あぁ, もう第四クオータに入っちゃったよ。 今年も結局仕事しかしなかったような。 とほほほほ...
まぁ仕事があるだけマシなのかもしれんが, 私はもっと「のほほん」と生きたい!
最近, 自宅のマシンでは秀丸の最新β版を使っている。 この今のβ版から UTF-8 の BOM をサポートするようになっている。 最新のβ20でも重要な変更が加えられている。 すなわち「名前を付けて保存したとき、UTF8のBOMの状態を覚えるようにする」である。 嬉しい改良だ。
個人的には UTF-8 の BOM は不要だと思っているのだが(UTF-8 では BOM は意味を成さない。 大きさ 0 の空白文字として扱われる。 UTF-8 の BOM は文字エンコードを識別するために必要だとする主張もあるが, そんなのは手抜き実装に過ぎないと私は言いたい), 既にあるものを削除するのはよろしくない。 ディジタル署名などとの絡みもあるしね。
ちうわけで, 秀丸は本格的な UTF-8 対応テキストエディタとして使えるようになってきているのであった。
帰広のついでに駅前の本屋さんで『iNTERNET magazine』 11月号を購入。 ありゃ, 本当に私の名前がある。 まぁ,でも,使っていただけるのは有難いことである。 CCPL を付けた甲斐があるというもの。
私には「コラボレーション」という言葉があまりピンとこない。 コンピュータ業界にいる人はみんなそうではないだろうか。 だってコンピュータシステムってのはコンピュータエンジニアやコンピュータ業界のためだけに作られるんじゃない。 入力オペレータのお姉さんや工場で働くおじさんおばさんのために, あるいは医療現場や宇宙開発や防衛関係やありとあらゆる業種と現場のために「より良い手段」として作られるものだ。 そういう意味では全てのコンピュータシステム開発は「コラボレーション」であり, ことさら強調するようなことではないのだ。
CCPL はどうだろう。 私は CCPL が「コラボレーション」を支援するとは思えない。 何故なら「コラボレーション」によって作られた作品は(消費者から見れば)単にひとつの著作物として機能するに過ぎないからだ。 CCPL が支援するのは既にある著作物の再利用性を高めることである。 「消費」と「創造」が同時にしかもお互いに深く関連しながら進行していくのが「今様」だろう。 確かに殆どが「便所の落書き」かもしれないが, 便所の落書きだって BBS のアスキーアートだってコースターの裏の走り書きだって思いつきの鼻歌だって, みんな「今様」に作られた「著作物」なのだ。
CCPL が支援するのは「コラボレーション」という「プロセス」ではなく, 著作物と著作物との間が儚い「蜘蛛の糸」で繋がっている「状態」を保つことだ, とも言えるかもしれない。 そしてここが GPL と決定的に違うところだと思う。
正直に言おう。 私はこの記事で(客先でサボタージュ中にもかかわらず)ぶち切れた。 ホント出張中でよかったよ。 これを自宅で読んでいたら, その場で(自分で読むのも恥ずかしいような)とんでもない罵詈雑言を書いてしまっていたに違いない。(そして数日後に大後悔するのだ)
「著作権はクソ」 とか 「単に権利を全部放棄すればいいじゃない」 という主張がある。 が,これは正しくないように思う。 もちろん社会的な規範がそういう方向にシフトしていくのなら別だが。 しかし今の社会の仕組みでは, ある財産権を放棄することは他者のものになることと同義なのだ。 そしてその他者が排他的な権利を主張すれば利用者から見れば結局同じことだ。 そして権利を放棄した貴方は他者の権利主張に(間接的にとは言え)荷担したことになる。(そしてさらに日本では「人格権」という厄介なものまである)
故に必要な戦略は権利の帰属先は確保しつつ排他的な権利を「行使しない(させない)」ことである。 「放棄する」ではなく「行使しない」こと。 これはかなり勇気のいる行為だ。 何故なら(本来自分のものである)コンテンツが自分の意図とは全くかけ離れた利用をされても文句を言わないということなのだから。 私だって今更ながらに自分の設定したライセンスにビビって眠れないこともある(少しウソ)。 著作権を主張するということは著作物に対して一定の責任を負うことと同等である。 それをちゃんと認識させるライセンスが CCPL 以外にどれほどあるというのだろう。
たとえ「表明保証条項」がなかったとしても他者の権利を侵害する可能性まで無くなるわけではない。 確かに権利侵害に対する保証を著作者ひとりで負うのは大変かもしれないが, だからと言ってそれを利用者に負わせるのは正しいことなのか。 そもそも「表明保証条項」がなければ損害賠償を免れるのか。
「もの」を単に消費するだけなら権利など考える必要はない。 それが特許や著作権を侵害していても悪いのは「作った人」だし, 名誉やプライバシーを傷つけるものだとしてもそれは「書いた人」が悪いからだ。 私達はいままでずうっとそうして過ごしてきた。 他人による他人の権利侵害なんて茶の間のワイドショウのネタでしかなかった。 しかし今や私達は単に「消費」するだけの存在ではない。 「消費」と同時に「創造」も行っているのだ。 そしてそれらの行為は(望もうが望むまいが)顕名的(管理可能)になってきている。 シャワールームで「雨に唄えば」を口ずさむ度に口座から使用料が引き落とされる時代がやってくるかもしれない。 CCPL が抱えている問題は単に CCPL だけの問題ではない。
「現実的にはロビイングによる影響力という点でも企業にはかなわない以上、実現困難なことを望んでいても仕方がない」 などと「ひきこもって」いる場合ではない。 専門家やジャーナリストがアクションを起こさないのなら, なおさら私達は「仕方がない」と諦めるしかないではないか。
私が Creative Commons に期待するのは利用者同士が仲良くやっていけるコミュニティの構築ではなく, Creative Commons をキーに各分野の専門家同士が結びついてアクションを起こす政治的な「コラボレーション」だ。 そしてその期待を表明するために今日も私は戯れ言に CCPL を貼り付ける。
「萌える!クリエイティブ・コモンズ(仮)」 は少しマジらしい。 ノーデリーとシェアラーの(絶対に出会わない)双子の姉妹に今から少し萌えぎみっス。
久し振りにやらかしました。 4コマ誌(ちなみに『まんがライフMOMO』)を読みながらコンビニの弁当を食べながら寝ちまいました。 朝起きるとあたりはとんでもない惨状に...
昨夜流川で私によく似た人物が花束持って歩いてたのを目撃した方, それは気のせいです。 すぐに脳内ログから削除してください。
広島駅前のジュンク堂で購入。 こういう面白い本はぜひ平積みにして欲しい。
暗号関連の適当な入門書って実はすごく少ない。 技術面に偏り過ぎてたり読み物としては面白いけど技術的なポイントを押さえきれなかったり。 私の場合, 今までは『PGP』を薦めてたんだけど, これもちょっと偏りぎみだし, いわゆる PKI の4要素(機密性,完全性(上記の本では真正性),認証,否認防止)を念頭に読もうとすると微妙に「ズレてる」印象があったり。 で, 社内向けにテキストを書いてみたりしたが, これもイマイチ。(このテキストには若干ウソが含まれているので注意。 いつか直そうと思いながら放置していたが,もはや無用の存在に...)
