2006年07月01日

☆ 当たるも八卦,当たらぬも八卦

いやぁ, 今回は久しぶりにまぢで「やばい」と思ってしまった。 なんとか終わってよかったよ。

試作品とはいえ基板のデバッグとソフトウェアのデバッグの同時進行はなかなか辛い。 おまけに私の悪い癖が出てしまって, 時間がないからってやっつけなコードを書くものだから 「あなたのコードは天数演繹(うらない)のようなものだ。根拠がない」 とダメだしを頂いてしまう。 はうう。 (業務用 Web アプリケーションとかヤクザなものばっかりやってたせいで悪い癖がついてしまった)

あちこちにいっぱい迷惑をかけてしまった。 次はもう少し上手くやります。 本当に終わってよかったよ。

☆ mixi ミュージック始めました

「mixi ミュージック」がプレミアム会員以外のも公開されたので早速導入。 つっても私の場合 iTunes にぶち込んだ1.500曲あまりの曲をランダムに流しているだけなので, ランキングにはあまり意味がないかも。 しかも物凄く偏ってるし。

「mixi ミュージック」が見れない方は Last.fm の私のプロフィールにも同様のものがある。 ねっ, 偏ってるでしょ。 上々颱風(Shang Shang Typhoon)とか今時の人は知らんて。

どうせ iTunes に対応してくれるなら Last.fm みたいにビジュアライザとして組み込むほうがよかったのに。 タスクトレイにアイコンが沢山並ぶのは好きではない。

☆ う〜ん

「キャッチコピー」という言い方はあまり良くなかったかな。 まぁいいや, 私自身は CCPL を「戦略商品」だと思っている部分があるし。

私が言いたいのは「SOME Rights Reserved」にしたいのにできないのは何故かということなんだよね。 何故「コントロールしないこと」をコントロールしなくちゃいけないのか。 そのために GPL や CCPL のような「ハック」をせざるを得ないのは何故なのか。 キックオフはなんだっていい。 今回のように「SOME Rights Reserved」という文言に対する疑問でも構わない。 でもその答えは学校の授業みたいに Yes/No で簡単に片付けられるものではない。

前にも書いたけど著作権法を基準に考えるんじゃなくて, 世の中のメンタリティがまずあって, それににあうよう法律もチューニングされなくてはいけない。 何故かくも「著作権」は面倒なのか。 数百万年前に唄や言葉といったコミュニケーション手段を獲得した「ヒト」が, それを行使するのに何故いまさら「許可」を要求されなければならないのか。 それは本当に社会的にフェアなのか。 なんてな素朴な疑問から始めましょうということだ。 だから「SOME Rights Reserved からはじめよう」なのである。

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2006年07月02日

☆ 「ピカソとモディリアーニの時代」

昨日は友人とひろしま美術館へ「ピカソとモディリアーニの時代」を観にいく。

金曜までの反動からちょっと抑鬱的になっていたのでタイミングが良かった。 毎度のことながら, いつも私と遊んでくれる友人達に感謝。

「ピカソとモディリアーニの時代」というのはキュビスムからシュルレアリスム・素朴派にかけての時代を指す。 しかし何度見てもキュビスムは分からん。 ピカソの「帽子を被った女」とかどう見てもねずみ男(女?)にしか見えないし。 あっ, でもレジェはちょっと分かる。 ユトリロは私にも分かりやすい。 ってな感じで観てまわる。

☆ 久しぶりの図書館にハマる

その後, 友人の要望で中央図書館に行く。 ひろしま美術館のすぐ近くだ。

今更気付いたのだが, 広島に越して二十数年になるのに市立図書館にはほんの数回くらいしか行ったことがない。 しかもここ十年くらいは全く行ってないかも。 もちろん図書カードも持っていない。 というわけで, 学生時代以来の図書カードを作成してもらった。 で, とりあえず一冊だけ借りる。 いや, 広島市内の本屋じゃ見つからなくって。

  • 『闇をひらく光』 ヴォルフガング・シヴェルブシュ 著,小川さくえ 訳 (法政大学出版局)[bk1]

本屋で注文するかネットでなら買えることは知ってるんだけど, それは私にとって禁じ手なので(歯止めが利かなくなるから)できない。 でも図書館で読んで面白かったら(つまり「所有」したくなったら)注文するというのはありかもしれないなぁ, などと思った。

