デバッグがうまくいかなくて煮詰まってくると色々と意味不明の妄想をするものである。 例えば「巨大ハムスターは可愛いか」とか「広島カープが最下位に落ちることはあり得るか」とか。
で,気分を切り替えようと久し振りに「オトナ語の謎。」をのぞいてみたら大変なことになってますな。 TV番組まであるのかぁ。特に「実践編:その18」と「実践編:その19」の昔話編がツボに入ってしまった。 桃太郎と猿と犬と雉はぜったいホワイトボードの前で打ち合わせしているに違いない。 気分転換どころか更に妄想が膨らむ膨らむ。 サザエさんの始末書メールも秀逸。 夜中に客先で吹き出してしまったじゃないか。 私が ML 等で書いてるメールの文面は結構「オトナ語」であることに改めて気がつく。 やぁねぇ。 「ビジネスマンの頭が固いなんて、うそっぱちだぜ!」
こういうのって大抵一過性のイベント(おまつり)に終わるものだが, さすが「ほぼ日」は違う。 だてにカップラーメン出してない。
先日 「私の中で櫻井よしこさんは「私は番号になりたくない」キャンペーンのせいですっかり株を落としている」 などと, もしご本人が読んだら訴えられかねない失礼なことを書いたわけだが, 山根信二さんの 9/3 の記事を読んで反省する。
この戯れ言でも事あるごとに「スティグマはよくない」と書いときながら自分でそれを作ってどうする。 というわけで 『あなたの「個人情報」が盗まれる』 をちゃんと読もうと決心する。 『個人情報保護法入門』 も読みたいのだが不案内なジャンルの本を探すのは大変なんだよなぁ。
最近有名人が次々はてな日記を開設したり自前で blog を立てておられる。 たとえば
とか。 あとはてなで猪木俊宏さんの日記を見つけたり。 某 ML でお見受けした時もかなりアクティブな印象だったが, その印象を裏切らない私好みの内容。
しかし東浩紀さんとか(以前から自前のサイトをもっておられるとはいえ)物書きを本業にする人が日記サイトで書きたい放題書く状況ってのは... 2,3 年前までは日記コンテンツというのは「所詮便所の落書き」(私が言ったんじゃないよ)だったのに凄い時代になったものである。
見方を変えれば単に「自前のツールを作って披露する」というのは以前ほどカッコ良くなくなっているのかもしれない。 もちろん現在のツール作者が尊敬され(クールと呼ばれ)なくなっているわけではないが, 単にツールを発表するだけではなくツールを含む「サービス」(「オトナ語」で言えばソリューション?)を提供しているところに人が集まっているように見える。
喩えは悪いが, 昔はナイフ一本でキレイに鉛筆を削る子供が尊敬されていたのに, 今はシャーペンやボールペンといった既製品をカッコよく使いこなしている子供が「クール」と言われる。 そういう時代になっているのかもしれない。 ちなみに私は製図用シャーペンじゃないとものが考えられない。
まぁ分かる人から見れば「今更」な話かもしれないが, 私は既製品をそのまま使うのが気分的に好きじゃないので, 今の状況はとても新鮮に見えてしまうのだ。
つっても, 今巷で流行ってる Sobic.F とかじゃなくて何故か Yaha.P とかいうやつ。 最近は ML を整理したりして一週間くらい放置してもせいぜい 300-400 通くらいなのだが, 今回は 600 通以上あってそのうち半分はウイルス入りメールだった。 spam フィルタも通過してしまうのでモロに受信箱に入ってしまう。 日に100通以上もの spam に悩まされている方の気持ちがよく分かった。 確かにこれは仕事にならん。
感染した誰かの IE キャッシュからこのアドレスが選ばれたのだろう。 どうも同じところから発信されているみたい。 それも日本じゃない。 台湾? ここを読んでいる方はお気をつけを。
なんとサイトー企画さんから「リンク URL 変更のお願い」のメールをいただいてしまった。 確かに私は秀丸のユーザだが, リンクはアンテナ内に勝手に張っているものなので少々驚いた。 アクセス履歴からあちこちのサイトにメールを送っているのだろうか。 これって結構な力仕事(オトナ語)の筈である。 ご苦労様です。
以前は秀丸のダウンロードページにリンクを張っていたのだが, 今回からトップページに張り替えた。 シンプルな構成で更新履歴をメインに持って来ているのには好感が持てる。 企業サイトは是非見習って欲しいものだ。 確かに美麗な構成は目にインパクトがあるが, それは最初の一回目だけである。 リピータは結局それぞれのページの差分情報のみをチェックする。 であるなら, はじめからトップページは更新履歴をメインに構成した方が「親切設計」というものであろう。
CERT/CC の PGP 鍵が新しくなっている。 CERT/CC はドキュメントの署名等に PGP 鍵を使っていて, しかもほぼ毎年更新している。 (コメントからの推測だが)最近は鍵管理を GnuPG 1.0.6 で行っているようである。(ただし鍵は RSAv3 鍵)
一方, JPCERT/CC は頑(?)に古い鍵を使い続けている。 どっちがいいかは意見が分かれるところであろう。
textfile.org の記事によると, JCraft って本社が仙台なんだって。 それしらんかっとってんちっとんしゃん。
J-rcom の 9/7 付けの最新情報が面白い。 神浦元彰さんは以前から北朝鮮からの SARS 感染者の流出を懸念しておられるが, このコメントはそのひとつといえる。
そういや,もう秋なんだねぇ。 紅葉狩り(=行楽)の季節。 日本じゃすっかり SARS は忘れられてる。 医療機関とか行政とかちゃんと準備してんのかね。 全く聞こえてこないのだが。 そういう情報をフォローするのが「マスコミの使命」なんじゃないの。
へぇ,こんなのがあるのか。 面白い。 こういう問題意識は重要だよね。
でも 『コモンズ』 を読んで 「『コモンズ』は日本の法事情に合っていない」 とか 「レッシグは専門分野以外に疎い」 とかいう感想(または書評)を持つのは間違いだと思う。 何故ならそれはこの本の「大前提」だからだ。 『コモンズ』を読んで『コモンズ』の通りに行動したり単に批判したりするのは誤読だと思う。 『コモンズ』はマニュアルではない。 例えば無線技術の部分だけでも, その筋の専門家が見れば「何言ってんだ,こいつ」みたいな感想を持つかもしれない。
Creative Commons は確かに『コモンズ』の実装のひとつであり,これに対して色々言うのは有効だろう。 実際に英語の ML ではかなり面白い議論が展開されているらしいのだが英語不得手だしなぁ。 日本語でもそのうちこういう議論ができるようになるといいのにねぇ。 でも日本語で議論できるようになっても,脳みそ関係の貧しさ故,結局傍観するしかないのだが。
Google がどうこう言う部分は私にはよく分からない。 確かにそういう議論はあちこちで聞かれるみたいだけど, あまり懸念と感じない。 想像力が足りない?