しかし今後はこの本を入門用として推奨することにしよう。 また暗号自体に興味がなくてもこの本にざっと目を通しておけば, 暗号やセキュリティの専門家が CSS や RFID の暗号をけなす理由が見えてくる。
せっかくなので私の中途半端な知識は取り敢えずチャイして読み進めてみる。 「アリス」をもっと前面に押し出せば最近流行の「萌える○○」シリーズの本みたいになったかなぁ, とか思ったり。
この本の優れている点ひとつめ。 用語の説明がきっちりしているところ。 この点について技術系のテキストではよくなってきているが, 他の(特に人文系の)分野でも見習うべきだ。 「用語」というのは所詮当事者間の「決め事」に過ぎず当事者以外は知らない(または異なる意味で使われている)のが普通である。 つまり著者が何気なく使っている言葉のほとんどは読者の知らない言葉であると考えて構成すべきである。(もちろん読み手を選ぶ論文などはこの限りではないが)
優れている点ふたつめ。 暗号そのものより機能や効果範囲により多くのページをさいてるところ。 特に「デジタル署名」の章は目から鱗だった。 エンジニアってのは利用者よりもロジックそのものに寄り添った視点でものを考えがちだ。 しかしこれはあまりよい態度とはいえない。 特に職業エンジニアの場合は致命傷になりかねない。(エンドユーザが知りたいのはシステムがもたらす作用や影響なのに,延々と仕様の説明を続けて客を怒らす SE やプログラマが今だにいる) 結城浩さんのテキストは, オンラインのものや雑誌連載のものも含めて, この辺の「立ち位置」が絶妙である。
あと, これはどの暗号本でも言及されているが, 暗号技術は問題解決の一部を構成しているに過ぎないということを認識すべき。 今回紹介した本についてもちゃんと最後の最後まで読まないとね。
以上,感想文終わり。
私も少し気になっていたが, 「暗号化」の反対語を「復号」とするか「復号化」とするか, について結城浩さんのコメントがある。
まとまったテキストとして考えるのならこういう割り切り方は大事だと思う。
シンメトリックなデザインに「美」を感じない私としては文法的な親和性の高い「復号」の方がいいかなと思っていて, 最近の文章では気をつけるようにしている。(人工物に囲まれた日常を送っている人達はシンメトリックなデザインに「美」を感じるか? とか思いついた) 一方で私は『PGP』の洗礼を受けている人なので用語としては「PGP に関する訳語表」にある訳語の方が違和感がない。 「web of trust」はやっぱり「信用の輪」だよねー,とか。
「暗号化」の反対語を「平文化」としてはどうかという意見もあり, 実際にそうしているサイトもあるようだ(「暗号 平文化」で Google してみるとよい)が, 私としてはそちらの方が違和感ありまくり。 日本語ってのはもともと文脈で判断するような言葉が多いのに, そこまで潔癖にする必要があるのだろうか。
そういえば PGP ユーザ ML で最近話題になったのが 「"man-in-the-middle attack" をどう訳すか」である。 馬場達也さんの対訳表 では「仲介者攻撃」となっている。 なりすまし(spoofing)の意味を含めて「中間者なりすまし攻撃」としてはどうかという意見もあるらしい。 結城浩さんの暗号本のように訳さずにそのまま「man-in-the-middle 攻撃」とする場合も多いそうだ。
このように「用語」の扱いってのは本当に難しい。 国際的な議論の場合はどうしても英語ベースになっちゃうしね。
ウイルス爆弾が止まらない。 メール自体も spam の体裁になっているし。 相手側の ISP にもメールを送ったが知らない言語(中国語?)で返事が返ってくるし。 ちうわけでトップページの冒頭に少々過激な文を置いています。 頼むから気付いてくれ!
最近さっぱりご無沙汰のお気に入りスタンドバー「ウスケボ」からメールニュースが届いていた。 おっ, Web サイトを開設(i-mode 用?)したのか。 ここのマスターはカクテルの全国大会にも出場したことのある名人でモルトオタクだ。
広島市内にお立ち寄りの節はぜひ,と宣伝しておこう。
先週は東風フォント関係で色々進展があったようである。
IT Pro の記事は「こっそり修正」前のタイトルを晒しておく。 この「タダなら OK」という感覚はどうにかならないのか。 「知的財産権が云々」とかいう前に, こういった20世紀な感性をどうにかすべきだろう。 ポストモダンとは 「富の再配分ではなく「リスクの再配分」が問われる時代」だ, ってのはどこかに書かれていたな。 「情報自由論」の最終回だっけ?
まぁその辺の愚痴はともかく, 日立プリンティングソリューションズの提示した条件を読む限り, 「公有フォント」として利用するのは問題がありそうな感じ。 で, 狩野宏樹さんが「今後の開発計画と協力のお願い」を表明されている。 恐らく今後はこちらの方にシフトしていくことになるだろう。 さて新しいフォント名はどうなりますやら。 楽しみ。
「リモートのソフトウェアやコンテンツ所有者に嘘をつけるという形でなければ、パソコンユーザーの権利は保護されないのだ、とSchoenは述べている。」
はいここ重要。 次の試験にでます。 プライバシーの基本だよね。 ウソをついてもよいという意味じゃないよ。 「ウソをつける余地も残す」 ということが重要なのだ。
読み物としてはなかなか面白いっス。 私のようなシロートには喩え話の方がよさげな感じ。
「コンピュータセキュリティ関係情報のRSS集」ってのがある。 おおっ! こりゃあいい。
♥ って実体参照があるのか。 つまり Web 上でも「だいな♥あいらん」とか書けるワケだ。
いろもの物理学者さんの日記(10/4)にも似たような話がある。 いや,実際大変なのよ。 英語と日本語だけならまだ頑張れるけど。 ドイツ語とかフランス語とかロシア語とか韓国語とか中国語とか... 無理! 勘弁してください。
私が「オープンソース」に対して抱いている反感は別のところにあるのだけど, この感覚も分かる。 「職人」としてのプログラマは絶滅しつつあって, 「本業」のついでに片手間でスパスパッと片付けられる人が「プログラマ」と呼ばれるようになるのかもしれない。 ...無理だな,私には。
それとも,プログラマってのは「社会人野球」みたいになっちまうのか。 それも嫌だな。 そういえば同じく梅田望夫さんのコラムで
ってのがあったな。 このコラムで感じたのは, アメリカ人にとって野球の組織論は経営論に繋がっているけど, 日本では, 「全員野球」というオトナ語に象徴されるように, 動員のロジックで用いられているということ。 野球以外でもそうか。 2002年のワールドカップなんか典型的だったものなぁ。
私はそんなものに巻き込まれたくない。 だからスポーツは嫌いなんだ。
なんかひーさしぶり。 今回の目玉は OpenPGP Card がサポートされたこと,かな。 あと SHA-256 がフル実装になる一方で TIGER/192 が外されたこと。 こうやって世界は 256 ビットハッシュへ向かっていくんだねぇ。
そういえば世間では次の月曜日は祝日なんだっけ。 あぁ, もう何がなんだか。 ここのところ1日に1つのペースでツールを作っているので, 自律神経がボロボロなのだ。 目眩いはするし, 夜眠れないし, 朝起きられないし, 頻繁に忘れ物をするし。 これって心臓にもメチャメチャ悪いんだよなぁ。 でも私より過酷なスケジュールで作業している人もいるんだよねぇ。 よく身体もつよなぁ...
まぁ, それはともかく, 次の月曜日が休みだと気づいたのは緑の窓口で切符を買おうとした時。 普通席に全部×印が付いていてビックリ。 しょうがないのでグリーン車に乗ったらそこは託児所だった。 これが連休というやつか。
で, 広島に着いた直後に戻りの指定席も買っておくことにしたのだが, 時刻表を見て更にビックリ。
「のぞみ」ばっかりやん!
