志で切り離されている。 もし世の中で「自覚」が促されているとしたら, このフィルタリングの感覚なのかもしれない。
ようやく 『自由を考える』 読了。 つっても今回は久し振りにヘヴィだった。 ちゃんと理解できているか自信がない。 もう2,3回読み直すことになるだろう。 したがって感想文は無期延期ということで。 まぁ上の文章もいろいろ影響を受けた上でのモノなので, それを以って感想文に代えるという手もあるか。
この本を読みながらずうっと頭の中でイメージしていたものがある。 『テスラ 発明的想像力の謎』 に出てくる「陰影礼賛」について書いた話だ。 一年前とはいえ「権力」や「自由」や「セキュリティ」についてのイメージが貧困で今読むとこっぱずかしい限りなのだが, 基本的な考えは今も変わっていない。
(ちなみに私は今だに「セキュリティ」を技術要件の一種だと思っている。 そのせいもあって東浩紀さんの「セキュリティ」という言葉にとまどってしまうのだが)
そういや 「働かざるもの食うべからず」 の話って 『リナックスの革命』 でも出てたな。 『自由を考える』 では「かなり困った議論」と評されていたけど。 まぁこの歳で今だに「レイバー」レベルの生活をしている私には関係ない話だな。
塀といっても刑務所じゃなくて銀行の塀ね。
銀行系の Web アプリケーションって事あるごとに批判されているのに, いまだにこんなところもあるのか。 殿様商売って奴?
脳みそに入れ物が追いついていないってことかな。 実際,今の MPU って速すぎるよね。
S/W 技術者にとっては H/W は「仕様通り動かないもの」に決まっているので, こんなのは別に驚くに値しない。 もっとも H/W 技術者に言わせると「動かないのは S/W の所為」らしいけど (^^;)
先日, 「Buffer overflows in multiple IMAP clients」 というセキュリティインシデントが公開されたのだが, 例によって Becky! 2 も該当していたらしい。 というわけで 2.06.02 がリリースされている。 IMAP をサポートするメジャーな MUA は軒並み該当しているようなので, Becky! 以外のユーザもお手持ちの MUA のインシデントレスポンスに注意する必要がある。
Becky! 用の spam フィルタが設計から根本的にリニューアル。 今までは From フィールドのアドレスを手がかりに判定を行っていたが破綻寸前状態だった。 新しい版ではメールヘッダに含まれるホスト(IP アドレス)情報を手がかりに判定を行うようになった。 もちろん 100 パーセント防げるわけではないし冤罪の可能性も依然残るのだが, プラグインとして実装することを考えれば妥当な割り切り方といえる。
最近はベイジアンフィルタが流行らしいが, それでもすり抜けや冤罪の可能性を排除できない。 語彙を解析するシステムであるため語彙を学習させる必要があるが, 当然ながらこれは言語によって分ける必要がある。(Gauche:SpamFilter 参照) 日本語圏のユーザであれば少なくとも英語と日本語に対応させておかなければならない。 あとちゃんと spam に対応するならハングルも必要か。 それにベイジアンフィルタの構造が分かっているならそれをすり抜けるようなコードを書くことはそれほど難しくはないだろう。 最近の spam の多くはランダムな文字が羅列するだけだったりするので(spam を送信すること自体が目的化しているらしい), 今後も有効であり続けるかどうか怪しい気がする。
そして, ここが一番肝心なのだが, 単なる spam フィルタは文字通りメールをフィルタリングするだけで問題の解決には貢献しない。 まさに昨日書いた話をそのまま spam フィルタの問題として置き換えることができる。 というわけで BkASPil の最大の売りは「abuse への報告を半自動化する機能」だと思ったりするのである。
ちなみに BkASPil はまだβ版で運用も一部実験中なのでご注意を。
なぁんだ。 北朝鮮が絡んでたのか。 「何で今頃」 というのが正直な感想だったが納得してしまった。 しかし「日本人」ってのはつくづくおバカな集団だよなぁ。 私も同じ日本人だから気をつけないと。
Nullify 版の GnuPG 最新バージョン。 クレジット表記とサポートアルゴリズムは以下のとおり。 対称暗号とハッシュのアルゴリズムはこちらの方が豊富。
C:> gpg --version
gpg (GnuPG) 1.2.2-nr1
Copyright (C) 2003 Free Software Foundation, Inc.