(追記 9/9) 山根信二さんのコメントも参照すべし。
回文素数を Emirp と言うらしい。 んで, その回文素数を探すプロジェクトがあるそうな。
なんか面白い話に発展しているそうで。
自分を「個性的」だと思うこと, あるいは自分が「個性的」だと言われることってのは, 基本的に「自分」が没個性的であるという前提の上に成り立つものだよね。 「自分」が没個性的で他者と交換可能な存在であると意識的・無意識的に認識しているからこそ「個性的」という評価が成立するんだと思う。
『世界に一つだけの花』を「オトナ語」風に翻訳すると「同業他社との差別化を図ることによりこの世界(業界)で生き残ること」かな。 わざわざ「同業他社」と言い回したのには意味がある。 たとえどれだけ個性的であっても, それはたかだか自分が存在する(分断統治された)島宇宙の中の話に過ぎないからだ。
だから出た杭が打たれることを恐れなくてもいい。 「自分」で「自分」の島宇宙を設定してその中で「オンリーワン」を宣言すればいいのだ。 「オンリーワン」を脅かす存在が出現したなら, それらを排除するよう「世界」を再設定(リセット)すればいい。 「世界」に「一つだけ」の花になるのではなく, 花が「一つだけ」になるよう「世界」を設定すればいいのである。 意地悪く言ってしまえば『世界に一つだけの花』ってのはそういう唄だと思う。(すンごい曲解)
今思いついたけど, 上記の解釈でいくとアメリカの「ユニテラリズム」ってまさに『世界に一つだけの花』戦略だよね。
「2:6:2」の話に戻ると, 何だか凄い新鮮な感じである。 「2:6:2」(あるいは「2:8」)の法則を自らの「出世」に絡めて考えるとか。 でもサラリーマン的な発想で仕事をしていたら一生サラリーマン以外の存在にはなれないと思う。 サラリーマンとして出世しても知れてるし。(サラリーマンがダメという意味ではないよ) 一方「会社」側は従業員をサラリーマン的な発想で行動するよう「研修」という名の下に条件付けを行う。
経営者になる人ってだいたい学生時代から考え方が違うよね。 うちのボスは「35歳で社長になる」という目標を設定して学生時代もサラリーマン時代も過ごしたそうである。 大事なのは将来的なビジョンをどこにどう設定するかであろう。
そうそうホトトギスの句,私もひとつ思いついた。
啼かぬなら交換しようホトトギス
初期不良は無償交換が基本, という意味です,ハイ。
おぉ, このトピックスはちゃんとテーマが統一されてるぞ。
面白い! こういうことを思いついてやっちゃうところがアメリカのいいところだよなぁ。 「5秒ルールの科学的有効性」を調べた高校生も凄いけど。 日本でも今度の総裁選に立候補する方々を是非「フォークト・カンプフ検査」にかけていただきたい。
「kayakayaの日記」 9/4 の記事より。(日付間違えてました。ゴメン,ペコン)
「民生(Commercial)品」という言葉は普通「軍用(Military)品」と対になるものなので, 好意的に解釈すれば「軍用にも耐え得る暗号とその評価システムを開発する必要がある」というところだろうか。 もっともそこまで意図した発言かどうかは疑問が残るけど。
暗号開発と評価を「国家戦略」と位置付けて取り組もうという姿勢は評価する。 つか,今までアメリカの NSA (NSA は NIST にアドバイスする立場でもある)やドイツの BSI (ドイツ政府の取り組み例については「OpenPKSD活用法: クライアント編」の備考が参考になる) に相当する機関が存在しなかったことの方が問題。 CRYPTREC はあるけど(仕事ぶりはともかく)権威としてはアドバイスのレベルにも達していないような。
(追記) 山根信二さんからコメントが。 上記の皮肉を山根さんは上手に拾って下さっているが, 加えるとすれば, インフラ構築の不備を「縄張り根性」だとか「縦割り行政の暗黒面」だとかいう言葉で回収しようとするのはもう勘弁して欲しい,という思いがある。
念のため書いておくが CRYPTREC の仕事は本当に素晴らしいと思う。 しかしこの成果が(いかなる理由があろうと)活用されないのであれば, それは政治・行政の無能以外の何者でもない。 e-Japan に期待するのは「日本に金とコンクリートをぶち込む」土建屋政治の再現ではない。 伝統的な行政スタイルに横穴をあける「リストラクチャリング(再構築)」だ。(今風に言えば「政治のリフォーム」だな (^^;)) そもそもこれは小泉内閣の「公約」ではなかったのか。
私は全てのシーンにおいて自分のことを「私(わたし)」と呼ぶぞ。 「私(わたし)」で女性を連想するのは偏見じゃないのか? ジェンダーを意識しない言い回しが「私(わたし)」なんだと思う。 他の呼び方はともかく「俺」って(私の感覚では)すごく呼びにくい。
「儂(わし)」って言う人はいる。 うちのボスは「僕」って言うなぁ。 そうそう,出雲弁では「わたし」も「あなた」も「わ(わー)」である。 複数形は「わやつ(わーやつ)」。 年寄りしか使わないけどね。 一人称と二人称が同じ呼び方のところって多いよね。 大阪とかは二人称でも「自分」って呼ばれるし。
...まぁ,ここは文学とは程遠いところだからな。
まず Ruby を 1.8.0 に上げた後, nDiary 0.9.3.2 を導入。 私の好みにより「Code:」コマンドの出力をいじった以外は変更なしで大丈夫のようである。 wyrss.rb も not さん仕様に変更して問題なく動作。
よし,おっけ!
おおっ,性能評価の基本ですな。 しまったなぁ, 1.8.0 に上げる前に nDiary の処理速度をメモっておくんだった。 秒単位で動くような遅い処理系では性能評価を行うという発想に至らないところが私の甘さか。 仕事で使うとなれば徹底的に調べるんだろうけど。
教訓的なお話。 でも日本には本当の意味での「パブリック・ドメイン」がないよね。 ライセンス上「パブリック・ドメイン」と同等に扱うやり方もあるけど, でもそれは権利の全てを放棄したわけではない。 著作権期間が切れた後の「作品」の扱いもよく分からないし。
この世の中には「誰のものでもない」作品というものがあり得ることを, 法的コードで明確に示すべきじゃないかと思うのだが...
ようやく IT@RIETI のコラムをまとめ読み。 例の座談会も読む。
RFID のコラムは特に必見。 なんちうか, 本当に勘弁して欲しい。 ってか,これもう読んでるじゃん,私。 いかんなぁ,印象に残ってないのか?
最新の東浩紀さんのコラムは以前紹介した山根信二さんの記事と併せて読むと面白いかも。 「ポップ政策」ってのは分かり易い「ふりがな」だな。 私も使おうっと。
例によって Trackback が何なのかいまだに理解できずにいるのだが, yomoyomo さんのところのやり取りは面白そうである。 このやり取りを見てむしろ私は「ブ日記」についてのやり取りの方を連想してしまった。 「ブ日記」にしろ「勝手に Trackback」にしろ, 「リンクされたくない」と「リンクしたい」との間の葛藤状態を悪夢のように何度もリプレイして見せてるに過ぎないような気がする。 それともこれは自分のサイト・コンテンツを「わが家」的に位置付ける日本のユーザ固有の問題なのか? でも日本の「家」にだって「土間」や「縁側」といったパブリック空間があるんだぜ。 最近流行の「リフォーム」ではわざわざ土間を潰してリビングにしちゃってるみたいだけど。
例えば, 「勝手に Trackback」はダメだけどコメント欄に URI を貼り付けるのはいいのか, とか, 日記/blog の書き手が他者のコメントを見つけて勝手にリンクを張って更に言及するのもダメなのか, とか色々考えてしまう。(ちなみにうちは全然オッケー)
読む側から見れば本文もコメントも Tackback もさして違いがない。 全体でひとつのコンテンツなのだから。 強いて言えば Tackback の方が(更にリンクを辿らないといけないので)読みづらいという程度。
...あぁ,やっぱり分からん。 何がいいんだ? Trackback。
って, もうリンク集ができてはる。
CryptoBytes Technical Newsletter の最新号(Volume 6, No. 2 - Summer 2003)が公開されている。 目次は以下のとおり
英語不得手だから読むの大変なのよ。 要約でいいから日本語版とかないのかねぇ。
早速「BkGnuPG」で試してみる。 まぁこんなもんか。 ありゃあ, BkGnuPG に関連づけられてしまっている方が... どなたかは何となく想像つきますが,どうもすみません。
下半分のコンテンツ一覧を眺めていて, ふと気になったので Google でもさらってみる。 うっ, やはり海外の漢字圏で補足されている。 やっぱ先日来のウイルスメールはこの辺が原因か? まぁそれはそれとして, 更に驚いたのは GnuPG の FAQ に Becky! と 拙作が挙げられていたことだったり。 どひー! (まぁ Becky! は海外ユーザが多いからなぁ)
あぁ, ここに載ってないからといって他の MUA が対応してないわけではないのでご安心を。 この辺の情報は(Windows 環境に関しては) 「PGP User's Manual for Windows」 が詳しいのでそちらをどうぞ。
(ツッコミより)
一応引用しておきますね。(発言が30超えると古い順で消滅しちゃうので)
「ここ1ヶ月ほどで学んだことは、当たり前のことですが、不用意にトラックバックすると、ひっそりいきたいのに検索ロボットにひろわれてしまうということでした(涙)。 (中略) 逆に言えば、自分のサイトを宣伝したい人にとってはどんどん有名な人のところにTrackbackすれば訪問者が増えるということなんでしょうかね。」
なるほど, これは気がつきませんでした。 核心をついているような気がします。 だから Trackback する人はその行動を自身でコントロールしたいと思うのか。
Trackback ってのは相手のサイト・コンテンツに勝手に自分のリンクを張る行為に等しいわけで, しかも相手が有名人だろうがなんだろうがお構いなしにできるのだから, (最近では断られることの多い)「相互リンクのお願い」なんかするよりよっぽど効果がある。 確かにこれは(一部の人にとっては)メリットかも。
Trackback とは別に最近気になるのは「referer のノイズ」とかいうやつ。 IE ユーザならみんな知ってると思うけど, IE の referer はあまり賢くない。 全然関係ないページを referer にセットするのは通常操作でわりと簡単にできるのだ。 まぁ悪質クローラの問題は確かに大変そうだし, フィルタリング行為は基本的にコンテンツ管理者側の問題なので知ったことではないが, referer ってそんなに信頼性の高い情報じゃないと思うぞ。 そんな情報を勝手に利用して都合の悪いものを「ノイズ」呼ばわりするってのはコンテンツ利用者から見て気分が悪い。
結城浩さんのコメントがとても印象的で素晴らしいと思うので, こちら側をリンク。
に挙がっているリンク集を是非参考に。 で,
に先日の山根信二さんのコメントに対するコメントが載っているので読んでみる。
「Googleによるコードコントロール」ってのは具体的には「フィルタリング」を指しているのだろうか。 あるいはもっと政治的なもの?