10月のダイヤ改正で「のぞみ」と「ひかり」の比率が逆転してしまっている。 えらいこっちゃ。 それだけならまだいい。 今度の「のぞみ」は福山に停車するのだ。 これって体のいい「値上げ」じゃないのか?
はっきり言って「のぞみ」が「ひかり」より速いのは車体性能の差ではない。 「「のぞみ」のほうが停車駅が少ない」から速いのだ。 つまり10月からは(「ひかり」に比べて)「のぞみ」は速い列車ではなくなってしまったことになる。 広島-東京間の所要時間はついに4時間を越えている。 なのに「ひかり」より指定席料金は高い(広島-新大阪間で200円違う。)し自由席車両も少ない。
これは「改正」なのか? 「改悪」じゃないのか? ...まぁ今からこんなこと言っても遅いけどさ。 でもこんなひどい事になるとは思わなかったし。 普通「改正」されるって言ったら便利で速くなると思うじゃん。 それとも新幹線には乗るなってことなのだろうか。 私飛行機は苦手なんですけど。(耳がキーンってなるし,心臓にも悪そうだし)
せめて「のぞみ」の普通席指定券は「ひかり」と同額にして欲しい。 それが「勉強」と違うんかい!
よくもまぁこの手のネタがたて続けるものである。 なかでもこの記事は(悪い意味で)バカ受けであった。
わたしゃ思わず叫んだね。 「組み込みをなめるな!」
もう「Linuxのような本格的なマルチタスク」っていう時点で終わってますがな。 それともこの投稿は十年前のものなのか?
(MTOS は論外として)確かに RTOS 版の Linux カーネルはここ1,2年くらいで格段に進歩している。 が, TRON と RT-Linux や Windows Embeded ではターゲットとなる市場が異なり比較の対象にならない。 世の中がみんな「パソコン」みたいなもので構成されていると思ったら大間違いだ。 むしろ「パソコン」や「ネット」は巨大なコンピュータ産業の一角に過ぎない。
言っておくが 3G-UE の OS に RT-Linux 採用の動きがあるのは RT-Linux が TRON より優秀だからではない。 最近の 3G-UE なら RT-Linux も「実装可能」だからだ。 それだけ携帯端末の性能は向上しているし, 携帯端末に対する「パソコン」的なニーズがあると思われている。(本当にニーズがあるかどうかは怪しいが)
それに TRON の「ProjectX」出演以来の積極的なプロモーション活動は明らかに eTRON を念頭に置いたものであり(上の記述もそう解釈してね), これ自体は「すきまOS」どころか, これからのユビキタス・バブルを睨んだ戦略商品なのだ。 だから真剣にもなるしリップサービスも多めになる。 Microsoft もそれが分かっているから「提携」したのだ。(きっとよそのプラットフォームでも提携している(しようとしている)に違いない)
私は池田信夫さんという方には全く面識がないのだが, 今回の投稿はかなり致命的だろう。 知財関係はよく分からないが, コンピュータ技術に関しては参照する部分はないと断言しておこう。
もう旬を外しちゃってるので以降は十把一絡げでいく。 ホントにたて続けだよ。 かなり辛辣な内容なので, そういう方面のストレスに弱い方は読み飛ばしてください。
別に示し合わせてらっしゃるわけではないだろうが, (先程紹介した投稿を含め)四者のコメントには通底するものがある。 そしてそれは私の「オープンソース」に対する反感ともリンクしている。
ちなみに三番目の記事にはツッコミを入れてみた。 私としてはかなり意地悪な文章のつもりだったのだが, 軽くスルーされてしまったのはラッキーだったのかアンラッキーだったのか (^^;)
私はいわゆる「オープンソース・エンジニア」ではないし, 将来そうなりたいとも思ってない。 今の「職業エンジニア」の立場でも無視できない「オープンソース」の「力」に対してどう凌いでいくか日夜悩んでいるだけだ。 私が期待していたのは(「期待」するものがあったとすれば), 「私のような「輩」をまつもとさんのような立場の方がどのように見ているか」だった。 しかし結局はいつものロジックの繰り返し。
そういえばまつもとさんのレスポンスもかなり辛辣ですな。 「梅田さんの真の意図は私には分かるはずもない」ってのはジャーナリストに対するかなりの酷評だろう。 「貴方の記事は何を言おうとしているのか分からない」って言ってるのと同じ。 故に梅田望夫さんはそれに対するレスポンスを書かざるを得なかったのだ。(まぁ私は梅田望夫さんのコメントが読めたのでラッキーだったけど) また私が「まつもとさんだから」と書いたのに対応して「どちらかというと凡庸な部類」と答えられたのでは, それは私が「凡庸以下のクズ」であると言っているのと同じだ。 まぁそのおかげで更に反論する気が失せたのだが。
四人のコメントに共通するのは「恐ろしくナルキッススな振る舞い」だ。 例えて言うなら, 鏡に映っている右利きの「私」に向かって, 「君は左利きだね」と名探偵ぶりを発揮するような感じ。 上記の記事に即して言うなら三人とも明らかに元の記事をちゃんと読んでおられない。 単に「オープンソース」とか「Linux」とかのキーワードのみに反応して批判されている感じ。 文脈が読めていれば『週刊ダイヤモンド』の記事が黄色い内容だとすぐに気付く筈だし, 黄色い記事にツッコミを入れること自体が FUD だと気付く筈である。
誰かに向かっているようで誰にも向かっていない。(まぁこれは(私を含めて)日記/blogコンテンツに多い傾向だけど) 鏡越しのやり取りはコミュニケーションたり得ない。 あのときはそれを「微妙に外してる」と表現したが今ならもう少し具体的にツッコめたかもしれない。
邪推だが, これは「オープンソース」の歴史過程の問題があるのではないだろうか。 「フリーソフト」や「オープンソース」に対する外圧に「美」で対抗しようとする, 例の「力と美」の関係である。 しかし「オープンソース」のコミュニティおよびその成果物は既に実世界に大きな影響力を及ぼしている。 私のような場末のエンジニアまでビビらすほどに。 そのような状況においてなお「美」を強調してもそれは「恐ろしくナルキッススな振る舞い」にしか見えない。 私はここで, このような傾向を示す(特定のキーワード(というかスティグマ)で分類される)別の集団を連想するが, それは言わずにおこう。 私もその集団に属するらしいし。
先週から続く一連のネタから得られる教訓は, いつものように, 「オープン」あるいは「オープンソース」という言葉を安易に使うな, ということである。 文脈に関係なくこれらのキーワードに反応する人達がいる限り安易に使うのはリスクが高すぎる。 彼等にとって「オープン」とは「公開」とか「解放」とか「自由」を指すものではなく, 「オープンソース」コミュニティに帰属する概念なのである。
例えば TRON を「オープンアーキテクチャ」と呼ばずに, 単純に「公開仕様」とでもしておけば「オープンソース」コミュニティからあのような反応はされなかったはずである。 そのくらい「オープン」という言葉は自由度を失っている。
私が「鏡越しのコミュニケーション」のインスピレーションを得たのは, ホテルの有料放送でミラーマンの再放送を見たからに違いない, と日記には書いておこう。
ツッコミで八田真行さんより素晴らしいコメントをいただく。 恐縮です。 せっかくなので(スクロールアウトしないうちに)一部をここに引用する。
「オープンソースエンジニア」になるとかならないということより、このままいくとおそらく「プログラマ」という職業自体が再定義されることになるのではないかと私は考えています。すなわち、特定のニッチに特化した専門「職人」と、コンサルタント的な要素が従来のSE以上に強くなった「ハックもするコンサル」とに二極分化するのではないか、と。
これには全く同感。 現場にいて最も強く感じるプレッシャーはこの「予感」である。 なんていうか, 昔お庄屋さんだった「家」が戦後に兼業農家に追い込まれついには(後継者難で)廃業せざるを得なくなる(← そりゃうちの本家だ)ような感じ? みんなそゆの気にならないのかなぁ。
私の巡回コースでこの点について(暗黙的にも)言及があるのは, ジャーナリスト系の blog では, 梅田望夫さんの blog くらいだ。 この方の「企業経営」という立ち位置からの記事は非常に参考になる。 ファンです,私。
おっと, blog じゃないけどこういう記事もあるね。
そういえば昔, CASE ツールが流行りだした頃に 「CASE ツールが進化すればプログラマは不要になる」 といった言説があって私は一笑に付していたのだが, 今回のはやたら危機感がある。
プログラマが今後も(SE やコンサルタントではなく)「職人」としてやっていきたいなら, もっとハードウェアよりのレイアに降りるか「本業」から「副業」にシフトするしかない。 私はおおかた四十路の年齢(行きつけの飲み屋でも常連の間では「おおかた四十」組に分類されている)だが, 今のところ「職業プログラマ」としての定年を50歳に設定している。(もっともその後のことは全くあてがないのだが...) 後十年もすれば世の中の状況は一変している筈である。 この変化の真っ只中で私は「うまくやっていける」のだろうか。 一応「マイコンからワークステーションまで何でもこなす」プログラマということになっているが, 最近はアプリケーション・レイアの仕事ばっかりやっている。 恐らく真っ先に「再構築」されてしまうのはこのレイアだろう。 私がやっている行為は(「職人」としては)自己破滅的な行為ではないのか?