本来こういう機能は本屋こそが担うべきだと思うんだけど, 今の本屋はコンビニ化していて期待できない。 まぁ本屋に限らないんだけどね。 「赤字にならない」程度の後ろ向きの経営しかできない「商店」はどうしても品揃えが画一化してしまう。 そんなディスプレイを見ても購買意欲をそそられるわけがない。 だからみんなコンビニのごとくあらかじめ欲しいと決めたもの「だけ」を目指してやってくる。 いつでも欲しいものがそこにあることが重要で, イレギュラーな出会いはノイズでしかないのだ。 「衝動買い」は決して現場では起こらない。

本屋ならまず検索用の端末に座り目的の本を探して見つかったらレジに持っていって終わり。 一連の行為にイレギュラーが紛れ込む余地はない。 本を出す側もマスメディアのプロモーションに乗っかる(乗っけてもらう)ことがマストになっているように見える (野尻抱介さんの「他人の褌で相撲とって、働かないで生きていこう」話とか)。 どの本を買うかなんてことは本屋に行く前に既に決定されているのだ。

昔の私は本屋巡りが好きで暇なときは半日かけて市内の本屋を巡ったものだが, 今じゃどの本屋に行っても同じものしか置いてないので「巡る」ことに意味が無くなってしまった。 そういうものを望む人は図書館を利用するほうがいいかもね。 図書館を巡って出会った本を欲しくなったらネットで買う, と。

そうなると「こちら側」の本屋はもう要らないかも。

☆ これが日本の「ゆとり教育」だ!

いやぁ, これはバカウケだったよ。 そのうち昔の「おやじ狩り」よろしく「ニート狩り」する連中も現れるかもしれないねぇ。

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2006年07月05日

☆ 「暗号の危殆化と新しいアルゴリズム」

GnuPG 1.4.4 で重要な仕様追加があったので簡単な解説文でも書こうと思ったが, 既に先を越されていた。

まぁでも折角途中まで書いたので私も公開してみる。

所詮2番煎じです。 でもなぁ, なんか前のバージョンと挙動が変わってるんだよなぁ...

☆ 検索サービスの権威性と公正さ

面白い記事を見た。

「技術的(科学的)な中立性」と「政治的な中立性」は違うという指摘は面白い。 というより「技術的(科学的)な中立性」に意味はないということなのかも。 「かなづちは中立か」って言っているようなもんだものな。 これは科学者や技術者がよく言う「道具は悪くない。悪いのはそれを使う人間だ」といった言説をそのまま裏面から述べたものだ。 問題は「中立かどうか」ではなく「公正(フェア)かどうか」なんだよね。

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2006年07月06日

☆ なんだかなぁ

薬の効きすぎ? 血圧が下がりすぎて仕事にならない。 とりあえず今日は休んでみる。

それはともかく, 北朝鮮の意図がわからない。 日米や国連各国の動きは予定通り。 中国が困惑している(そぶりを見せている)のもおそらく予定通り。 いやもう, 北朝鮮なんか見捨てていいと思うよ>中国。

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2006年07月07日

☆ 今年は七夕が二回ある

って単に旧暦の閏七月があるだけなのだが。 ちなみに今年の伝統的七夕は 7/31。

☆ その「皆」に私は入っていない

陳腐なレトリック。 なによりその「皆」に私は入っていない。 地上アナログ放送が停波する頃には TV なんてメディアは必要なくなってると思うよ(もちろん偏見)。 彼等が守りたいものは空っぽの神殿だ。 そこにいたはずの「存在」はとっくの昔に昇神している。 (本来「昇神」とは神体から神霊を切り離す儀式)

何故 NHK が巨額の費用をかけてあのくっだらない「アーカイブ」を作ったのか。 自分達の作ったものがそんなに大事なら誰にも見られないようにしまっておけばいい。 どうしても見たいという人がいれば特別な施設で見せてあげればいい。 そう, NHK アーカイブスのような。 そうすればコピー・ワンスなんか気にしなくてもよくなる。 なにせ一回もコピーできないんだから。 それがお望みなんでしょ>「皆」さん