フィルタリングであれば Google に限る話じゃないよね。 確かに商業的に独占状態であればコントロールしやすいかもしれないけど。 そもそも「検索サービス」自体に「知的財産権の侵害」があるかもしれないと指摘されているし(国会図書館の電子アーカイブプロジェクトもまさにその点によって頓挫している), 何らかの圧力によりフィルタリングが行われるというのはあり得ない話じゃない。 実際そういうニュースは聞くし。 でも皆それを承知で Google をはじめとする検索サービスを利用しているんじゃないのかな。
フィルタリングの問題をできるだけ回避するには多くのそして多様な検索サービスを展開していくしかない。 そういう意味では「適材適所」っていうのは現実解に近いと思うんだけどなぁ。
Google にこだわる理由はやっぱり分からない。
余談だが, 「Commons Deed」をどう訳すのかについては少し議論があったみたいで, 今のところ「コモンズ証」でいこうという話になっている。
うちのドキュメントも改訂しなくちゃなぁ。 次のお休みにでも。
移動すんべ。
(ツッコミより)
「trackback whore」という言うらしい。 前回の「Trackback 投稿は大手への第一歩?」の話である。 情報どうもです。
思うに, 私が Trackback を理解できないのは CMS 風ツール(MovalType とかを CMS と言いきるのには抵抗がある)の「消費者」ではないからかもしれない。 端から見て Trackback はアーキテクチャ・レベルのコードと規範レベルのコードとの整合がとれていないように思える。 それでも機能するのは Trackback が CMS 風ツールの消費者コミュニティで「閉じている」という幻想があるからではないか。 とすると「仲間内のじゃれあいのように見える」という指摘もかなり核心をついている。
昨日時点で帰っていたのだが, 色々ありまして。
ひかり号の場合, 自由席車両以外はあまり混まないものなのだが昨日はさすがにホームに人が溢れていた。 と思ったら団体さんかい。
大阪の人ってマナー悪いよなぁ。 まぁ広島人もさして変わらんけど。 自宅のリビングや居酒屋の延長で列車に乗り込まないで欲しい。 プライベートとパブリックのけじめをつけろよ。 だから「日本人にはプライバシーという文化がない」とか言われるんだぜ。 ひーさしぶりに不愉快な思いをしてしまった。
私はお酒好きだし嫌煙家でもないのだが... 「禁煙車両」ってのがあるのなら「禁酒車両」も是非作っていただきたい。 さもなきゃ食堂車復活させるとかさ。 締め切った空間でゲ○みたいな臭いのする某有名ドライビールなんか飲み散らかされた日には... うっぷ! 何でみんなあんなビールを呑むんだ? 日本人ってのは味覚(嗅覚を含めて)がおかしいんじゃないのか。
そうそう。 ついでに書いてしまうが, 「ただのにっき」では500系を「正しい未来の列車」と評価されているが(*1), 私は500系が嫌いだ! あの車両は明らかに「デブを排除する」設計である。 デブ(最近は小デブだけど)のひとりとしてこのような非道を許すわけにはいかない。 シートが狭いうえに内壁が湾曲しているので窓際に座ると殆ど身動きが取れなくなる。 しかも通路が狭いので常に人様に迷惑をかけながら移動しなければならない。
これだけの不自由を強いられて劇的に速くなってるのかといえば, さにあらず。 確かに最高時速 300km/h は立派かもしれない。 しかしそれは山陽新幹線のトンネル区間だけの話である。 しかも普通ののぞみより止まる駅が多いものだから広島-東京間の所要時間ではほとんど変わらないのである。 500系がデビューした時は広島-東京間を3時間42分で運行していた。 次のダイヤ改正では広島-品川(!)間が3時間49分になるそうである。 これはもう客をなめてるとしか思えない。
私にとって新幹線は「遠くまで行ける通勤電車」でしかない。 新幹線は「見る」ためではなく「乗る」ために存在している。 私は「鉄ちゃん」ではない。 もちろん時刻表を見て切符を買うなんて冗長なことはしない。 指定席を買いホームで待ってる時に500系が入ってくるとがっかりする。 700系のようなちょっとした設計の工夫でいくらでも乗り心地は改善されるのに, なんであんな極悪な列車が今だに現役で走っているんだろう。 乗り心地は悪い,スピードも(他ののぞみに比べて)大して速くない,では「消費者」に何のメリットもないではないか。
私は山陽・東海道新幹線において500系の全面廃止をアピールする。 あんなものは「歴史の遺物」として交通博物館にでも飾り「鉄ちゃん」たちの慰みものになっていればよい。
...ハァハァ。 取り乱してしまいました。 しかし... 思い出すたび腹が立つ!
気を取り直して。
私も監視カメラについては複雑な思いがある。 東浩紀さんの「情報自由論」における指摘も重要だし, 猪木俊宏さんの指摘もよくわかる。 これは, 山根信二さんの 「住宅地とかではそもそもビデオカメラの眼差しがないと地域コミュニティが見えない」 という言葉に集約されるのではないだろうか。
私は以前「陰影礼賛」や「「私」を守るということ」で「街灯」と「ランタン」の比喩を引いて書いたことがある。 住宅地の監視カメラはまさに「街灯」である。 この話の肝は「誰でも見られる」という点ではないだろうか。 監視においては「見る」ことと「見られる」ことは表裏一体であり, システム(アーキテクチャ)もまたそのように設計されなければならないと思う。 コンビニの隠しカメラや歌舞伎町などの商店街の監視カメラは「見る」側と「見られる」側がフェアになっていない。 この差は非常に重要だと思う。
で,本題と全然関係ないところに反応してしまいますが...
もともと「勝ち組」「負け組」ってのは企業経営の隠語だよね。 最近は他の場面でも使われているような気がするけど。 まともに考えると「負け組」はあるけど「勝ち組」はあり得ないと思う。 だって「勝ち組」の中に入るってことはその中では「勝って」ないわけで, つまり競争を放棄することに等しいじゃん。 ある特定の「勝者」に対してそれ以外の全てが「負け組」として「カウント」されるというのが正しいんじゃないのかな。
全くの邪推なのだが, 「勝ち組」ってのは一種のセールストークなのではないだろうか。 例えばコンサルタント会社の担当者が「○○を導入すれば貴方の会社も「勝ち組」に入れますよ」といった提案とか。 で, その真意は 「この会社では絶対に「勝て」ないけど,○○を導入すれば今よりはそこそこ無難に行けますよ」 だったりする。 これって日本の高度成長期からバブル景気に至る「日本人総中流」の幻想にも通じるものがある。
勝者は常にひとりしかいない。 勝者以外は全て「負け組」だ。 勝者には絶対なれない(と諦めてる)けど「負け組」にも「カウント」されたくない。 その葛藤の中で創り出される幻想が「勝ち組」なのであろう。 最近の小学校の運動会の徒競走みたいなもんか。 「みんなガンバレ! みんな勝ち」。 勝者にとっても「勝ち組」の幻想によって競争が放棄されるわけだからメリットがある。 かくて勝者はより「勝者」になり, 敗者は「勝ち組」と「負け組」に分断統治される。
あぁ, ひょっとしてこれも『世界に一つだけの花』戦略のひとつかな。
はっきり言って今回の総裁選で小泉さん以外の人が勝つ可能性などはじめからないだろう。 全然混迷などしていない。
この茶番劇報道を見て思い出したのが昨年の長野県知事不信任から始まった一連の騒動だ。 あの時は「まつりごと」に不慣れな田舎の県議員さんということもあり「まぁしゃあないか」という感じで見ていたのだが, 今回は仮にも国会議員である。 それがなんで田舎県議みたいな茶番をやらかすのか。 それとも裏に何かあるのだろうか。 マスコミ報道のように決選投票や逆転なんてものがあり得るのか?
竹本泉ファンの間ではかなり有名な話。 ML でも当時かなり盛り上がってたしねぇ。 実は MISSY 版にあたり他の部分もかなりの修正が加えられている。 月餅の守が魚屋で修業中の息子に「魚くさい」と言ったりするところとか。 まぁ昔はそういう差別の問題に大らかだったということでしょう。 「マンガ」というものに対する圧力も80年代と90年代ではかなり違うしね。 KC版を持っている人は見比べてみると面白いぞ。 でもどちらももう絶版じゃなかったっけ?