This program comes with ABSOLUTELY NO WARRANTY.
This is free software, and you are welcome to redistribute it
under certain conditions. See the file COPYING for details.
Home: ********
サポートしているアルゴリズム:
公開鍵: RSA, RSA-E, RSA-S, ELG-E, DSA, ELG
暗号: 3DES, CAST5, BLOWFISH, AES, AES192, AES256, TWOFISH
ハッシュ: MD5, SHA1, RIPEMD160, TIGER192, SHA256, SHA384, SHA512
圧縮: Uncompressed, ZIP, ZLIB
Nullify 版では バージョン 3 形式の RSA (要するに PGP 2.x 時代の) 鍵を作ることができる。 コマンドラインは以下のとおり
C:> gpg --expert --pgp2 --gen-key
gpg (GnuPG) 1.2.2-nr1; Copyright (C) 2003 Free Software Foundation, Inc.
This program comes with ABSOLUTELY NO WARRANTY.
This is free software, and you are welcome to redistribute it
under certain conditions. See the file COPYING for details.
すきな鍵の種類を選択してください:
(1) DSAとElGamal (既定)
(2) DSA (署名のみ)
(4) ElGamal (署名と暗号化)
(5) RSAv3 (sign and encrypt, PGP 2.6 compatible, not recommended)
どれにしますか?
今となっては歴史的価値しかないような気もするが, RSAv3 じゃないと困るという方はこちらをどうぞ。
ここのプロバイダにお金払い込むの忘れてた。 明日慌てて振り込みますのでどうか許して!
...やだよ,ビンボーは。
先日の話を読んでくださっている方もチラホラあるらしい。 これ以上は私にもヘヴィ過ぎる内容なので続けるのが難しいのだが, 放置してしまうのには惜しいので, このテーマについてはこれからも小出しで少しずつ考えてみることにする。 別に特定のサイトへの反論というわけではなく, 今までの話の補足&余談という感じで書いてみる。
前にも書いたことがあるが, 私は意識的に「利用者」と「消費者」を書き分けている。 「ユーザ」という場合はもう少し曖昧で, 両者を併せた総称として用いることもあるし「利用者」の言い換えとして用いることもある。 これに作り手としての「作者」(特定の人をさすのではなく,制作活動に直接関っている個人またはプロジェクトをさす)を加えると面白い関係になる。
『自由を考える』 や 「情報自由論」 で東浩紀さんが頻繁に引いておられるが, 『人間の条件』 に 「labor」,「work」,「action」 という一種の「色分け」が出てくる。(まだ読んでない。機会があればそのうち) その 「labor」,「work」,「action」 と 「消費者」,「利用者」,「作者」 がキレイな対比になっているように思える。
この辺の話は『自由を考える』や「情報自由論」でも詳しく論じられているのでそちらを読んだ方が確実だが, 要するに昔は「作者」と「利用者」のみが「世界」を構成していて「消費者」はそこから外れた透明な存在とされていたのである。 この論法は今でも幅を利かせている。 が,実際には今の世の中はこのように単純ではなくなってしまった。 今は一人が同時に「消費者」であり「利用者」であり「作者」でありうる。 このように立場が輻輳する「世界」では昔のように「消費者」を透明な存在にしたのでは「記述」が難しくなってきている。