しかし恐らく現時点で20代くらいでバリバリやっている人は今の状況を当然のものとして受け入れていることだろう。 そういう若い世代にちょっぴりジェラシーを感じてしまうもうすぐ38歳の秋であった。
先日の「よりどりライセンス」をもう少し詰めて考えようと思っていたら, 既に「FlowerLounge はてな版」で書かれていた。 核心をついていると思います。 さすが生き別れの兄弟(笑)。
ライセンスをアーキテクチャに組み込むことへの危険性は既に「RMS インタビュー」でも指摘されている。 その辺のさじ加減(具体的にはネットワークシステムとの親和性)をどうするかが CCPL や今後出てくるであろうライセンスツールの課題になっていくのだろう。 個人的には検索サービスのオプションとして組み込む程度で止めておくのがいいと思う。 それでも「Google 八分」みたいなものに利用されかねない危険はあるけど。
一方, 高木浩光さんのこの記事も面白い。
以前から著作権について意識的に考えている人達にとっては CCPL は逆に中途半端な印象を受けてしまうのかもしれない。 まぁ(派生作品を意識しなくてよい)論文やマニュアルとかなら GNU/FDL でもいいのだろうけど。 この記事を見て思ったが, nd (No Derivative Works)オプションは, 基本的にフェアユースを認めない日本では(本家のアメリカに比べて)かなり過酷な制約を課すことになるのではないだろうか。
「FlowerLounge はてな版」で紹介されていた面白いページ。
略称とか読みにくい単語の発音がリストになっている。 「Rijndael」とか普通の日本人は読めないっしょ。 便利。
私の公開鍵暗号についての見解は随分前に書いた喩え話をどうぞ。 念押しに書いておくと公開鍵暗号とプライバシー等の問題は直接にはリンクしない。 公開鍵暗号で問題になるのは「その鍵は本当に本物なのか」ということで, これは PKI の4要素のうちの「認証」の問題に帰着する。 そして「認証」は逆用すれば個人追跡の手段として用いることも可能である, というのが「危険なテクノロジー」としての公開鍵暗号の問題の核心である。
しかし「認証」の問題はテクノロジーの問題ではなく社会基盤の問題として考えるべきだ。 たとえ公開鍵暗号テクノロジーを社会的に屠ったとしても「認証」の問題は消えない。 技術的な問題と社会的な問題は切り離して考えないといけない。
「認証」の問題はこう考えてはどうだろう。 「あるシーンにおいて本人が本人であることを証明する必要が本当にあるのか?」 である。 X.509 ベースの PKI は本人を一意に特定されてしまう可能性があり, なおかつ各所に散らばる個人情報を結合する鍵(固有ID)として機能する可能性がある。 だがこの仕組みにニーズがあることも確かである。 PKI が「固有ID」として機能してしまう例としては「通信キャリアの独占型PKIは安全なのか」が参考になる。
公開鍵の認証に限って言えば「その鍵は本当に本物なのか」が証明されればいいのであって, 必ずしも「本人の鍵」であることを証明する必要はない。 一見矛盾しているようだが, これは公開鍵をたくさん所有することである程度実現可能だ。 つまり本当に本人と関連づけられる「本人の公開鍵」をひとつ用意し, 普段のやり取りではその鍵で証明された別の公開鍵を使えばいいのだ。(状況によっては証明する必要もない)
やり取りごとに鍵を変えれば, それは「固有ID」として機能しにくくなる。 実際に最近の私の仕事のスタイルもそれだ。 客やプロジェクトごとに鍵を生成し, 必要であればマスタ鍵で署名する。 こうすれば鍵から異なるプロジェクトの情報がリンクされる危険性も減るし, 引き継ぎや退職の際もプロジェクトごとに必要な鍵だけ渡せばよいことになる。 もちろん鍵にはプロジェクトの規模に応じて有効期限を設定しておく。 プロジェクトごとの鍵は「私」ではなく「プロジェクト」に関連づけられているのがポイントである。
これだけでも鍵運用のリスクを回避できる。 が, こういう運用を可能にするためにはシステムがそれを許容する設計になっていなければならない。 X.509 ベースの PKI でも上記のような運用が可能だが, 基本的に証明書の取得にコストがかかるため現実的には難しいのではないだろうか。
というわけで, 私達一般の人が OpenPGP による PKI (やその上位アプリケーションである PGP/GnuPG や OpenPGP Card など)を指向することはそれなりに意味がある。 私達は「実印」や「銀行印」だけあればいいというわけにはいかない。 お手軽に使える「認め印」も必要なのだ。 詳しくは結城浩さんの暗号本 をどうぞ。 暗号技術自体に興味はなくても PKI に興味がある方や仕事で関る方は最低でもこの入門書程度の基礎知識は身につけておこう。
さてもう一方の「危険なテクノロジー」であるフィルタリング技術。 これも突き詰めて考えればフィルタリング技術が一種の権威・権力として機能する事に問題があるといえる。 何故そうなってしまうかというとフィルタリング技術の持つ利便性のために何の根拠もなくフィルタリング技術やそのデータベースを信用してしまうからではないだろうか。 この精神的な依存状態はフィルタリングがスマートであるほど強化される。
例えば Google の PageRank にやたらこだわる人がいる。 これは既に Google を権威化し強依存関係になっていることを示す分かり易い例だ。(そういえば検索サービスによるキーワードのヒット数をやたらと自慢する企業 CM があったな) こういう人には「Google 八分」のような機能はテキメンだろう。 逆に検索サービス自身をあまり信用していない人は依存度も少ないし「Google 八分」の効果も少なめだろう。
「フィルタリング技術の権威化」の問題はやはりその技術自身とは切り離して考えなければならないように思う。 しかしこれといったアイデアは浮かばない。 ので,そのうちまた。
7月以降, 出張中に買った単行本。(部屋に積み上がってた順)
うぅわ, 見事に4コママンガばっかし。 偏ってるなぁ。 たしか来月だったかには『ラディカル・ホスピタル』の5巻と『1年777組』が出る。 あと「新約 聖剣伝説」の攻略本も買ったんだけどイマイチよく分からない。 金ぴかのヘルムってどこにあるの... って,あぁ,奴が持ってるのか。 ネットは便利だ。
面白い。 これを利用すれば画像のひとつひとつに CCPL を設定することも可能。 個人的には RSS は 日記/blog とは切り離されたところでその真価を発揮できると思う。 私がやっているのは文書の履歴・バージョン管理。 他にも色々応用はある筈。
9.11 時のハイジャックでは犯人は従業員に化けて侵入したという話もある。(「911事件と空港セキュリティ」) そもそもバイオメトリクス認証を使えば「搭乗手続きを迅速化」できるという話には全く説得力がない。 それとも本人確認ができれば身体検査や荷物検査をスキップできるのか。 取得したバイオメトリクス情報や発行された二次元バーコードが再利用される可能性はないのか。 「指紋をとる」というと凄い反発があるのにバイオメトリクスなら OK なのか。 よくわからん感覚だ。 バイオメトリクスを「認証」技術と呼ぶのは止めようよ。
バイオメトリクスによる確認が必要なのは乗客ではなく飛行機の乗務員や空港関係者ではないのか。 乗客を犯罪者のごとく扱って君らフリーパスか?