ちなみに問題のシーンが修正されているバージョンはカバーの背表紙に小さく☆印がついている。 私は(面倒なので)修正後の方は買っていない。
GnuPG のトップページに以下の文章が載っている。
We protest against the introduction of software patents in Europe! This will be voted upon in the European Parliament on the 1st of September.
Websites may soon be closed down regularly due to software patents. Software patents can get you prosecuted for publishing texts you wrote yourself!
For more details please visit SWPAT .
どうやら, 欧州でとんでもない特許制度が成立してしまったらしいのだが, 英語不得手なのでよく分からない。 どなたか解説してください。
(9/21 追記) 山根信二さんのコメントが参考になる。 感謝です。
例の表明保証条項に絡む話のようである。 以前紹介した 「著作権と Creative Commons 実施権」(PDF) と併せて読んで欲しい。
CCPL と GPL を比較して CCPL が内容保証を行うことに懸念を示す人が多いが, ソフトウェアの「品質」とその他の著作物の「内容」を同列に比較するのは上手い方法ではないと思う。 ソフトウェアが無保証であることの根拠として「コスト」の問題が指摘されるが, これは半分間違っている。
例えば医療や軍事方面においては「無保証」のソフトウェアを使うわけにはいかない。 特定用途のシステムの場合, 製造にかかわる人(個人または法人)の間で要求される品質に対する責任を分担し, その責任範囲内で品質を保証をしなければならない。 この場合に「無保証」のソフトウェアを「無保証」のまま使うことは, その担当者(社)が責任を全うしていないことになり, 契約不履行で場合によってはペナルティを支払わされる。
例えば GnuPG は GPL なので品質が保証されない。 しかし, 品質が保証されないままでは GnuPG は暗号関係の業務(暗号が絡む業務はクリティカルな内容であることが多い)には使えないことになる。 したがって業務で GnuPG を使うためには, ユーザが要求される品質の範囲内で検証を行う必要がある。 そして検証にかかるコストもユーザが支払うことになる。(「消費する」ということはつまりこういうことだ)
キャッシュが支払われないからといって「消費者はタダでソフトを利用している」などという発想をすることは(しかもそれを蔑みのニュアンスで「フリーライド」などと呼ぶことは), あまりにも一面的なものの見方である。 GPL (や他の似たようなライセンス)は「無保証」という戦略をとることにより, 「品質」保証という責任(とそれに付随するコスト)をユーザ全体で分担していると見るべきだ。
一方, CCPL が対象とするのはコンテンツであり, 保証の対象となるのは「品質」ではなく「内容」である。 内容を「無保証」とする場合, 保証の責任は一体誰が負うのだろう。 またコンテンツにより侵害された権利は誰が回復してくれるのだろう。 それは(GNU 製品群のように)ユーザ全体で分担できるものなのだろうか。
こう考えた場合, CCPL の保証条項はそれなりに妥当性を持っているように思われる。(もちろん議論の余地はあると思うが) むしろこの条項は 『コモンズ』 の冒頭でも紹介された「権利ひとつにつきいくら」のような形で取り引きされている現状に対する強烈な批判と見るべきで, 弁護士や法学者であれば, そのような現状をこそ議論すべきではないのか。
また CCPL を利用する側もこの保証条項をもっと真摯に受け止める必要がある。 「無責任なコンテンツは必ず誰か(の権利)を傷つける」ということをもっと真剣に考えるべきだ。 たとえライセンスで「無保証」を謳っても, 「自分」のコンテンツで誰かを傷つけたという事実は消せないし, 傷つけられたものを回復することができるのは, 他の誰でもない, 傷つけた張本人である「自分」なのである。 それを考える機会を与えてくれるのが CCPL だと私は信じている。
CCPL の Attribution (帰属)オプションはコンテンツを配布・再利用する際に著作者のクレジット明記を「要求(require)」するものだが, 同時にこれは著作物の内容に対して著作者が責任を負うことを「要求」するものでもある。 そうでなければ Attribution オプションは単なる宣伝条項と変わらないではないか。
(9/21 追記) 「 Creative Commons Licenses の表明保証条項に関する論点」 という Wiki コンテンツができている。 きれいにまとまっているので是非参照を。
上記のように考えると東浩紀さんが RIETI に対して行った抗議も重みが違ってくる。 この抗議文を読むと RIETI が権利とかライセンスとかについて真面目に考えているかどうか疑わしくなってくる。 ゴメン(=事務的ミス)で済まそうとする姿勢も疑いに拍車をかける。
今回,初参加しましたぁ! 別に 9/11 だったから参加したワケではありません。
参加第一弾は種ともこさんの「10円でゴメンね」。 あれ以来脳内 BGM になっているのだ。 場所は出張先のホテルでひとりで鼻歌。 シュールだ (^^;)
「10円でゴメンね」で一番お気に入りの歌詞は 「ボクはボクをどうしたらいいの」 っていう部分。 これ聴いてた頃ってまだ学生でしかも結構ひどい生活をしてて。 親泣かせたこともあるし。 ろくなもんじゃなかったよなぁ。 で, そのときの気分が「ボクはボクをどうしたらいいの」って言葉に集約されているような気がして。 まぁ,でも,今でもあまり変わらんかも。 「ボク」は「ボク」をどうしたいんだろう。
次回も是非参加します。
ホテル暮らしがあまりに退屈なのでゲームボーイ・アドバンスSPを買って遊んでいる。 先日「MOTHER 1+2」が終わったので, 今は「新約 聖剣伝説」をちまちまと。 なんか異様にゲーム三昧な日々。
ところで「新約 聖剣伝説」。 私にはちとヘヴィ。 サブイベントが多重に「立つ」のでこなせないのだ。 まるで「はじめてのおつかい」に出された子供が商店街でパニックになるような感じ。 みんなこういうの楽々こなしているのかなぁ。 ある意味すごい優秀な脳みそだと思うけど。
どんどんヤバくなりますな,アメリカ。 イラク泥沼化(アルカイダ介入?)で米国内テロも増えそうな予感。 あぁ,でもそれはないか? アメリカに本気で手を引かれちゃイラクを泥沼化できないもんねぇ。
一方の日本。 「田中宇の国際情勢ウェブログ」の「国連常任理事国の席を狙う日本」はウケた。 いや, 私は川口外務大臣のファンである。 こういうことをいけしゃあしゃあと言ってのける度胸は素晴らしいと思う。
www.textfile.org より。
D 言語。 話には聞いていたが, 結構でき上がってるじゃん。
「情報鮮度の視覚化」は面白いな。
フィルタリングの話は是非学校教育者や自治体等に読んでもらいたい。 危険から子供を護ろうとする気持ちは分かるが, 同時に子供自身が危険から身を守る術を学ばなければ意味がない。 それが躾とか教育とかいうものの本質だろう。
「人々は、ケータイやインターネット上でテキストをやり取りし、何か1つものを作り上げようと協力する活動が目立ってきている。この協調活動こそがスマートモブズ(Smart Mobs;賢い群衆)である」
だとよ。 ひょっとして blog を指していってるのか? でも, blog は単に「場」を構築しているだけで 「何か1つものを作り上げようと協力する活動」 とは関係ないよな。 んじゃ Wiki? でも Wiki を立ててる人って私のように単にメモ帳として使っている人のほうが多いんじゃないのか。 ケータイは何だ? 「出会い系」のことか(笑)? 日本じゃネットで人々が出会う「場」は取り締まりの対象だぜ。 ネットを使わない群衆は「スマート」じゃないのか?
この記事を見る限り「賢い群衆」ってのは強烈な皮肉に思える。 「RFIDやSmartdust」なんてキーワードが出てくればなおさらだ。 「スマートモブズ」ってのはつまりサービス提供者にとって顧客管理が「スマート」なだけであって, 決して「モブズ」が「スマート」な訳ではない。 創造的な活動のために人々が協調的に振る舞うのは時代やネットの有無に関係ない。 この記事は「コンビニエント」と「スマート」をすり替えようとしている。
むしろ「ネットでは群衆は顕名的(管理可能)な存在なのだからもっと賢く振る舞え!」とか言うべきではないのか。
最近ホテルで「トリビアの泉」を見る機会が増えた。 ん? 仕事が楽になってるのか?