これは,ある人がコミュニティごとに異なる顔を持つとか,そんな単純な話ではない。 例えばネット上でなにかのコミュニティを形成する場合, そのコミュニティでは「作者」または「利用者」として振舞うことができるが, そのコミュニケーションを支えるネットワークインフラそのものは「消費者」として利用している。 アプリケーションやネットワークに詳しい人でもそれを支える物理的・経済的・政治的な意味での「網」にまで精通している人は少ないだろうし, 知っているとしてもそれに対して何がしかの影響力を持っている人は更に少ないといえる。 つまりネット上で行われる様々なコミュニケーションは既に膨大な「消費行動」の上になり立っているのである。
そういえば昔 Web が爆発的に普及しだした頃,昔気質の「利用者」が Web におけるネットワーク資源の浪費を嘆いた雑誌記事を思い出した。 今は Web どころかストリーム配信すらなんの罪悪感もなく垂れ流されているけど。 変われば変わるものである。
ここではネットを例にしたが,こうした「消費」に支えられた「利用」や「活動」の構造は至る所で見つかる。 私達は例外なく「まず消費者」なのである。 そして「消費者」としての行動原理を記述できなければ「自由」とか「プライバシー」とかいったものの意味を正しく捕らえることはできない。 古き良き「世界」の亜種としてしか「消費者」を認識できなければ, いずれ(東浩紀さんの言う)「環境管理型権力」に取り込まれてしまうだろう。 何故なら「環境管理型権力」は私達の「消費者」たる部分に働きかけるから。
以上の話に関連して最近思うのは 「もし本当にオープンコードが実現したらどんな世の中になるだろう」 ということだ。 『リナックスの革命』 のように薔薇色の未来が語られることもあるけど, 本当にそうなのか?
もしあらゆるソフトがオープンなコードの下に流通するとして, その時一番得をするのはより多くのリソースを「所有」する者ではないだろうか? ソフトウェアはバイナリコードよりもソースコードの方がコントロールしやすい。 ソースコードであれば世界で最も強力な権利のひとつ「著作権」で制御できるからだ。
皮肉にもバイナリコードはそのようなコントロールを緩和する方向に働いていた。 バイナリコードでは著作権を楯に相手をコントロールすることは難しい。 従って特許や商標といった間接的な手段をとらざるをえなかった。 あるいは「利用許諾契約」などといった妙ちきりんなライセンスだったり。
現時点では企業が抱えるリソースとオープンな状態で置かれているリソースは本当の意味で交換可能ではない。 しかし企業の持つリソースはいずれ寿命を迎える。 そうなれば本当の意味でソースコードは交換可能な価値として「流通」するようになる。 そしてその次におこるのはソースコードの囲い込みと独占である。 既にその兆候は顕れている。
PGP のソースコードを例にとれば分かり易いだろうか。 PGP のソースコードは完全にオープンである。 したがって公開されているソースコードを元に完全に同じものを独自にビルドすることも可能だと思われる。 アルゴリズムに問題があれば報告してより良い製品にすることもできる。 しかし公開されているソースコードをビルドして公開したり, fork させて新しいパッケージを作ることは許されていない。
本当にソースコードを「自由」にしておきたければオープンコードは必要条件かもしれないが十分条件になり得ない。 だからこそ十分条件を満たすための戦略が必要になる。 例えば GPL のような。 GPL はソースコードを「自由」な状態にするための戦略であり, それを使うもの(作者や利用者や消費者)に自由を与えるためのものではない。
訳された Mat さんも自信がなさそうだが... 確かにビジネスモデルとして考えた場合はかなり無理がありそうな。 無審査で原稿料貰うようなものだべ。
わわっ! 私はちっともえらくないです。 田舎の場末の三流プログラマです。 そういう立場でないと自由に戯れ言を書けないじゃないですか (^^;)
というわけで今回は essa さんへの返歌(にしては長すぎですが)という形で書いてみます。
私のここ2,3年のテーマは 「人はインタフェースだけでコミュニケーションできるか?」 です。 これは東浩紀さんの 『不過視なものの世界』 の影響を大きく受けてます。 これが実は私が読んだ東浩紀さんの最初の文章。
もともとは山根信二さんとの対談が読みたくて買ったんですけどねぇ。 私は1990年代以降オタク系の雑誌・書籍とか全く読まなくなってたし, いわんや批評系をや,です。