ありゃ, 書き忘れていた。
「萌える!クリエイティブ・コモンズ(仮)」の同人出版企画がうちとこの Wiki にて本格的に始まりました。 我こそはという方はぜひ参加を。
そうそう, 「リアル座談会(=痛飲)@大阪」の参加者も募集中。 「宴会はみんなでやれば恐くない」です。 御用とお急ぎでない方は是非。
「せち日記 2nd」に SETI@home/BOINC への移行プランについて書きました。 興味のある方はどうぞ。
BOINC って汎用のプラットフォームなので, その気になれば自前で分散プロジェクトを立ち上げることができる。 日本発の分散プロジェクトは Collatz'sAnti-Example@home くらい? もっと色々できるといいなぁ。
しかし, 片やスタンフォード発の Creative Commons, 片やバークレイ(CAL)発の BOINC。 宿敵同士のプロジェクトに両方首を突っ込むというのは倫理的にどうなん?
「的日記」 9/30 の記事に 「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」 に対するコメントが。 見落としてました。 山根信二さんの記事もそうだけど, 私はお二方のように冷静に書けないなぁ。 数日おいてあのレベルだもの。 見習わなければ。
CCPL が流行るかどうかについて映像や楽曲などで採用されるかどうかが鍵になるというのは核心をついているような気がするなぁ。 特に「素材」作者の方々かな。 そういう方面にアピールするようなやり方があるかどうか。 「萌えクリ」本にもそういう試みが盛り込まれるといいなぁ。
萌えクリリアル座談会@大阪楽しゅうございました。 実は私もあまり覚えていません。 例のネタについては今のところ脳内のアイデアを文章にシリアライズ中です。 うまく文章化できたら公開します。
「萌えクリ」については, 段取り等について私が何も知らないことを再確認しました。 FlowerLounge さんもわりと似たりよったりのところみたいですが。(もちろん私よりはちゃんと考えてくださっている) しかし, そういうプロセス自体を楽しんでいる部分もあるので長い目で見てやってください。 なんせまだページ数も決まってないし。(^^;)
次は12月六本木界隈か? 思いっきり月曜日なので微妙だが, レッシグ教授をはじめ CC な方々には是非お会いしたい。
Firebird 0.7 リリース! しかも日本語版のインストールパッケージも公開されている。 ブラボー! これでますます Opera は「いらない子」になってしまう。 せっかくお金払ったのに。
体感速度が少し上がったような気がする。 0.6.1 からなのかなぁ。 特に「戻る」ときのもたつき感が軽減されているのは嬉しい。
「はてな」の「おとなりページ」って「はてな」内部のサービスかと思ったら, 「はてなアンテナ」のデータベースに入っているサイトならどこでも使えるらしい。 例えばうちのおとなりページはこんな感じ。(要 Java)
どっひゃあ! なんかすンごいところ達と「おとなり」なんだけど, ええんじゃろうか。 何と畏れ多い。 というわけでトップページに貼り付けてみた。 けど他所もんがこゆことやったらまずいかな。 マズかったら即外します。
勤務先で『日経エレクトロニクス』を定期購読しているので, 件の特集記事を読んでみる。 ネットの巷では八田真行さんの blog 記事を発端に物議になってるみたいだけど, 内容的にはいたってまともだと思う。 つか, 職業エンジニアならこの記事は絶対に読んでおくべき。 何としてでも手に入れなはれ。
個人的な感想を言えば, 「不正コピーは限りなくクロ」 というのは言い過ぎだと思う。 五分五分ってのがいいところじゃないのかな。 アメリカではプログラムを起動しただけで著作権侵害の可能性があるということは初めて知った。 なんか非常に直感に反する考え方のような気がするけど。 日本ではどうなんだろ。 あと, GNU/Linux 等の成果物が権利に関して全く野放図な状態だととられかねないような表現もどうかと思う。 そしてその責任の全てを作者・開発者側に求めるのも現実的ではない。
私は SCO の件は今だに「いいがかり」だと思っているけど, 今後もっと周到なやり方で来られた場合にどうなるかは分からない。 また権利侵害の可能性の問題は昔から言われて議論されていることで「いまさら」という感じ。 問題なのはそういう懸念が存在し続けることをスポイルしてしまって「行け行けドンドン」でやってしまっていることだろう。 「ビジネスチャンス」というものがあることは理解できるが, 「もの」は作ってしまえばいいというものではない。 あらゆる意味で「使える」ことが保証されなければならない。 これは例えばソフトウェアの脆弱性に対する取り組みなどでも言えることだ。
そう考えると巻末の対談の坂村健さんの爆弾発言(?)も別のニュアンスを帯びてくる。 この対談もなかなか面白い。 私は別の場所に反応してしまった。 すなわち MS の古川享さんの
「車が衝突した時,エアバッグを出す前に砂時計が画面に出てきたんじゃ,しゃれにならない。」
という発言。 ちゃんと認識してるんだ,そういうの。(^^;)
個人的なことで申し訳ないが, 例の話は本当らしい。 今週末はゆっくりする予定だったがバタバタしたり落ち込んだりして更新が鈍るかもしれない。 申し訳ない。
「葬式は故人のためではなく「残された者」達のためにやる儀式」 というのはよく言われるが, 「見送る」という言葉の重さをこれほど感じたことはない。 親戚筋の人を亡くすのとはまた違った「想い」がある。
まぁ私もきっとそんなに長生きはしないだろうけど, そのうち彼岸に行くことになったらまた遊んでもらうことにします。 そう「想う」ことに決めました。
私はディベート型の議論にはあまり慣れてないので, その点で「がっかり」されたのであれば申し訳なく思います。 私は高木浩光さんほど「叩き」に対して悪印象を持ってなくて, 叩きあうことで高めあう議論のやり方は「あり」だと思っています。 ただし,そういう戦術のとれる人は限られると思いますが。
経営の世界でも一方では口汚く罵りあってる企業同士が別の分野で仲良く提携するというのは日常茶飯事だし, そういうマルチかつドライな感覚がないとディベートはできない。 ましてやそれを人間関係や宗教の問題だと勘違いするのは論外。
私の場合, 「思いつき」レベルでもいいのでアイデアを出していってそれを一面に並べて「どうだ」と考え込むタイプ。 ちょっと「KJ法」ぽいやり方かもしれない。 ここの記事はどれもそういう「思いつき」の紙片の束に過ぎないので, 「反論が書ける人のはず」というのはちょっと買いかぶりに思えて恐縮してしまう。 いや,努力はしますよ,もちろん。
で, そういうタイプの私から見て Creative Commons ってのはまだアイデアの紙片を並べている段階であり, 「議論」に達していない。 日本で議論ができるようになるのは早くても12月(つまり日本版 CC が正式に立ち上がる時期)以降だろう。
また Creative Commons は, それ自体がひとつの問題提起になっている。 どんな問題かというと, 「以前ならとても「創造的」とは思われなかったレベルにまで知的財産権によるコントロールが及ぼうとしている」 ことであり, そのような「権利」のあり方にコミットできないことだと思う。
だから, 主に海外からだが, 「世にある CCPL を貼り付けた「作品」はとても創造的とは思えないものばかり」といった非難は全く的外れであり, 八田真行さんのおっしゃる「CCPL は創造的な活動に対するインセンティブにはならない」というのも外していると思う。