まぁそれはともかくこの番組のキャッチフレーズ「明日使えるムダ知識」ってのは逆説的で面白い。 何故って「トリビアの泉」って全国放送の人気番組なんでしょ。 ちうことは大勢の人が見てるワケで, この番組で披露された蘊蓄は披露された時点で蘊蓄として機能しなくなるからだ。 私はこの破滅的かつ自虐的な番組が結構好きになってきている。 まぁ「明日からは使えないムダ知識」のリサーチとしては使えるかも。
カナ入力ができる人って本当に尊敬してしまう。 とある勘定系のシステムをやってた時に使い勝手などを見てもらうためにオペレータの方に操作してもらって後ろで見ていたのだが, そのまさに「目にもとまらぬ早業」に感動しまくったのであった。 なるほどこれは「スキル」だわ。
私はローマ字入力以外からだが受けつけない。 上記の記事にあるような「「ひらがな→ローマ字→ひらがな」の二度手間」は殆ど意識しない。 逆にカナ入力の方がひらがなを意識し過ぎてガチガチになってしまうのである。 ケータイの入力も苦手。
私の場合, 脳内で言語的な思考をすることは殆どない。 で,脳内の思考を文章に「変換」する作業を「シリアライズ」(俺定義)と呼んでいる。 「シリアライズ」にはローマ字入力が一番しっくり来る。 脳内の思考には順序性がないので「シリアライズ」された文章も支離滅裂である。 そこでどうしても「推敲」という作業が必要になる。 実はこんな戯れ言でも結構時間をかけて書いているのである。
たしかにケータイのメールには思いついたことをそのまま送れる手軽さがある。 漢字からひらがなへのシフトも一種の「シリアライズ」と言えないか。 ケータイのメールを使って「シリアライズ」された文章をそのまま送ってしまうのは, 自身の支離滅裂さを晒すようでかなり恥ずかしい感覚がつきまとう。 それともこれもそのうち慣れてきたりするのだろうか。
もうひとつ。 ケータイのメールって受信したらその場で読まなきゃいけないような強迫観念があるよね。 だってメロディや振動で催促されるし。 これが従来の電子メールと決定的に違う「感覚」。 仕事中は電話なんか取りたくないしメールも読みたくないんだけど。
面白い! もし IE で上記係争点を簡単に回避するような方法があるのなら, MS としてはさっさとその回避方法を IE に盛り込み控訴を取りやめる手もある。 そうすれば IE は他のブラウザに対してある種のアドバンテージを獲得することになる。
これはかなり面白い。
Rev.1.0.5 をリリース。 訳語や用語を Creative Commons Japan のそれに合わせました。 あと, 現在 Creative Commons Japan で交わされている議論をいくつか紹介していますので, 興味のあるテーマがあればそっち方面でお願いします。 表明保証条項についても少し言及(っても問題を提示しただけだけど)しています。
PrivacyNote もそろそろ完成図書としてまとめないといけないのだが...
早速導入。 おおっ,すごい。 当日以前の記事も取り込まれるし description も付いている。 素晴らしい。
独自にいくつか項目を追加する。
RSS_RIGHTS = 'Copyright (c) ...' # 著作権表示
RSS_IMAGE = 'http://.../spiegel.png' # 画像の URI
RSS_CSS = 'https://baldanders.info/spiegel/rss.xml.xsl' # スタイルシートの URI
また CCPL のディジタル・コードも埋めこんでみた。 今は直に埋めこんでいるのだが, ndiary.conf で CCPL のライセンスオプションを選択できると便利なんだけどねぇ。
詳しくは rss.rb.txt を参照のこと。 スタイルシートは汎用的に作っていて結構お気に入り。 ご入用な方は勝手に持ってって各自チューニングしてください。
そういえば「秀まるおのページ」でも RSS 配信が始まったようである。 RSS は 日記/blog にとどまらず, ネット上の(URI で指示可能な)あらゆるコンテンツの管理に使える。 みんなもっと RSS を利用するですよ。
...やっぱ自前の RSS アンテナが欲しいなぁ。 はてなとかでそういうサービスをやらないかなぁ。
yomoyomo さんのところで CC-jp ML の内容が晒されているのでちょっとビックリしたが, 実はこの ML のログはパブリック・ドメイン扱いになるらしい。 ありゃあ,全く気付かなかった。 いらんこと書かんようにしよ。
で,早速その ML から面白い話を。
ありゃ, 文字化けして全然読めないぞ。 ええつと, 一応引用しておくと
ここで、面白い話がひとつあります。 (ちょっと法律的になるかも知れませんが)、GPLもCCPLも、法的な意味では「契約」である必要はない、というのが公式見解だということです。 著作権者と利用者の間で、契約が成立する場合もあるが、しない場合もある。 それでもかまわない、ということです。 むしろ、GPLもCCPLも、著作権の利用条件を明示しているものに過ぎない。 違反したら、契約違反ではなく、著作権を使って責任追及する。 その意味で、厳密には、「権利を行使する場合のポリシー」を明示したものにすぎない、ということです。
なんだそうだ。 ついこの間 GPL のライセンスとしての機能をお勉強したばかりなのに, 奥が深い。
しかし, CCPL だけでなく GPL もそういう側面を持つとなると, フリー(自由な)ソフトウェア作者やユーザはもっと著作権・著作権法に対して敏感であるべきだと思うし, 「著作権はクソ」なんて発言は間違っても出てこないと思うんだけど, 実際には必ずしもそういう風に見えてこないのは何故?
PrivacyNote を完成図書としてまとめようと思い, タイトルも「Study of Unique ID」(もちろん某名作からのパクリだ)にしようかなんて考えてハタと手が止まる。 この完成図書には CCPL を設定できない。 何故ならこの完成図書はPrivacyNote という Wiki コンテンツの「派生作品」に相当するからだ。
本文は恐らく私以外の人は手を入れていないと思うが, しかし Wiki に唯一の著作者を主張するのは馬鹿げているし, かといって(過去および将来に)参加する方々に今から完成図書の公開を許可して貰うのはナンセンスな話である。
CCPL を設定しないで公開する手もあるが, CCPL を設定しようとしまいと Wiki コンテンツからの派生作品が著作権的に灰色になってしまうことには変わりなく, リスクとしてはどちらでも同じということになる。
ちうわけで, 完成図書の作成は諦め, PrivacyNote はそのままの形で「凍結」します。 あっ, コメントや参考文献の追加はこれからも随時受け付けていますのでよろしくどうぞ(オトナ語)。
これからはテキストの公開の仕方についてもう少し戦略的に考えないといけないなぁ。 大失敗。
面白そうな内容であるが, 今はちょっといっぱいいっぱいなので, メーリングリストには参加せず, Wiki コンテンツの方をチェックしていくことにしよう。
9/14 の話について, 山根信二さんのコメントが公開されている。 採択はされずに延期になっているのね。 ふむふむ。 あぁ /.-J でも記事になってたのか。 最近あっち方面は全くチェックしてないからなぁ。
「市民の権利を守る」のではなく「市民としての責任を果たす」という方向性にとても共感する。 そういえば CPSR も「社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会(Computer Professional for Social Responsibility)」だったな。 「おねだり」や「陳情」だけでは市民としての責任を果たしていることにならない。 良い政策・アイデアにはコミットしダメな部分には抗議するという基本中の基本ができているかどうかが「社会的動物」としての私達に問われている事なのだろう。
(9/22 追記)
存在しない .com, .net ドメインに対して VeriSign の Site Finder に誘導するよう変更が加えられた模様。 しかも Web Bug まで仕掛けるという念の入れよう。 最近大注目の「事件」。
個人的には DNS というシステムがトップレベルドメイン管理者にここまでの裁量権を与えているという「運用」体制の方に懸念を感じるけど。
非難が起きることは分かりきってる筈なのに何でこういうことをするんだか。 SCO といい VeriSign といいナゾ過ぎる。 社会的な評判や信用を失墜させてまで何を望むのだろう。
JPNIC と JPRS の whois サービスに制限を設けるらしい。 まぁ私としては spam 処置依頼のための abuse アドレスが明示されていれば文句はないんだけど。
前にも書いたが, みんなコンピュータシステムにかかるコスト(お金じゃないよ)を軽視し過ぎているのではないだろうか。 コンピュータシステムは何であれ必ず導入と運用にコストがかかる。 そのコストをベンダとユーザの間でどのように分担するかを決めるのが「設計」である。
「家電」は導入と運用にかかるコストの殆どをベンダに負わせ, ユーザはその対価をお金で支払っているとみなすことができる。 このような構造が成り立つのは, 「家電」が「消費者」を対象としたシステムであり, 導入や運用にかかるコストを「消費者」が負いきれないからである。