伝統的なコミュニケーションというのは何かを「共有する」イメージだと思うのですが, 今のように世の中がこれだけ細分化されていると「共有する」ことは難しくなってきています。 つまり 「人はインタフェースだけでコミュニケーションできるか?」 というのは, コミュニケーションのスタイルを「共有する」イメージから「接続する」イメージに変えていく必要があるのではないか, ということなのです。
この場合に鍵となるのは「インタフェースの公開」です。 今まで書いてきた「消費者」の話で考えるなら, コミュニティ側は「利用者」を中心とした伝統的なコミュニケーションとは別に「消費者」と「接続する」ためのインタフェースを示すこと, そして「消費者」側は示されたインタフェースに合わせて能動的に「接続する」ことが必要なんじゃないかと思います。 Linux が上手いと思うのは(開発コミュニティとは別に)ディストリビュータが「消費者」向けのノードとして機能している点です。
「消費者」として振る舞う際に重要なことは, 相手の提示するインタフェースをどこまで理解できるかということだと思います。(この場合必ずしも全てを理解する必要はない,というのがポイント) これはリテラシーと言い換えてもいいかもしれません。 そして「消費者」として振る舞うための「余地」を社会的にどう確保するかが現在の「自由」とか「プライバシー」の問題につながると思っています。
「富豪的な知恵」についても同様のことが言えると思います。 専門領域が細分化されるほど,あるいは深くなるほどお互いに知識を「共有する」ことが難しくなります。 従ってお互いに共通する部分を接続しあい, 敢えて相手の知識を「消費」的に扱うことで議論を深めることができると思うのです。 私はこのようなコミュニケーションスタイルこそ本当の意味での「コラボレーション」だと考えます。
「1984」的な想像力が時代遅れであるからこそ「ビッグブラザー賞」がジョークやパロディとして成り立っている, いうことを分かっている人がどのくらいいるのやら。 「1984」的な想像力から抜け出せない人に限って先の RFID の話も「デンパ」だ「妄想」だとか言うんだよなぁ。
「環和我話わわわわ」の 5/21 の記事と 5/22 の記事より。 言われてみればそうだ。 気がつかなんだ。 私の場合,名乗ること自体があいさつの一種と化してるからなぁ。 でも英文メールの場合は冒頭が名乗りではなく相手への呼びかけになっている。 なんでこんな使い分けをしているのか自分でも不明。
これ実はセキュリティ面で考えるととても重要な話。 メッセージに相手を特定するセンテンスと自分を特定する署名が含まれない場合には「なりすまし」が容易になるのである。
例えば Bob から Alice へ読むも恥ずかしい誹謗中傷メールが送られてきたとしよう。 Alice は Bob に仕返しをするために Bob といい仲の Chris にその内容を転送しようとするかもしれない。 このとき受信者を特定する情報が本文にない場合は(ヘッダ情報を改竄するのは難しくないため)比較的簡単に Chris を騙せる。 騙された Chris は Bob からひどい仕打ちを受けたと思うかもしれない。 この手のなりすましは暗号化でも回避できない。 電子署名を組み合わせれば回避できる場合がある。 (実はこの議論は「PGPよもやま掲示板」でもかなり交わされている)
こうやって考えると, メッセージの冒頭でまず相手へ呼びかける形であいさつをし, 末尾に自分の署名を入れるのはかなり合理的なスタイルであるといえる。 契約書の類いでもまず甲乙の名前を特定するところから始まるしね。
メールのテンプレートを少し変えようかな, と思いつつ放ったらかしなんだよなぁ。
わはは! この記事の影響で 「Matzにっき」 が slashdoted 寸前? (ってほどではない?) 凄い凄い。
ZDNet の記事を見る限り,
「42件」というのは IPA 経由の「ひも付き」プロジェクトに限っているように読める。
要するに,
この講演で「経済産業省商務情報局情報処理振興課・課長補佐」氏が「少ない」と言っているのは
「行政や企業にとって Controllable な」
プロジェクトを指しているのである。