Creative Commons の知名度は低い。 ネットで権利関係に意識的なコンテンツばかりをフィルタリングして巡回していればそう感じないかもしれないが, 世の中全体で見れば Creative Commons なんて「誰も知らない」にほぼ近似できる程度の認知度だ。 実際, 時々ここを見にくる私の友人すら「知らん」とか言いやがるのだ。(「お前のサイトは何が書いてあるか分からん」と言われた (^^;)) であるなら, (パクリと言われようと)「萌えクリ」を出す意義はあろうというものだ。 Creative Commons はまだそういう段階なのである。
これが私が「反発」する理由だ。 議論の対象にならないものを強引に議論に持ち込もうとしても「反論」できるわけがないではないか。 せいぜい「それを言うのはまだ早い」程度の言い訳しかできない。 (まっ「ぶち切れた」のは完全に私の感情の発露によるものだけど) 同じことをこっちが逆にやったら完全にスルーされたけど。 (^^;)
ツッコミによると八田真行さんが例の記事の事実誤認の部分を指摘されるとのこと。 期待大です。
しかし一方であの記事は「現場の感覚」に非常に近い内容であることも考慮して欲しい。 私があの記事を「まっとう」だと思うのはその点に尽きる。 その上で(事実誤認の部分はもちろんですが)問題点を抽出できるのなら是非読みたい。
(某 ML でも書いたけど)本当に知りたいのは定義・原理ではない。 「その次」にあるものだ。 つまり, 「それ」がどう機能するのか, 「それ」によってどう影響を受けるのか, そして「それ」の効果範囲である。
それを知った上で「それ」が要求仕様を満たさないのであれば自分達で何とかしなくてはならない。 そういう意味じゃ「歴史的経緯」がどうのとかいう話は「トリビア」レベルの問題なのだ。(当事者達はそう思わないだろうけど)
最近の spam はなかなか凝っているようで。
spam 業者とウイルス作者(?)のコラボレーションとも思える動きはわりと最近の傾向のようだ。 そうそう, うちに来る spam 体裁のウイルス爆弾は一向に減る気配を見せないので, トップページの警告文を削除し, かわりに hinet.net を経由するメールメッセージは全て捨てることにした。 日本の ISP じゃないようなのであまり影響はないと思うが, メール発信に hinet.net を利用している方はご注意を。
しかし, こゆことをやるので「ゴミ箱」漁りが日課になってしまった。 なんだかなぁ。
「変なメール」はうちにもきた。 こういうのは無視することにしているが正解だったようだ。
前後編あって全部で4ページ分の長文記事だが非常に参考になる。 私も管理についてもう少し整理してみるか。
「Esaka Takeru's Memo」 10/17 の記事より。
私のようなシロートでも比較的読みやすいように思えることが, まず秀逸。 でもここで感想を書くのは難しいか。 日本の法学や経済学の現場では「法と経済学」はどのように見られているのだろう。 あるいは最近日本にもできた「ロー・スクール」では「法と経済学」のようなものも扱っているのだろうか。
SACニュース No.752 も参照のこと。
情報収集衛星のときもそうだったが, 宇宙開発ネタは技術から政治へシフトしつつあるように思える。(技術関連のニュースが減っているわけではないが)
しかしこれは考えてみれば「宇宙開発」が未来から現実に少しずつ降りてきている証拠ではないだろうか。 現実的な問題であれば経済あるいは政治上の問題が噴出してくるのはむしろあたり前の話で, それを乗り越えていかなければ「未来」は「現実」にならない。
というわけで今後は宇宙開発ネタは基本的にこちら側に書くことにする。 まぁ探査機の情報とかは今後も向うでフォローするかもしれないけど。
そうそう, 同じくふくはらさんの記事で「日本人は日々宇宙食を食べている」はタイトルでバカ受けしてしまった。
取り敢えず来月出る『本とコンピュータ』は買っておくべきか。 どこの棚にあるんだろ。 コンピュータ書籍のコーナー?
「反対運動を自己目的化」とそれに対する「レッテル貼り」の現状については山根信二さんのところにも少し言及がある。 耳の痛い話。 「レッテル貼り」ってのは自らの「表出」を満たす心地よい行為なので, 相当気をつけないとつい罠にハマってしまう。
う〜む, こういう風に思われているのかぁ。 なんだかなぁ。
「検証」ってのは製品の由来がなんであれユーザサイドで必ずやる行為。 「オープンソース」であろうが「プロプライエタリ」であろうがそれは同じこと。 Windows なんて最初の製品リリースから実際に「使える」と判定されるまで通常一年かかる。 サービスパックに対しても特急で1,2ヶ月程度だ。 問題はそれにかかるコスト(期間と人件費)なのだ。
中小企業が優秀なエンジニアを使い一年もかけて Windows の検証を行ったら, それだけで経営が破綻しかねない。 だからシステムが要求する最低限の機能のみを検証し問題があれば MS にクレームをつけるという形で解決する。 MS はクレームすら有償にする企業だが, それでも自力で解決するよりは「安い」のだ。
オープンコードで無保証なソフトってのは基本的に自力解決しか道がない。 そんなことを(大手の企業ならともかく)山ほどある中小のソフト会社ができるわけがないではないか。 「そこをなんとか」(オトナ語)するには MS のようなベンダが提供している程度の「保証(つか「保障」かな)」サービスを誰かにどこかで立ち上げてもらうか, それもダメなら(IBM なんかがやってるように)安くもない金を払って「オープンソース・エンジニア」を雇うしかないかもしれない。(しかし経営者が最も削りたいコストは「人件費」である) これが今世間で起きつつある「変化」だ。 この点を考慮に入れないと「無保証」に反発する感情は理解できないだろう。
以下参考:
もうひとつ。 本来のマーケティング的な意味の FUD というのはライバル企業に向けられた攻撃ではなく消費者に向けたアピール(コマーシャル・メッセージ)であることを理解する必要がある。 したがって, 消費者にそれが FUD であると気取られてしまえばもはや FUD として機能せず, むしろ逆の効果をもたらす可能性さえある。 今時こんなリスクの高い戦略をとるということはよっぽどのことである。 ちなみに相手の行為を FUD だと非難することは, それ自体が相手に対する FUD になり得ることにも注意する必要がある。
これが山根信二さんの言う「専門家が用いる FUD」と決定的に違う点だ。 「専門家が用いる FUD」は相手との議論を封じる手段であり, その対象は(聴衆がどう感じようと関係なく)直接相手に向けられている。 もっとも「専門家が用いる FUD」は実はマーケティング上の FUD の一部だったり, というのはありがちな話なのだが。 その場合, 消費者から非難を受けるのは「専門家」の方だというのがミソ。
ある企業にとって自分の顧客をちゃんと囲い込めて自分の持ち分(である筈)のパイを相手企業に食い散らかされなければ, 相手が生きようと死のうと知ったことではないのだ。 それにもしかしたら他の分野ではその相手と提携する可能性だってあるんだし。 それを見抜くのが「消費者のリテラシー」だ。
来月号から『まんがタイムきらら』が(「オリジナル」の増刊号じゃなくて)独立創刊になるらしい。 めでたい! 来月から全てのコンビニ店で「きらら」を発売日に入荷すること。 毎月手に入れるのに物凄く苦労してるんだから。
ちなみに『まんがタイムきらら Carat』も手に入れるのに苦労する。 前回 VOL.2 は遂に手に入らなかった。 竹本泉さんの「バラエティもーにん」を一回分見損ねてしまったぢゃないか!