一方,世の中にあるコンピュータやコンピュータシステムのターゲットは基本的に「消費者」ではない。 「パソコン」レベルですら一定のスキルを要求される。(だからこそ「パソコン教室」などというよくわからない商売が成り立つのだが) ターゲットが「消費者」ではないのだからユーザ側でも導入や運用にかかるコストを分担できる, という考え方が根底にある。 これを極端に押し進めたのが GNU/GPL であると考えることもできる。 そして本来ユーザに分担されるコストをある程度肩代わりしてくれる(その対価としてお金を貰う)「ディストリビュータ」という商売も成り立つのだ。
Microsoft/Windows はどちらかというとコンピュータを「家電」的に考えている。 ユーザを「消費者」とみなし, 導入と運用にかかるコストをある程度負いましょう, という発想だ。 しかし実際には「「消費者」が支払う値段に見合うだけのコストを Micorosoft は負っていない」というのが一部のユーザの感覚であり, それが「乗り換え」の動機のひとつになっている。
しかし, 本当の「乗り換え」の動機になっているものは導入・運用のコストではない。 それは Microsoft が「発明」した複雑怪奇なライセンス体系にある。(例えば「Apache を Windows 2000/XP Professional 等で動作させるときのライセンス問題」とか) これは特に企業ユーザが中規模以上のコンピュータ・システムを導入しようとする際に効いてくる。 たしかに導入・運用のコストにのみ目を向ければ「Linux は安くない」と言えるかもしれない。 しかし Microsoft のライセンスを捨てることはシステムにコスト以上の「自由」をもたらす。 ユーザの望むようにシステムをデザインできることは重要だ。 もちろんそのためにはユーザが相当のコストを負わないといけないのだが, (「家電」に対する「消費者」と違い)ユーザはそのコストを負うことが「できる」のである。
「消費者」は導入・運用のコストを負うことができない。 だから「消費者」は「パソコン」を「家電」の一種として(導入ではなく)「購入」する。 そして「パソコン」をただのワープロマシンやネットワーク端末として消費する限りにおいては別に Windows でも何でも構わないのである。
思うに, いわゆる「オープンソース」礼賛者はこの「消費者」の行動を正しく理解していないのではないだろうか。 たとえ無料で手に入るとしても「無保証」条項によりユーザにコストを分担することを強いる構造になっていれば「乗り換え」の動機には繋がらない。 またこのコスト構造を正しく伝えずにパッケージの値段だけで「消費者」を誘導するようなことがあれば後々トラブルになることは必然だし(そして私のような場末のプログラマまでかりだされる), 消費者保護法なるものの影響を受ける羽目になる。
「プロプライエタリーなソフトはダメ」と言う一方で「ソフトウェア作者は「消費者」に関知しない」などという態度をとっていたのでは「口先だけ」と受け取られてもしかたがない。 コンビニエントなパッケージを選択するのは「消費者」の権利である。 そして今や「パソコン」ユーザの多くは「消費者」なのだ。 「プロプライエタリーなソフトはダメ」だと言うのならその(「利便性」を上回る)動機付けを消費者に提供する必要がある。 繰り返すが「無料」であることは「消費者」の乗り換えの動機にはならない。 これはできないことではないだろう。 何故なら Windows 「パソコン」ですら本来は一定のスキルを要求するものであり, そのコストを負ってでも「パソコン」を購入しようという動機付けがあったのだから。
タイトルからもう少し過激な内容を想像したが, なかなか的を射た記事。 今のところ Creative Commons の状況について解説した記事としては最も妥当なものではないだろうか。 そういえばイギリスでも iCommons の取り組みが始まったそうである。
ML での議論を踏まえてうまくまとまっているように思えるので是非参考に。
ライセンスの範囲についてはちょっと考えさせられるところがある。 一応うちでは自分の著作権範囲を「テキスト」に限定している。 自分で画像等を作ったりすることがないからこういう割り切りができるのだが, そうでない場合も多いよね。 書籍の感想や書評を載せているサイトで書影を表示している所も多いけど, あれって著作権的にはかなり微妙な筈だし。
まるで砂場で遊ぶ子供の陣取り合戦のようである。 しかし, ここではっきり言っておこう。 PDF に対して「人間の利用に合わない」という批判があるらしいが, そっくり同じ言葉を Web ドキュメント((X)HTML)に対して返す。
人間はタグ情報を見てテキストを理解するのではない。 文字の書体や大きさ,あるいは「行間」などを見て「文章」として理解するのである。 書き手が読み手に意図を伝えるためには書き手の意図する通りに「文章」がレイアウトされる必要がある。 しかし Web では「文章」のレイアウトは基本的に読み手(UA)の裁量にまかされている。 もちろんこの設計による(音声ブラウザなどの)恩恵もあるが, 書き手の意図したように読まれないというのは書き手にとって大きなストレスになる。
私は物書きではないが, それでも報告書や設計書など業務の殆どはドキュメンテーションである。 「プリンタをネットに直結する」というニーズがあること自体, 業務の中核が今だ紙ベース(もしくはそれに相当するもの)で進行していることを物語っている。 大量のドキュメントをこなす中でいちいち「読み手がどのように「文章」を読むか」なんて構っていられない。 したがって, 「書かれたドキュメントは書かれた通りに再現する」ことが保証されなければならないのだ。 「ワープロ」ソフトが今だに無くならない理由もここにある。
PDF や DWF はこの要件をある程度満たすことができる。(個人的には TeX が好みだが) そういったフォーマット同士で競争するのはいい事だろう。(仕様がオープンならね) しかし, 少なくとも Web ドキュメントはこの競争に加わる資格はない。
未だに理解できない。 エンジンが二つ付いていることか? (ってそれは「双発」)
「複雑系」って言葉は安易に使われ過ぎるよな。 昔流行った「ファジー」とか今流行の「マイナスイオン」とかと同じ臭いを感じてしまう。 こういう言葉を使って「ブラックボックス化」してしまうことで受け手を思考停止に陥らせる意図がみえみえである。 で,それを回避しようとして「デンパ」とか「トンデモ」とかいった言葉で批判しようとするけど, それ自体逆ベクトルの「思考停止」キーワードになってしまっている。
私には「創発」という言葉よりも 「ゲシュタルトがわたしを呼んでいる」 の名台詞の方がしっくりくる。
そうそう, 最近移動中とかに 『あなたの人生の物語』 を読んでいる。 メチャメチャ面白いですな。 ただし私は SF ファンでも SF オタクでもないのでこの本に関する感想は書かない(書けない)。 ファンタジックな視点で書いてもいいが, また「トンデモ」の扱いを受けるのは御免なので沈黙することにする。 「世界Aの始末書」 9/17 の記事あたりを参考にどうぞ。
私も一応身障者なので。 身障者にしか分からない「視点」というものがある。 私も身体が不自由(今はかなり大丈夫)になって初めてそのことに気づいた(2000年2月17日の日記参照)。 あるいは「ハンディキャップは個性だ」という主張もこのときようやく納得できるようになってきた。 何ともマヌケな話である。
もちろんその個性は「異質」に見えるかもしれない。 「異質」を排除しようとする行為は地球上に住む全ての生物の本能だ。 しかし「ヒト」ならば, ここでもう少しだけ理性を働かせてその本能に抗って欲しいのだ。 「異質」を「個性」として認め, あと少しだけ許容することができれば「世界」に対する更に広い視野を獲得することができる。 これは私の「実感」である。
このことは身障者の問題に限らない。 前述の「デンパ」とか「トンデモ」とかいった物言いも同様だ。 「異質」を感じるのは仕方ないが, それを排除の論理で「異端」にしてはいけない。 今の時代は排除の論理(消去法)でものを考える人達が多すぎるのではないか?
医療関係の知識はないので内容についてはアレだが, 費用対効果の演習問題としてはなかなか面白い題材ではある。
ちなみにうちの母親はたしか50代前半のときに定期検診で乳ガンが発覚して手術している。
Osiris は Windows ネイティブのバイナリがあるらしい。 Osiris ってオシリス? 古代エジプトの神様の?
どっちに載せようか迷ったが, 天文ネタに留めておくにはあまりにも勿体ないので。 下の問題に先に(自力で)答えてから読むとより面白いぞ!
【問題】 あなたは月にいます。そこで握っているペンを放すとどうなる?
- 漂いだす
- そこで浮かんだまま
- 地面へ落ちる
いろもの物理学者さんの記事も面白い。
まぁ,これってあれだな。 「徳川8代目将軍の名前を書け」と言われて「松平健」って答えるようなものだな。 え? 違う? そりゃすまん。
nDiary の RSS フィルタを更に改造。 以前書いた内容とダブるけど, 一応オリジナルとの相違点を書くと...
