病院で「ひねもすのたりのたり」しているとそのうち仙人になっちゃいそうだよ。 「黄庭経」とかないのかな。 まぁ実際にはいつものように体中にエンチャントを付けさせられているので, 言うほど快適じゃないけどさ。
ちうわけで, 恥ずかしながら「紅塵の巷」に帰ってまいりやした。 とはいえ, 心臓機能はまだ常人の半分程度なのでもうしばらく静養が必要。 なので, ここの更新ももうしばらく滞ります。 メールの返事も難しいかな。 リモートでの変更が容易な Weblog はなんとか使えるようにしたい。
入院中なので選挙も無理。 ということで今回は院内で「期日前投票」とやらをした。 しかも 7/7 の七夕に。 もちろんはじめての経験。
私が投票してからも選挙活動は続いていたワケで, なんか奇妙な感じ。 って言うか若年層が選挙に行きたがらない気持ちが分かるわ。
多分私達の世代かもうひとつ下の世代くらいまでは 「選挙は国民の権利であり必ず投票すべき」 と教えこまれている筈。 でもこれは躾というか洗脳に近いよね。 つまり「選挙には行くものだ」という刷り込みが行われているワケだ。 この感覚はおそらく欧米なんかとは違うんじゃないだろうか。
今回の選挙は(今回の選挙も)事前に結果は予測されていた。 そして実際の結果も予測の範囲内に収まった。 民主党は自己満足に浸ることができるが実際の政局には何らインパクトを与えない。 自民党の改選議席である51議席はデッドラインでも何でもない。 自民党が40議席を割り込んで民主党が60議席以上勝ち取ればインパクトはあったろうけど。 それこそ「ありえな〜い」だよな。
今回の選挙を見ると日本の政治ってのはつくづく「祭りごと」なんだな, と思う。 結果の決まっている選挙なんて「儀式」以外の何者でもない。 そんなものに参加するのが「国民の権利」だなんて(私達のように「刷り込まれた」世代以外)誰が信じられるというのだ。 どっかの Weblog では選挙に行かなかったことを書いたら非難轟々だったらしいが, 心情的には行かなかった人達にこそ同情してしまう。 でも建前は「選挙には行くべき」と主張するけどね。 ええ, 洗脳されちゃってますから, 私。
「7月7日は七夕じゃない!」 って TV に向かって叫びそうになったよ。 いや, うちの田舎って節句の行事が月遅れなんだよね。 大体梅雨時分に七夕っておかしいぢゃん。
お盆を8月にやってるところでも七夕は7月だったりするから笑ってしまう。 (ちなみに広島市はお盆も7月にやっているようだ)
まぁでも五節句(新春,上巳,端午,七夕,重陽)自体が明治のはじめに廃止になっていて今の節句の行事はその残滓みたいなものだしな。 細かいこと言ってもしょうがないか。
どっかの蘊蓄番組で「6月は何故「水無月」と言うのか」という問いに, 「「無」は「の」であり「水無月」は「水の月」という意味。 その証拠に「神無月」も「神の月」だから。」 などというまことに奇々怪々な回答を示していて, 私はその場でコケてしまった。 「水無月」が晩夏を指し, 今の暦的には7月後半から8月前半あたりを指すことを考えればそんな解釈はあり得ないだろう。 大体「水無月」が「水の月」なら「五月雨(=梅雨の雨)」や「五月晴れ(=梅雨の晴れ間)」の立場はどうなるんだ。 暦と季節感との乖離はここまで進んでいるのかと暗澹たる気分だよ。 まぁ, 9月を「September(7月)」と呼ぶのと同じような感覚なのかな。
国立天文台では「伝統的七夕」というものを定義している。 これは以下のルールで決められている。
24節気の中の処暑(しょしょ)よりも前で、処暑に最も近い朔(さく、=新月)の時刻を含む日(日本時間)を基準にします。 その日から、数えて7日目を「伝統的七夕」の日とします。
ちなみに今年の「伝統的七夕」は 8/22 である。 ちょうど日曜日なのでこの機会にちょっと星空を眺めてみて欲しい。
ところでこの「伝統的七夕」のルールはそのまま「文月」の定義として流用できそうである。 ということは睦月から師走までの12ヶ月を同様なルールで定義できそうである。 私は個人的にこれを「風流暦」と名付けてみた。
これを思いついたのは1年以上前で, Ruby の勉強がてら実装してから公開しようと思ったのだが, 仕事が忙しくなってそれどころじゃなくなってしまった。 もし「私がやっちゃる」という奇特な方がいらっしゃれば挑戦してみてください。 または既に同様なものがあれば是非御一報を。
ルールはそんなに難しくないと思う。 まず24節気のうち「中気」と呼ばれるものを抜き出し各月と対応付ける。
月名 対応する中気 睦月 雨水 如月 春分 弥生 穀雨 卯月 小満 皐月 夏至 水無月 大暑 文月 処暑 葉月 秋分 長月 霜降 神無月 小雪 霜月 冬至 師走 大寒
風流暦を作る際のキモは24節気と各月の朔日をいかに正確に算出できるかにかかっている。 年の概念がないのは風流暦を日常使う暦にしたくないから。 年の概念がないので風流暦はあくまで現行暦が正しく運行していることが前提になる。 現行暦の「某年某月某日」に対して風流暦の「某月某日」が一意に決定されるのである。 風流暦はあくまで暦と季節感のマッチングを楽しむものなのだ。
「んじゃあ旧暦でいいぢゃン」 と思われるかもしれないが, 旧暦は公には使われていない暦であり現行暦に対して旧暦が何月何日であるか正確には分からない。 また旧暦は一般的には天保暦と言われているが, 実際には現行暦以前には複数の暦が用いられていた。 つまり厳密な意味できまった「旧暦」というのは存在しないのである。 それに21世紀の現在にまで旧暦を引きずるのはナンセンスである。 それならいわゆる旧暦から季節感のみを抽出した風流暦の方がよほど合理的ではないだろうか。