ちょっと色々あって広島にいます。
残念だが, まぁ予想通りの結末。 あくまでも外野からの感想だが, 今回の件は問題発覚から制作終了までの交渉が非常にうまくいった例ではないかと思う。(もちろん終了しないのが最良解だが,東風フォントの性格から考えてあり得ないだろう) こういうのってモメる印象があるので, 淡々と交渉が行われたというのは凄いことではないかと思う。 関係者達の努力の賜物というところだろうか。
久し振りに CC-jp をのぞいたらコモンズ証の翻訳バージョンが上がっていた。 本家が模様替えしたので, それに合わせたもののようだ。
わけあって CC 関連のコンテンツを読み返している。 参考になると思うのでリストアップしておこう。
リンク集は以下を押さえておけば大丈夫だろう。
以下は特に参考にすべきコンテンツ。 どれも以前に紹介したことがある筈。 ただし, 技術面や法律面に寄っているコンテンツについては省いている。
RDF/RSS 関連は以下を注目。
おおっ! Mat さんが「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」に関しての見解を公開されている。
ちなみに BOINC と Creative Commons で試してみたら「知らん」と言われた。 固有名詞はダメなのかな。
ツッコミに崎山伸夫さんのコメントが! なんか最近ここ凄いなぁ。 そろそろ本気で「戯れ言」の書き方について再検討せんといかんかもしれん。
専門家-FUD-政策担当者 のような形は失念していた。 しかし考えてみれば「専門家」がこれほど悪く言われるのは, あらゆる立場の人達が都合のいい「専門家」をチョイスできてしまうからではないだろうか。 つまり「専門家」ってのは専門家以外の人達から見れば単なる「消費財」に過ぎないということになる。
と考えるなら, 山根信二さんの言う「無念」の意味も違って聞こえてくる。
「hirokiazuma.com@はてな」 10/22 の記事より。
要は、村社会というのは、決して「おれたち村を作りたい」というストレートな(動物的な?)欲望で作られるものではなく、「村ってキモいよね」とかいうシニカルな連中こそが実はいちばん村社会を作りやすくて、日本ではそういうシニカルさが妙に発達している、という話なんだけど。
ああああっ! そのとーり! (前半は竹本泉さん,後半は財津一郎さんで)
最近耳の痛い話が多いなぁ。 あちこちで聞かれる(と自覚してしまう)ってことは一種の警告だよね,これは。 本当に気をつけないと。
「Esaka Takeru's Memo」 10/23 の記事にも似たような話が紹介されている。
最近の「山形浩生勝手に広報部:部室」でのやりとりが面白い。
こういうのって議論としては既に終わってて(つまりコンセンサスはとれている), それを「外」に向けていかにプロモーションするかってえ段階だと思っていたのだが, そうでもないようである。 それともこれらのやり取り自体が一種のプロモーションなのかな。 「広報部」だし。
そりゃそうだな。 「善悪」の規範の外にいる人に「善悪」で以って説得するのは無理。 それは「殺人」でも「オープンソース」でも同じこと, という話。
だから社会学あるいは経済学的なアプローチやリスク・コミュニケーション等の戦略が必要になってくる。 ふむ。
その吊り広告も相当な内容だけど(何でこんな一目で「変」と分かる広告を作るのだ。作るのだって無料じゃないだろうに), 紹介された essa さんの「社内吊り広告にもツッコミ機能を標準装備すべき」もウケた。 面白い!
きっとネットのツッコミ/コメント機能よりも大変なことになると思うので, 見てみたいような見たくないような。
レッシグ教授の blog より。
音楽コンテンツを自由に流通させるためのプラットフォームを構築するプロジェクト, とでも言ったらいいだろうか。 こういうことをやってしまう彼の国のパワーはやっぱり凄い。
面白いと思うのは, プラットフォームは GPL で, コンテンツは CCPL で, といった具合にライセンスを使い分けているところだ。
私が GPL を素晴らしいと思うのは, 「流通と消費」を「製造・制作」から敢えて分離することでライセンスの見通しを良くし, 「コードの自由」を手にしようとしている点である。(これが「無保証」の真意だと理解している) 一方 CCPL では, むしろ「流通と消費」(再利用を含む)における自由を重視する。 このプロジェクトは, GPL が(敢えて)サポートしない部分を CCPL で補完することによって, システム全体で(法的な意味も含めて)「ユーザ・フレンドリ」な設計を目指しているのではないのか。
実は私, 八田真行さんの「叩き」コラム以降(厳密にはコラムを見てのぼった血が沈静化しはじめてから以降)ようやくこのことに気づきはじめていて, 何とか文章化できないものかと思っていたが, 既にプロジェクトという形で具象化されていたとは。
はうう, やはり本家は百歩も二百歩も先を歩いている。
「セキュリティホール memo」のコメントを見て逆にビックリしたが, 今回に限れば「国産」も「国防」も関係ない。 要するに国土交通省(旧運輸省)が「気象庁の予算規模よりも多額の予算を組めない」と予備機をケチったのが原因だ。
宇宙開発は他の分野に比べて格段にリスクが高い。 せっかく衛星を作っても打ち上げに失敗する可能性もあるし, 打ち上げに成功しても宇宙空間で故障すれば修理は相当に難しい。 「ちょっと現場に出張してその場で修理する」なんてわけにはいかないのだ。 それに昨今宇宙開発事業を請け負う企業も経営が厳しくなってきてるしね。
だから常に予備機を用意することは必須条件だ。 それを国土交通省はケチったのである。 壊れてから発注したのでは間に合うわけがないではないか。 土建屋感覚でやられては困る。 その予算は私達の税金から出ているのだから。
Firebird 0.7 からスタイルシートの切り替えアイコンが表示されるようになったのだが, どうやればいいか分からなかった。 「つれづれ日記」にやり方が書いてあったので試してみる。 うちは標準用に spiegel2003.css を用意し nDiary 用に ndiary.css を用意してカスケードにしている。 このうち ndiary.css のみ title 属性を付けると取り外しができるようになった。 おもしろーい! こういうことができるようになると代替えスタイルシート(alternate stylesheet)もやる気になるんだよなぁ。 昔の緑色基調のスタイルシートとか作ってみようかな。
「平山雅浩の日記――春宣りゆかむ」 10/24 の記事より。
これこれ。 こゆのを待ってたんだよぉ! ちなみにうちの RSS ファイルでもちゃんと検証できる。
これは単に Validator ができたというだけじゃなくて CCPL のメタデータを解釈するアプリケーションがいろいろ登場する「予感」を示すものでもある。 わくわく。
『日経エレクトロニクス』 7/21 号付録の『GPL最前線』を今頃読んでいる。(← 遅いって)
以前直感に反すると言った点や「GPL は契約でなくてもいい」という点について法的コードから詳しく検証されている。
八田真行さんが「SCOショック」について言われた事実誤認に関係しそうな部分は見つからなかった。(まぁ同じところから出てるんだから当たり前か)
こっちはやはり八田真行さんの批判記事待ちかな。
無保証の話はそのうち機会があれば...