こりゃあもう宗教儀式だぜ。

☆ それでも理性が止める

W-ZERO3[es] はたしかに「本能が欲しくなる」製品だが, 私の理性とお財布が「止めとけ!」と叫びつづける。

今ひとつ乗り気になれない理由はキャリアを跨ぐ乗り換えのコストが思ったより高い気がすること(電話番号やメールアドレスだけじゃなくて料金設定とかも組みなおさないといけないし), 仕事以外で W-ZERO3 の機能を使い切ることはないだろうこと, そして何より仕事では絶対に使わないだろうこと, である。 普通の「パソコン」と違って失くしたり壊したりするリスクが高い携帯端末に仕事関連の情報を入れる気にはならない。 私は au ユーザなのでケータイからネットを見ることもしないし (au には悪名高い「Subscriber ID」なるものがある。ちなみに無効にすることもできるが,そうすると殆どの EZweb サービスを受けられなくなる)。 それまでのケータイ画面を見慣れている人にとってはフルブラウザは革命的かもしれないが, そうでない人には「しょぼい画面」であることに変わりはない。

個人的には携帯端末こそ Web 2.0 的であるべきだと思うけどね。 端末からモニタを分離する(それらを Bluetooth 等で繋ぐ)くらいのことはやってもいいんじゃないの。 ひとつの筐体に何でも詰め込もうとするから機構設計に無理がくる。 OS だってネットに繋ぐための最低限の機能のみ積んでデータやアプリケーションはネットの側に置くとか誰も考えないのかね。

☆ 著作物に関する権利の「二階建て制度」案

あっ, 真紀奈さんの記事だ。 最近音沙汰ないと思ってたら, こんなことをされてたんですね。

☆ YukiWiki 公開停止中

現在うちの YukiWiki は公開を停止しています。

もともとは来年春に閉鎖する予定でそれまでは放置プレイにしておくつもりだったのだが, 脆弱性を抱えたままというのもナニなので公開を停止することにした。 あしからず。

最近の私の Wiki に関する考えは以下を参照してください。

PukiWiki や YukiWiki が悪いわけじゃないけど, 正直言ってこの手のツールをメンテナンスするのに疲れてしまった。 今度やるときは自前で構築するんじゃなくて, どっか他所の場所を間借りさせてもらう。

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2006年07月08日

☆ 替え歌

しばらく見ない間に「野尻ボード」が替え歌合戦になっている。

みんなよく思いつくなぁ。 というか元唄がほとんど分かってしまう自分が嫌。

☆ あっ,なあるほど

「紛争が起きないのなら法律はいらない?」より。 『GPLは「あたかも法的正当性を持ったライセンス」のコスプレ』というのは面白い喩えだな。

この記事をもとに考えると GPL 自身は別段インセンティブを与えていないことになる。 彼等にインセンティブを与えているのは GPL を支持するコミュニティそのものであって GPL はその表現手段のひとつに過ぎないことになる。 あるコードが GPL を「纏っている」のは Gnu やオープンソースやそのコミュニティ群を支持するからだし, GPL を纏うことで彼等が支持する「なにか」を表明する手段になっているわけだ。 これって結社と制服の関係と同じ。

更に考えていくと GPL がこのような使われ方をしているのなら「CCPL にインセンティブがない」と言われるのは当然ということになる。 ライセンスがインセンティブを与えるという考え方は馬鹿げているとかねてから思っていたが, どうしてそんなことを言うのかが謎だった。 この記事を読んでようやく氷解した。 「CCPL にインセンティブがない」のが問題ではなく「CCPL はインセンティブがないところで作られた」のが問題なのだ。 だからカジュアル服のように「ファッション的な消費」しかされない。 「ファッション的な消費」を「制服的な消費」に引き上げるためには何らかの社会的装置が必要になる。

しかし, これは私見だが, CC (や最終的に CCPL)が目指すものは「ファッション的な消費」でも「制服的な消費」でもないと思う。 CC/CCPL は記号ではない。 それはもっと下位レイヤである「4つの Code」にインパクトを与えるようななにかだ。 (GPL がインパクトを与えないといっているわけではない。 というより GPL のようなハックがなければ CCPL もないだろうし)

と, ここまでが2003年ないし(日本では)2004年前半あたりまでの状況。 今は(日本以外では)少し状況が変わっている。 それは一部には Web 2.0 が後押しするものだ。 日本では Web 2.0 は技術面やマーケティング面のみで語られる傾向があるが, Web 2.0 が構築したものは多様なコミュニティを包含するインフラ装置であり, そこに(全てではないが) CCPL が組み込まれていることにはなにがしかの意味があるはずだ。