RSS_RIGHTS
項目を追加。
ここに設定した文字列が <dc:rights>
要素として出力される。
設定しないと何も出力しない。
RSS に著作権表示を含める際に使う。RSS_IMAGE
項目を追加。
ここに設定した URI が <image>
要素として出力される。
設定しないと何も出力しない。
RSS にバナー等の画像を含める際に使う。RSS_CSS
項目を追加。
ここに設定した URI をスタイルシートとして宣言する。
設定しないとスタイルシート記述を出力しない。RSS_CCPL
項目を追加。
ここに設定した文字列を元に Creative Commons Public License (CCPL) 情報を付加する。
by, by-nd, by-nd-nc, by-nc, by-nc-sa, by-sa, nd, nd-nc, nc, nc-sa, sa のうちいずれか一つを設定する。
オプションの組み合わせの意味と機能については拙文を参照のこと。
設定しないと CCPL 記述を出力しない。詳しくは rss.rb.txt を勝手に持っていって参照するなり使ってみるなりしてみて下さい。 なお, CCPL を安易に設定するのは後々トラブルの元になるので, 以下の記事を参考に慎重にお願いします。(RSS だけでなく本文ページにもちゃんと CC マークを貼ってね。CCPL の選択方法については真紀奈さんの記事が参考になる)
(追記)
またちょっと直した。
<description>
の内容を <![CDATA[ ... ]]>
で囲むようにした。
まっ,
まんず大丈夫だと思うけど。
(9/25 追記) オリジナルの方にも反映されました。 感謝です。
どこまで行くねん,VeriSign。
Site Finder に Web Bug が仕掛けられている話や この記事から考えるに, 明らかに VeriSign はネット上の「行動履歴」を収集しようとしている。 どういう理由でこんなことを始めたのか分からないが, もうシャレじゃなくなってきている。 少なくとも .com , .net ドメインはユーザにとって安全な場所ではない。
特に .com ドメインって業務に使われることが多いと思うのだが, 企業ユーザは VeriSign のこの行動をどう受け止めているのだろう。
今年はユビキタス・バブル元年だそうだが, RFID を巡る出来事はそれを予兆するものになるだろう。 まぁ分かっている人には「いまさら」なんだろうけど。
ここで紹介されている UHF 帯利用の RFID ってのは, マーケティング的には「通信距離が最大7メートル前後と長」いことはさして重要ではなく, 「オートIDセンターでもUHF帯を中心に実証実験を行っている」ことが重要なんだと思う。 つまり Auto-ID を中心にユビキタス・バブルを享受しようと考えている人達は, 日本の帯域制限が普及の足かせになってると考えているワケだ。 しかし露骨にそのようなシェア争いを口にするわけにはいかないから「7メートル」をセールスポイントとして売り込みをかけざるを得ない。
しかし「消費者」の立場から見ると7メートルの到達距離はメリットにならない。 むしろプライバシー上の懸念を増大させる要因になるのではないだろうか。 日本の場合, RFID からの信号到達距離を理由にプライバシー上の懸念を否定する言説もあるが, UHF 帯利用の RFID が流入すればその言説は否定されてしまう。
このベンダ側と「消費者」側とのパワーバランスが今後のユビキタス・バブルの行方を占うキーになるような気がするが, 「消費者」側がそれに自覚的でないなら最終的にツケを払わされるのは私達「消費者」である。 一度カットオーバされたシステムは簡単には取り消せない。(過剰反応し過ぎるのもダメだけどね)
ユビキタスとプライバシーで思い出したが...
まぁ自意識過剰と言われればそれまでだけど, ケータイを私の目の前に掲げるのは止めてくれ! ありゃあ一種の脅迫だよなぁ。 ピストルを突きつけられてるのと同じ。 カメラのシャッターを押す行為を「シューティング」と呼ぶのを知ってるか? 「写真を撮る」ってのは狩猟行為の一種なんだぜ。
なんで「カメラ付きケータイ」なんてものが流行っちまったんだか。
内容的には「Linux は安くない?」の続き。
文章だと分かりにくいが, 「Windows Server 各エディションの CAL 必要条件」の表をみるとよく分かる。 ポイントは, Windows 2003 Server ではイントラネット内に向けたサービスへのアクセスには全て CAL が必要だ, ということ。 更にユーザ認証が必要なサービスにおいてはインターネット向けでも CAL が必要だ。 IIS や SQL Server などの MS 製サービスはもちろん, Apache や Oracle や PostgreSQL といったサードパーティ製品においても(各製品のライセンスとは別に) CAL が必要なのである。 電子メールや SSH や CVS の各サーバも CAL なしでは使うことができない。 こんな馬鹿げたライセンス体系の製品を使うメリットがどこにあるのだろう。(Web Edition は例外があるらしいが,例外の適用範囲が分からない)
WinXP は基本的に「端末」機だし, システムやユーザの使い勝手によっては選択の余地はあると思うけど, サーバ機としての Windows 2003 Server にメリットがあるとは思えない。 確かに乗り換えにはコストがかかるが, 先延ばしにしないで(少なくとも W2K Server のサポートが切れるまでには)体制を固めておかないと, 余計な経費を払う羽目になる。(まっ,オール MS 製品でいくというのならそれも手だけどね)
www.textfile.org より。
まぁ, 言語屋さんには言語屋さんの思惑があるだろうし, それ自体にケチをつけるわけでは決してないのだが...
例えば「メッセージ送信」というテーマについて実装を比較する場合に, どうして「言語仕様」の比較になってしまうのだろう。 確かに要件を検討する上で言語仕様を比較することは大事だし, そういう意味で上記のような比較資料は意味があると思うが, アプリケーションプログラマが本当に欲しいのは言語仕様ではなく実装例(=ライブラリまたはデザインパターン)である。 言語屋さんの言い分は微妙にプログラマのニーズを満たしていないのではないか。
ぶっちゃけていってしまえば上記の資料はプログラマから見れば数あるマーケティング資料のひとつに過ぎないし, その資料から「○○言語の方が優秀です」というような結論が導かれるとしても, それは単なる「セールストーク」に過ぎない。 そうでなくても現場の職業プログラマ達はあらゆる「セールストーク」を聞かされてウンザリしているというのに, 今更「言語仕様の比較」が何かにアピールするとはとても思えない。
今回の例では,
「実行時にメッセージを取得する送信」の項目について C++ では「不可」と書かれている。
これは言語屋さんにとっては「真実」かもしれないがプログラマにとっては「嘘」である。
何故なら「実行時にメッセージを取得する送信」機能を持つ(もしくはそれに近い機能を持つ) C++ クラスは「実装可能」だからだ。
Windows アプリケーションプログラマならこの機能を聞いて真っ先に COM/ATL 実装のひとつである IUnknown::QueryInterface
メソッドを連想するかもしれない。
多くの人が「オブジェクト指向」という言葉に躓くというのなら, それは恐らく「オブジェクト指向」と「オブジェクト指向言語」とがとっちらかってしまっているからではないだろうか。 この混乱の原因は「オブジェクト指向言語」というキャッチフレーズを作ってしまった(あるいはそれを容認してしまった)言語屋さんにも責任の一端があるのではないか?
例えば, 同じく www.textfile.org で紹介されているこの記事は, この混乱を上手に解きほぐす優れたテキストのように思われる。
これを読めば「オブジェクト指向」は「設計」および「実装」の問題であり, 決して「言語」の問題ではないことがわかるだろう。 昔はアセンブラや C 言語などでオブジェクト指向の実装を行っていた例も沢山あったのだ。
プログラマにとってプログラミングという作業は製造工程全体から見てごく一部のフェーズに過ぎない。 故にプログラマは(特に職業プログラマは)プログラミングフェーズを徹底的に効率化しようとする。 その過程で「オブジェクト指向言語」を選択することはあり得るかもしれないが, 「オブジェクト指向言語」がそうでない(と言われる)言語に対して決定的なアドバンテージを持っているわけではないことに注意する必要がある。
プログラマにとってもっとも重要なのはコストとリスクの低い「実装例」を見つけ(探し)出すことである。 「設計」と「実装例」という要件を満たしていれば「言語」なんて何でもいいのだ。 それこそアセンブラだってかまわない。 逆にそういう風に振る舞えるプログラマこそ「本当のプログラマ」じゃないのか?
わいわい, 私の改造分がオリジナルの方にも反映された。 感謝です。
私も記事を書いてからしーばらく放っておく(で,結局止めたりする)タイプ。
勢いで公開しちゃうこともあるけど(上の記事みたいに)。
トピックの <dc:date>
要素は,
あると嬉しいけど nDiary ではかなり面倒な気がして避けてた。
あと更新時刻管理については,
公開するタイミングでコントロールできるのならいいけど,
nDiary でコンパイルするタイミングってのは個人的に運用上の弊害がありそうで考えてしまう。
こういう時だけは CMS 風ツールの方が便利だなぁ,
と思ったり。
RSSwithCC に nDiary で CCPL を設定する方法を簡単にまとめたので参考にどうぞ。 その他の(MT とかの)ツールの説明なんかをどっかの小人さんが書いてくれると嬉しいなぁ, とかつぶやいてみる。
...あっ,
<description>
の内容について空白文字を削除するところがうまくいってないみたいで,
全角記号類が激しく文字化けするのでコメントアウトしちゃいました。
<dc:date>
対応 RSS フィルタ登場。
せっかくなので試してみる。
filter/rss3.rb の方。
ちょっとイマイチな気がしたので,
rss2.rb
を参考に日時をコンパイル時刻ではなく YYYYMMDD.diary
のタイムスタンプのそれに変更した。
ん〜,
こんな感じかな。
しばらく使ってみよう。
私のスタイルに合わなさそうならすぐ戻す。
そっか,
文字化けすんのは gsub!