(10/25 クレームを受けて修正)
「message from Hikki」 の 10/25 の記事。
確かに普通考えたら「ヤンキーズ」だよなぁ。 なんか法則があるのかな。 末尾だけ濁音にするのは美しくないとか? そういや「smooth」も「スムーズ」と「スムース」の2通りのカタカナ発音があるな。 なんで?
これらのソフトはウチとこでも昔紹介したことがあるので一応こっちにもリンクしておく。 「テルミソ」は一時期日記系のコンテンツでいくつか取り上げられてたことがあるような気がするので知ってる人もいるかもしれない。 私は「MIDI Espressivo」は再生専用でしか使ってないが, Windows の MIDI 再生ソフトとしては一番信頼性が高い (^^;)。 多少おかしなフォーマットなら自動で修復してくれるし。 あと個人的にはオルゴールソフトがお気に入り。
ふぅ... やっぱまだ「くる」なぁ...
部室からいらっしゃった方々, ここにはレーティング関係の記事はありませんのであしからず。
あゆところから大量(うちのレベルでね)に来られるとドキドキするよ。 妙におどおどしてしまう。 うちは何にも悪いことはしてませんよ,多分,おろらく,maybe,perhaps,...
ツッコミに大量のクレームが! 申し訳ない。
昨日の記述の問題の部分の意図は「GPL最前線」についてのものではなく「SCOショック」について書いたものです。 一応リンクを張っといたんですが確かにあの文章だけじゃ誤解されてもしかたがないですね。 元記事は一応修正しておきました。
「GPL最前線」については一通り読んだがよくできていると思う。 特に SOFTIC の報告書が印刷された形で読めるのは非常に有難かった。 しかし「GPL最前線」が本当に正しいものかどうかは判断できない。 私は法律面はてんで疎いし GNU とか「オープンソース」とかの歴史背景など断片的にしか知らない。 だから昨日の段階では「GPL最前線」についての感想は書いてない。 「SCOショック」についても(感想はかけても)判断できないという点では同じ。 「質の悪い情報源を使っている」と言われても私にはそれを判断する材料を持ちあわせていない。 みんなが知っているという情報にタイムリーにかつ網羅的にアクセスできるわけでもない。(だから今頃「GPL最前線」を読んでたりするのだが) 申し訳ないが, 今時「専門家」(もちろん人格ではなくて言説)を信用するほど私は呑気ではない。
複数の記事を見比べてどう違うのか調べるというのは普通の読者の普通の行動だと思うのですが。 だからこそ八田真行さんが書かれるという記事に期待しています。 私が知りたいのはその「知る人ぞ知る」という情報です。 それが読者にとって重要なヒントになります。 書き手にとって常識的な知識でも読み手にとってはそうではありません。 前にも書きましたが, その辺のことを考慮した記事を書かれることを期待します。
ツッコミで「SCOショック」の事実誤認部分について一部指摘されている。 そのうちまとまった記事が公開されるのを期待してこっちには書かないことにする。 このうち (1) は完全に見落としていた。 でもこういう解釈をされているというのは別の意味で問題だよなぁ。 (2), (3) については確かに私もそう思うが, この点は私が書いた感想とそう外れるところはないように思う。 「4.4 BSD Lite」って BSD ライセンスなのかな。 FreeBSD の元祖ってのならそうなのか?
商業誌に「公平な視点」はあり得ないので, どのようにバイアスがかかっているかをまず見極めないといけない。 そういう意味じゃ「SCOショック」はあまりにもあからさまである。 職業エンジニアなら(読み慣れてるので)その辺を嗅ぎ分けるのは簡単だろうけど, 万人に薦めるのはやっぱまずいかなぁ。
さて,ヘコんでばかりもいられないので「GPL最前線」の感想でも書いておくか。 そうそう, ツッコミで山根信二さんの関連記事が紹介されていたのでここにもリンクを張っておく。
確かに読んだ覚えがあるのに過去ログにも載っていない。 まぁ7月末頃って客先でいっぱいいっぱい状態だったしなぁ。
読後の第一印象は「分からん」。 書かれている内容ひとつひとつは何とか理解できないこともないのだが, 法的コードが絡む場合ってひとつひとつの項目を理解しただけではダメで各項目の相互関係や項目の組み合わせによる効果・作用が分かってないと全く意味がない。 で, それを理解するには一定の訓練が必要なので素人は結局「分からん」と言うしかない。 このうえさらに特許が絡むとなれば完全にお手上げ。
「難しい」というより「繁雑」なんだよな。 繁雑なライセンスを運用するのはコストがかかるので中小企業なんかは「敷居が高い」という話になる。 で, 何が繁雑かというとやはりライセンスの効果範囲が曖昧だからだろう。 今は「よりどりライセンス」な時代だし, ライセンスの内容そのものは恐らくそれほどこだわってなくて, 「ライセンスの効果範囲が曖昧である」ことが敬遠される原因なんじゃないだろうか。 ライセンスが法的に本当に有効であるかどうかは, どんなライセンスであれ, 「裁判やってみないと分からない」という点では同じだし。
青空文庫で公開されているテキストファイルを TeX ファイルに変換して出力する方法とツールの紹介。 でもなぁ, 今うちプリンタない(厳密には壊れてて印刷できない)から TeX ファイルに変換してもなぁ。 取り敢えず PDF に出力しておいて暇な時にゆっくり見るという手もあるけど。
RSSwithCC に補足説明を追加。 確かにあれだけでは about 属性に何をかけばいいのか分からんな。
「漢字を扱うさいの文字コード処理に難儀」ってのはエディタの話でしょうか。 まだ UTF-8 って扱いが難しいのかなぁ。 まぁうちの Wiki も無理矢理 UTF-8 にしたらブラウザによって挙動が変になるみたいだし。
テキストエディタで UTF-8 エンコーディングを扱う場合には BOM に注意。 なお秀丸の最近のβ版では BOM の扱いが改善されている。 秀丸以外で Windows でフリーなエディタなら個人的にはサクラエディタがお薦め。
余談だが, JIS コードに半角の「〜」(TILDE)がないというのは半分本当。 もともと 0x7e のコードは「 ̄」(OVER LINE)だったのだが, シフト JIS を使うどっかのボケ OS がここに「〜」をあててしまったのだ。 そこで最近の JIS X 0201 の附属書2 では(送受信者間で合意があれば)両者を区別しない, となっている。 つまり 0x7e コードには2つの字があてられているのである。 個人的にはとっとと JIS ラテン文字を捨てて IRV (つまり US-ASCII)に移行して欲しいんだけど, そうなると半角の「¥」(YEN SIGN)が使えなくなっちゃうので更に混乱しそうだな。 詳しくは私が昔社内向けに書いた「文字コードとその実装」(PDF)の3章あたりを参照のこと。(あっシャレ書いちゃった)
移動し損ねました。 まだ広島にいます。
「Easy Lazy Diary」 10/27 の記事より。
「ファンタジー」という文学ジャンルがさっぱり分からないので (なんせ「ファンタジー(幻想文学)」で「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」を連想するような変人なので) 結構楽しく読めてしまった。
最近面白いと思ったのは胡桃ちのさんの「バール横丁奇譚」くらいか? ってそれは4コマ漫画だ!