もし日本発のあるいは日本人が大きく関与しているオープンソースプロジェクトがこれよりも圧倒的に多いというのなら,
むしろ歓迎すべき事態であると思うが。
個人的には「ひも付き」オープンソースプロジェクトが42件ってのは「多すぎる」と思うけどね。
前にも書いたがオープンソース自体は「自由なソフト」の十分条件を満たさない。
ソースコードを自由な状態にするためには戦略が必要だが,
「ひも付き」にすることがその戦略に沿う状況というのは限られているように思う。
コンピュータソフトウェアに限れば, ユーザにとって「日本発」であることのメリットは 「日本語によるサポートが期待できる」 ことくらいしかないような気がする。 従ってこの恩恵を受けられるユーザは日本語圏に限られる。
例えば GnuPG の場合は「ドイツ発」であることに重要なメリットがある。 このメリットは世界中の多くのユーザを幸せにする。 これがもし日本や米国ならここまで「自由」にできるかどうか非常に怪しい。 (「OpenPGPとPKI」 の備考, および 「Project Ägypten」 参照)
国家戦略的にオープンコードを考えるのならドイツのようなやり方こそ見習うべきだ。 なんのビジョンもなく金をばら撒き「ひも付き」プロジェクトを増やすだけではごく限られた人しか幸せになれない。 そんなことに税金を投入して欲しくない! (まぁくれるっつうなら何でも貰うけどね)
個人的には「ひも付き」プロジェクトっていい思い出がないんだよなぁ。 十数年この仕事してるけど, 毎日「日記」をつけさせられたプロジェクトは「あれ」ただひとつだけ。
今回の 『Embedded UNIX』 の特集は「ブロードバンドルータを作る!」。 萌え〜
実は宮台真司さんの著書を全く読んでいないことに気づき近所の本屋で探してみたが, 何故か 『憲法対論』 が見つからなかったので(あまり古いのは読みづらいと思い)取り敢えず『援交から天皇へ』を買ってみるが, 最初の1フィートで挫折。 そもそも読んでいない本の書評を読むくらい辛いことはないのだが, まぁ移動の合間にちびちび読んでいくことにしよう。
「トラヴィ」はあいかわらずだけど終盤が珍しく活劇っぽかったのでちょっと新鮮な感じ。
高木浩光さんの日記コンテンツはどれも必見だが, 今回のは特に重要な点を含んでいるように思えるので是非読むべし。 そして, ここが重要なことだが, この記事を読んで短絡的に「是非」を判定するのでなく, 高木浩光さんが披露しておられる思考プロセスから今の私達に欠けているものを見いだして欲しいと思うのである。
「「1984」な人々」 でも書いたが, トラッキング技術や監視システムへの懸念に対し過剰に同調してネガティブキャンペーンを張る人や逆に「デンパ」とか「妄想」とか「トンデモ」とかいった言葉を使って拒絶してしまう人というのは, 「1984」的な思想に取り憑かれている(つまり近代的な権力構造の中でしか想像力が働かない)のではないかと思ってしまう。 そして現状の日本というのはこの両者の間で引き裂かれているため合理的な議論ができなくなっているのではないだろうか。 「1984」とか「ビッグブラザー」などというのは前世紀の遺物であり, もはや「おとぎ話」でしかないことをしっかり認識した上でリスク・コミュニケーションに基づいた議論を展開する必要がある。
(5/29 追記) おっ, セキュリティホール memo に高木浩光さんの記事についてのコメントがある。
「ChangeLog で Web 日記」の 5/27 の記事に激しく同意。 それを踏まえて...
どうやら例の講演内容に反論しているつもりのようだが, かなり脱力する内容。 これに限らないが japan.linux.com って質が悪すぎるぞ。 それとも journalistic な記事を期待してしまう私のほうが悪いのか? まぁ「42件」の詳細が分かっただけでも収穫かもしれないが。 「ひも付き」ちうワケじゃないのね。
「Vzエディタ? ご冗談でしょう。ソースはついてくるけどさ。」
って当時パソコン通信を中心に Vz エディタの開発に携わってきたメンバが読んだら怒られるぞ。
あからさまに「私はパッケージしか知りません」って顔してオープンソースについて語ろうなんて。
「ハッカーは伝統的に反官の意識が強い」
なんていつの時代の話?