(追記) そして「制度と倫理」へ続く... らしい。

☆ 続続・プログラミングは難しい

素晴らしいアドバイスをいただきました。 詳しくはツッコミをどうぞ。 嗚呼, BBS 止めなくてよかった。

紹介されている記事を読むと, まさに私が若い頃(ジジィみたいな言い草だが)に悩んでたことを(言語が違うとはいえ)そのままリプレイしている感じ。 以前書いたことは一部撤回しないといけない。 低級言語から高級言語への hierarchical な構造のどこかに Lisp をはめ込むのは無理のようである。

そういえば, 私は先日 「ソフトウェアは想像よりもずっと簡単」 という記事を書いた。 「プログラミングは難しい」と言ったその口で「ソフトウェアは想像よりもずっと簡単」と言うのは矛盾しているだろうか。 いや, 矛盾していない(反語)。 前者は実装に関するもので後者は設計に関するものだからだ。 もっと抽象的な言い方をするなら前者は技能(スキル)で後者は技術である。

確かにプログラミングは難しい。 だが過去のプログラミングの経験のうちパターン化できるものはスキルとして取り出すことができる。 そうして蓄積されたスキルはライブラリとなりフレームワークとなり, あるいは言語仕様として取り込まれることもある。 設計というのはそういう先人の蓄積の上に成り立っている。 今や「Hallo world」と表示するためにベクタ・テーブルからガリガリ書く人はいない(普通は)。 8つのリレースイッチを駆使して(文字通り手動で)ブートストラップを打ち込む人もいないのである。

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2006年07月09日

☆ 礼を尽くして闘うこと

なんというか文章の端々に苦労がにじみ出てる感じ。 それだけで共感してしまうよ。 まぁ職業プログラマなら一度は通る道だしな。

「プログラマは「いくらデザイナーでも,このくらいはわかっているはず」と過信してはいけない。逆に,「デザイナーは,どうせ何もわかっていない」と見下してもいけない」

というのはなかなかできることではない。 開発における顧客とのコミュニケーションは基本的に「礼を尽くして闘うこと」だと分かっていても上手く自分をコントロールできなかったり。

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2006年07月10日

☆ 恐怖の家庭内ブリーフィング

最近こういう記事が多いが, 読むたびにあの「PowerPoint 絶対主義」に出てくるエピソードを思い出す。 少し抜き出しておこう。

「彼女は、自分の 2人の娘が、最近どうも言うことを聞かないような気がしていた。部屋を片付けなさいとか、家事を手伝いなさいとかいっても耳を貸さないようなのだ。そこで、ある朝、彼女はコンピュータの前に座り、Microsoft 社の PowerPoint を開いてこう入力した。 (中略) 家庭内の和を訴えるかわりに、Sarah Wyndham は売り込みをかけたのだ。 (中略) ブリーフィングはただの一度だけ、去年の秋に行った。子供たちには、この体験がそうとうショックだったのだろう。「またあれを見せますよ」というだけで、Wyndham 家の娘のひとりは泣き出してしまうほどだ。」

これを読んだときはただの笑い話だと思っていたが, どうやらセキュリティ専門家やセキュリティ対策企業は本気でこの「恐怖の家庭内ブリーフィング」をやらせようとしているように見える。

記事には例えば「不正アクセス禁止法」やそれを適用した逮捕例を載せ「だから啓蒙が必要」と続けているが, これは「道交法で定められているから赤信号で道路を横断してはいけない」と言っているのと同じだ。 それとも最近の家庭や学校の道徳ではこういう風に教えているのだろうか。 企業なら法令遵守が基本なので「〇〇法で禁止されているからやってはいけない」という論法は意味を持つが, それは単なる企業戦略であって日常の倫理・規範・道徳などとは何の関係もない。

「何故友達にさえパスワードを教えてはいけないのか」 「何故パスワードを破って他人の情報を覗いたり書き換えたりすることが悪いことなのか」 「何故有害サイトを見てはいけないのか。そもそも有害サイトとは何なのか」 といった基本的なことに答えられないなら百のブリーフィングを行ったとしても何も身につかず恐怖を与えるだけだ。

Winny 騒動以来どうもセキュリティ専門家やセキュリティ対策企業はどんどんずれた方向に突っ走ってるように見える。 家庭内ユーザへも進出しようかという思惑は分かるのだが, 企業ユーザ向け市場で培われたノウハウは家庭では必ずしも通用できないということが分かってないんじゃないだろうか。 「蒙を啓く」という言葉の意味をもうちょっと考えて欲しいよな。

☆ 後悔先に立たず

思いつきでやるとこういう目に遭う。

☆ YouTube が TV に取って代わる?