を使えばいいのか。
なるほど。
いやぁ,
何せ Ruby の言語仕様を全然知らずに弄ってるもんで,
はっはっは。
一応勉強してるんですよ,
仕事の合間とか。
うう,やっぱり実体参照が更に展開されて <description>
に反映されてしまう。
やっぱ <![CDATA[ ... ]]>
で囲みたいなぁ。
でも,
not さんが懸念しておられるのはきっとクロス・サイト・スクリプティング問題だと思うので私も弄らないことにする。
おおっ! こゆ手があったのか。 確かにこの方が取り回しが楽だ。 今度試してみよう。
ちなみに私の方法はMag.さんに教えて貰ったもの。 コーヒーパックを自前で作らないといけないのがちょっと面倒。
今月は白田秀彰さんの連載の続きがあるらしい。 今回は CCPL や GNU FDL について言及されているそうだ。
しかし, 広島に 9/27 発売の『iNTERNET magazine』が今日時点であるわけがない。 広島をなめてはいけない。 広島は四国,福山・岡山,山口・九州という「テレビ東京帝国文化圏」に囲まれた「秘境」で文化過疎地域なのだ。 発売日に書籍・雑誌が手に入るわけがない。
かつて森山塔というエロマンガの巨匠がいたが(今は山本某とかになって普通のマンガを描いてるそうだが), 氏の手による「デマコーヴァ」という作品がある。 その中の有名な台詞を思い出す。
「世界がジャングルを囲んでいるんじゃない。ジャングルが世界を囲んでいるのです」
オタクの原点ですな。
高木浩光さんが紹介されている 『個人情報保護法入門』 と, 「バーチャルネット名無し。」さんご推薦の 『Q&A個人情報保護法』 を購入。
移動時には「Q&A」を, ホテルでまったりしている時は「入門」を読むようにしている。 最初薄い方の「Q&A」を読もうとしたがさっぱり頭に入らない。 で, 「入門」の方に切り替えたのだが濃すぎて頭の中でこなしきれない。 両方の本を理解するのは両方の本を同時に読む進める必要があると判断した。 こりゃあ大変だわ。
「Q&A」が頭に入らない理由は分かっている。 基本的に私はこういうスタイルの本が苦手なのだ。 ひとつの「問い」で思考がぶち切れてしまうため, 各「問い」の間を繋ぐ関連性が見えにくくなっているのだ。 これでは脳内でゲシュタルトを構築できない。(似たようなものでは, 技術者の間で悪名高い TTC 技術参考資料(通称「技参資」)がある。 あの山のような注釈付きまくりの文章はまさに「悪夢」だった)
あと全体的に「用語を理解できない」という問題が重くのしかかっている。 まず「公的部門」とか「民間部門」とかで既に違和感ありあり。 思うのだが, 学生さんは今のうち(少なくとも二十代のうち)に法律条文を読む訓練をした方がいい。 全てを理解できなくてもいい。 まずはあの文体に「馴れる」ことが必要である。 「オトナ」になってかたくなった頭では文体そのものが大きなストレスになる。
本の最初のあたりをながめて(まさに「ながめて」)おぼろげながら分かってきたことは, 個人情報保護法を理解するには個人情報保護法を知っているだけではダメで, 他の法律や過去の判例等との整合性で考えなければならない,ということ。 そして個人情報にプライバシー(権)を関連づけるには別の議論が必要であろうということだ。
個人情報保護法が想定しているのは「グリッド・バブル」「ユビキタス・バブル」以前(2001年あたりまで)の時代であるように見える。 従って「プライバシー(権)」よりもむしろ「セキュリティ」とか「管理」といったキーワードとの親和性が高いように思える。
他にも, 以前今石さんからいただいたツッコミは実は OECD ガイドラインを踏まえたものだったのか? とか色々考えるところがある。
今回も本を探すのに苦労する。 知っている分野外の本を探すのっていつも苦労する。 しかし本屋さんの法律棚って凄いですな。
前にも書いたが専門家を自認する人達は近所の本屋を定期的に巡回したほうがよい。 法律関連の専門家がその辺の本屋さんの法律関連の棚を見たらどう思うのだろう。 特許法とか遺産相続とか紛争解決とか... 私は思わず「君ら金勘定ばっかしかい!」と叫びそうになってしまった。
逆に住基法や住基ネット関連の本は皆無。 「櫻井よし子」コーナーはあるのに例の本はなかった。 もう「消費者」の関心から離れてしまっているのだろうか。 「個人情報保護法」関連の本も皆無。 私は2軒目の本屋さんで棚の一番下の段にうずくまっている上記の本たちをようやく発見できた。 私の感覚では(私の本業が職業エンジニアであることを除外しても)「住基ネット」や「個人情報保護法」の方がよほど「日常」の問題なのだが, それは「世間」の感覚ではないのかもしれない。
こっちにはまだ書いてなかったようだ。 CJK 対応 Ghostscript 使いの方は是非!
「日記帳カナ」 9/25 の記事より。 9/26 に補足がある。
Thunderbird + Enigmail で GnuPG を使ったメールメッセージの暗号化ができるのだが, どうやら日本語環境でもいけるらしい。 現在「PGP 相互検証 ML」でも検証作業中。 PGP/MIME なら概ねよろしいかな。
いろいろ考えさせる記事。 ものを考える時は常に抽象化と具象化のプロセスを行ったり来たりしているわけだ(抽象的なイメージと具体的なイメージを同時に思い浮かべながら考える,でもよい)が, 「具象化」といってもそれは他の思考レイヤからみた相対的な位置付けでしかない点が重要,ということであろう。
私が Ruby などのスクリプト言語の理解に苦しめられているのは, 「抽象的なイメージを抽象的なまま記述する」ことができないからであるが, それは私が単に「C 言語」や「アセンブラ」といったインストラクションレベルの思考レイヤでスクリプト言語を理解しようとするからだ, という風にも言える。
とはいっても, きっとスクリプト言語を操る達人な方々はスクリプトレベルで記述を行いながら同時にインストラクションレベルでそれを理解するといったことができる人達なんだろうな, と思ったり。 むぅ,修行がたりん!
そういえば, 最近「プログラマとしての衰え」を感じてしまう事件があった。 ある障害の解析だったのだが, C/C++ 言語の記述を見てそれをインストラクションレベルで理解できるのは当然として, 逆にアセンブラコードを見てそれを C/C++ 言語レベルで理解することが困難になっている自分を発見してしまったのだ。 この理解力がないとファームウェアやカーネルのデバッグに重大な支障をきたす恐れがある。 はっきりいってこれはヤバい! なんとかしないと。
メソッドを書く順番は人それぞれだと思うけど, 私は違うところに反応してしまった。
C++ のクラスを書くのなら
class Hoge {
public:
Hoge();
Hoge(const Hoge& org);
virtual ~Hoge();
Hoge& operator=(const Hoge& org);
};
くらいまではパブロフの犬のごとく条件反射で書けるべきではないだろうか。 私の場合,更に
class Hoge {
private:
void Copy(const Hoge& org);
public:
Hoge();
Hoge(const Hoge& org) { Copy(org); }
virtual ~Hoge();
Hoge& operator=(const Hoge& org) { Copy(org); return *this; }
};
まで書くようにしている。 インスタンスのコピーを許可しないようにするなら
class Hoge {
private:
Hoge(const Hoge& org); //実装しない
Hoge& operator=(const Hoge& org); //実装しない
public:
Hoge();
virtual ~Hoge();
};
とすればいい。 何故こうしなければならないかは 『Effective C++』 あたりを読みなはれ。 まっこれもバッドノウハウだけどね。 だから C++ は嫌われるんだよなぁ。
9/26 に CPSR/Japan 年次大会があったそうである。 興味があるので端っこで立ち見くらいで見てみたいなぁとチラリと思ったが, 年度末のおりそんな暇があるわけもなく...
なんか来月も大阪での作業が延長になっちゃったし。 たまにゃ仕事以外で東京や大阪に行ってみたいよ。 そうそう, 「今度 cc-jp 大阪分科会作ってミーティング」はいつでも受けて立ちます (^^;)