いつまでも「Σプロジェクト」の残滓に執着する官僚たち。
一方,ありもしない「べき」論で全てを語り尽くそうと躍起になる消費者たち(自戒をこめて)。
所詮両者はコインの裏表の関係でしかない。
みんなそろそろ「現実」に帰ろうよ。
例の MS が SCO から UNIX に関するライセンスを取得したという話でいろいろと邪推してしまう。 MS がライセンスを取得することで Linux にライセンス違反があるとする状況証拠を演出できるのだから MS はメチャメチャおいしいよなぁ, と思っていたが同じように考える人達はいるらしい。 今後どう展開するか色々と楽しみ。
こんな訴訟があったのか。 もの知らずでゴメンなさい。
つっこみより。
ここの簡易BBSは過去ログの保存ができないのでこっちに書き写しておきます。 情報どうもです。
Windows 用の Remailer/Nym 活用支援ソフト Private Idaho の作者が
来月に "Secrets of Computer Espionage: Tactics and Countermeasures"
という本を出版するそうです。
おもしろそうだけど、米ドルで $35 はちょっと高いなぁ・・・
でもこーいう本が出るとは、さすがアメリカはすごい。
日本でもコイズミ君とかカタヤマ君みたいな、ビッグブラザーな厨房が
いるから、無縁な話ではないかもしれないです。
http://www.eskimo.com/~joelm/
洋書はちょっと... どなたか翻訳してくださると嬉しいなぁ。
山形浩生さんに依るチョムスキーの著作の翻訳。 第6章「カンボジア」の部分。 例のポル・ポト政権の「大虐殺」はあったか? という部分だそうだ。
巷では色々あるみたいだけど, 私にはどちらの言い分も胡散くさすぎてあまり興味がなかったのだが, これをきっかけに少しは読んでみるか...
GnuPG 1.3.2 がリリース。 1.4 へ向けての開発用バージョン。 ソースコードのみの提供なので Win32 版は venona さんのページを参考に各自でどうぞ。
WinPT Tray 0.96rc2 もリリース。
「Matzにっき」 5/28 の記事より。 なるほど, 「オープンソース」 ってのは思想(もしくは手段・戦略)なのか。 じゃあ私も 「オープンソース」 という言葉は金輪際使わないことにします。 レッシグ教授に倣って「オープンコード」と呼ぶことにしよう。 今まで私が書いた戯れ言もそのように読み替えてください。 面倒なので直さないけど。
軽く grep してみたら「オープンソース」なるキーワードを使いだしたのは今月に入ってからと判明したので, 過去の記事で私が誤解している部分については修正・削除しました。 まぁ 「せち日記」 や 「開発日記」 ではもっと色々書いているだろうけど, その辺は若気の至りということでご勘弁を。 いままで「オープンソース」やそれを礼賛する人達にかなり胡散くさいイメージを持っていたのだが, これでちょっとすっきりした。
個人や組織・コミュニティにとっての「現実」が局所的なものであるとしても, お互いの「現実」を繋ぐことでコミュニケーションは可能な筈。 分かりあうことが, あるいは共有する事が不可能なケースでも「接続」することができるのなら「越境」できる。
「OpenPKSD Project Web log」 の 5/28 の記事より。
ぶはは! ナイスボケ。 座ぶとん2枚はかたいでしょう。
うぅわ, こんなものがあるのか。 他人事で読んでるうちはいいけど, ヘタな事を書くとすぐに吊し上げられるなぁ。
昔 Web が爆発的に普及しはじめた頃にも聞いたような話。 これを既視感という。
「K嬢の長野県政ウォッチング日記」 がなかなか面白い。 例の「長野県離脱」の話も書かれている。 広島に住んでいるいる私から見れば議論が起こるだけ羨ましい気がする。
面白い! これが本当なら米SCOはありもしない権利で「脅しをかけた」ことになるぞ。 やぁ,面白くなってきた。
「Esaka Takeru's Memo」 はなかなか面白い。 RSS Reader の巡回リストに入れてみた。
『動物化するポストモダン』 に現実感が薄いというのはむしろ当然。 2001年の著作ということもあるが, 「20世紀後半のポストモダン化を振り返ってまとめる」ことがテーマのひとつになっているので, ポストモダン後の「今」とは微妙にズレているのは仕方がない。 もちろん 『動物化するポストモダン』 がもう使えないというわけではないけど。 (つか 『動物化するポストモダン』 自体が巨大な「前書き」になっている)
まぁ 『動物化するポストモダン』 を読んで過剰にシンクロするよりは懐疑的に読んだ方がマシなのかも。
おっ
がアップされている。 つまり言葉の問題? ってこと? 私はもう見慣れちゃったからなぁ。 どのみち全てのジャンルを横断する「用語」なんてないんだから, 手近な「隠語」を使ってでも言う/書くしかないし, 聞く/読む側も「翻訳」を繰り返しながら地道にやっていくしかない。
yomoyomo さんの記事も勿論素晴らしいと思うのだが, 私にはこちらの方が断然説得力がある。 何故って, それは私が20年以上昔からの谷山浩子ファンだからである。 明るすぎる光(過視的な環境)では見えないものもあるのだ。 それは「星影」のようなものである。 私も今日からこのページを「ブ日記」と呼ぶことにしよう。
北朝鮮を中心とした極東情勢も本格的に動きだす気配? 肝心なところなんだからここで(昨年末のような)ポカしないでね > 小泉首相
男性は「強度」を女性は「関係」を指向する, というのはよく聞かれる話だが, 文章解析でも裏づけされたということなのかな?
上手い表現やね。 さすがプロは違う。 「承認される」よりは「カウントされる」という表現の方が感覚的に分かり易い。 これってもっと突き詰めると「自由」とか「プライバシー」とかの問題にも絡んでくる。
「プロの世界を垣間見た男(地球シミュレータ見学記・機器説明編)」 と併せてどうぞ。 さすが,分かっている人が書くと断然面白いねぇ。
まぁ最終的には当たり前の結論だったのだが,一応メモ。
いえいえ, 吊し上げになること自体はしょうがないとして(そういう風に書いた方が悪いんだし), コンテンツの対象が「誰でもない他者」から「具体的で顕名的な誰か」に変わっていくことへの畏れとでもいいましょうか, あるいは 「もう「戯れ言」が書きにくくなるなぁ」 という覚悟といったところでしょうか。
なんてものがあるのね。 企業もちゃんと考えてるってことか。
さて,仕切りなおし。 ざっと 「反応リンク集」 を眺めてみる。 「日本におけるオープンソース」 とふたつあるってのはちょっと不便かなぁ。 TrackBack は使い方がさっぱり分からん。 つか, TrackBack って blog 系コンテンツ以外を排除(フィルタリング)するシステムにしか見えない。 まぁ, それはともかく...
私は「Matzにっき」しか読んでなかったので, この盛り上がりっぷりに他人事ながら驚いてしまった。 まつもとゆきひろさんの主張はフリーソフト作者の立場として理にかなってるし, 話としては件の「経済産業省商務情報局情報処理振興課・課長補佐」氏のプレゼンテーションが拙いというだけで終わると思っていたのである。
問題はみんな「42件」にこだわり過ぎてしまったということかな。 やはり「強度」より「関係」を指向するよう日頃から訓練をしないとダメだなぁ。
「日本発」ってのもこだわり過ぎ。 「日本発」でナショナリズムを連想するのは邪推だと思う。 厳密な意味で日本にナショナリズムは存在しない。 ましてや官僚の発言にそのような意図があるわけがない。 ならば「日本発」の真の意図は「国内で調達が容易な」などと解すべきだ。 (もちろん純粋に国家戦略・外交戦略として「日本発」を指向する方向性もあり得る。 これは前に述べたとおりだ)
政府が欲しいのは調達が容易で(自分たちにとって) Controllable なシステムである。 最近になって MS 製品が避けられるようになったのは, MS 製品が Controllable ではないのでは,という重大な懸念があるからだ。 もしこの条件を満たすのであれば別にオープンソースソフトウェア/フリーソフトウェアである必要はない。 昨日紹介した OpenPKSD 成果報告会の話にも見られるように, 企業取り引きのような厳密な契約関係のないオープンソースソフトウェア/フリーソフトウェア製品について今だに懐疑的な人が多いというのが実情ではないだろうか。
そういう背景を考えた上で件の記事を見れば「なるほど無理もない」と思わなくもない。 批判や議論をはじめるならまずここを出発点とすべきである。 日本ではこうした懸念や疑問を「オープンソース」側と政府・官僚側との間で議論するチャネルがないのではないか?
さて, 今回私は「オープンソースソフトウェア」について大変な誤解をしていたことに気づいてしまったのだが, 「オープンソースソフトウェア」がきちんとした定義を持ち明確な適用範囲が存在する (そしてそれ以外の意味で使ってはならない) というのなら, この言葉を特定の思想を超える大雑把な「概念」として使うわけにはいかなくなる。 私が 「「オープンソース」という言葉は金輪際使わない」 と書いたのはそういう意味だ。 もっとも「オープンコード」にも同じような定義が与えられれば, それすらも使えなくなるわけだが。
「用語」にしろ「思想」にしろ定義を与えられ適用範囲が決められた時点でそれは「内部」と「外部」を持つ。 そして「用語」や「思想」では「外部」を記述できないため, 必然的にフィルタリングされ「存在しなかった」ことにされてしまう。 今はこのような現象が局所的にしかも頻繁に起こっている。 外部は「存在しない」ものなので, いつまでたってもどこにも接続しない。 「用語」や「思想」は今やその内部における個別の論議でのみ機能する。
しかし考えてみれば「オープンソースソフトウェア」や「フリーソフトウェア」で議論することに意味があるのだろうか。 個別の論議で用いるのなら工学的により厳密な GPL や BSD ライセンスをターゲットにした方がスッキリしている。 「自由」について議論するのなら「オープンソースソフトウェア」や「フリーソフトウェア」では定義範囲が狭すぎる。 「オープンソースソフトウェア」や「フリーソフトウェア」は「外部」からみれば方便のひとつに過ぎないからだ。
もうひとつ考えなければならないことがある。 それは「自由」というものが今や「交換可能」な価値として存在することである。 何と交換されるのか。 それは「便利さ」である。 なぜ人は監視カメラだらけのコンビニやスーパーで買い物をするのか。 現金ではなくクレジットカードで決済するのは何故? 素性の分からない Web サイトで個人情報を入力するのは?
日常生活に困らないほど「便利」であれば人は不自由を感じなくなる。 しかし「不自由でないこと」と「自由であること」は異なる概念だ。
同じことがソフトウェアにも言える。 「自由」を強烈に意識したコンセプトでリリースした製品であっても, それを消費する人にとって「コードの自由」は二の次の問題なのだ。 MS 製品がいろいろ言われつつも大きなシェアを占めているのはその便利さ故だ。 私自身今だにデスクトップ作業を Windows プラットフォームから他のものに置き換えることができずにいる。 (サーバサイドはかなり Vine Linux に置き換えたけどね)
作り手にとって「コードの自由」が交換不可能な価値であるにしても, それを享受するものにとってそれは「他の何か」に置き換えられる程度の価値でしかない場合がある。 それは政府調達のシステムでも同じことだ。 特に日本は欧米と違い「自由は勝ち取るもの」という意識が薄い。 「コードの自由」を守りたければ製品を提示しライセンスを設定するだけではダメで, もっと政治的な戦略をとる必要があるのではないか, と思うのである。