都会は面白いことが沢山あっていいですなぁ。

私も「YouTubeがテレビになるなんて10年早い」と思うけど, 仮に10年後も YouTube が存在するとしても TV になることはないと思う。 TV の視聴スタイルは TV が登場してからできたもので TV 特有といっていいと思う。 将来 TV に取って代わるものが登場するとしても, それは絶対に TV (のようなスタイル)じゃないと思う。 まぁそれが YouTube になることもないと思うけど。

まだ TV や新聞といったマスメディアに致命的なインパクトを与えるものは存在してない。 可能性はいくつも指摘されているけど。 仮に今あるものが将来的にそこまで成長するとしても, その「将来」とは「世代」というタイムスケールで考えるべきものだと思う。

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2006年07月11日

☆ bubble battle

nyc っちゃあ面白い。

最近のシャボン玉はこんな感じなのか。 でも, それ欲しい。

☆ モバイルは新たな感覚器官

私は相場にはあまり興味がないが以下の指摘は面白い。

「モバイルはPCインターネットを後追いしているというのが一般的な見方だろうが、モバイルはカメラ、GPS、FeliCaなどの“感覚器官”を持ち、 PCとは異なるメディアとして進化を始めている。従っていかにヤフーが圧倒的なポータルだとしても、それはあくまでPCインターネットメディアとしての力であって、その競争力をそのままモバイルの競争力に転化可能かは自明ではない」

だからケータイに PC 機能を乗っけただけじゃあダメ。 ただし指摘の後半は違うかもしれない。 Yahoo Japan ! のポータルは Web 1.0 型のディレクトリ・サービスだ。 ディレクトリ・サービスなら違和感なくケータイに乗せることができるかもしれない。 ケータイのネットサービスもまたディレクトリ・サービスだからだ。 しかしケータイのあり得るべき可能性を見誤ってるのではないかという全体の指摘には激しく同意。

☆ 「ブログでも2chでもない」もの

オーマイニュースって本当に日本に根付くんだろうか。

「オーマイニュース」はジャーナリズム性を前面に押し出したコミュニケーションサイトだ。 ネタまわしに終始する(鳥越俊太郎さんいわく「エンターテインメント」である) 2ch や雑多すぎるブログ・コミュニティ(「はてな」もこの中に入るだろう)と違って, サービス自体が明確な指向性を持っている。 そしてそれは参加者のジャーナリスト的な使命感によって支えられている。 ...はずなのだが, 日本における類似のサービスでこのやり方が成功しているようには見えない。 成功した韓国といまだ成功例のない日本のどこが違うのかって話になると思う。

韓国の状況については(今ではちょっと古くなったが)『新聞がなくなる日』[bk1]の第3章の記述が参考になるだろう。 韓国では世代間格差が日本より大きい。 それはかの国の政治的事情を背景にしたイデオロギー上のギャップだ。 そのことが逆に「3・8・6世代」を中心とした「革命」を起こしやすくなっている, ということらしい。 そういう背景のもと「Oh My News」は興るべくして興ったといえるかもしれない。 「Oh My News」はもともと草の根の政治活動がベースになっているのだ。

翻って日本を見ると韓国に比べて明らかに「民度」が低く見える。 これが人によっては癇に障るらしい。 だから「オーマイニュース」風のサービスを立ち上げて外部から「民度」を引き上げようとしているように見える (そしてそれに企業が乗っかる感じ)。 しかし権威性を嫌うのは日本も韓国も同じ。 なのに「オーマイニュース」(や類似のサービス)は最初から権威的に振舞う。 「Oh My News」と「オーマイニュース」は最初の1フィートから違っているのである。

さてこの先どうなることやら。 個人的に鳥越俊太郎さんは割と好きなのだが, 今回ばかりは相当困難な仕事であるような気がする。

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2006年07月12日

☆ コードを書きかえれないのなら

どうも Winny に関しては色々と胡散臭さがつきまとう。 「係争中でコードに手がつけられない」のは分かるが, それ以外のあらゆる方法も使えないのだろうか。

報告では Winny をオープンソースにしなかった理由を 「ソースコードが公開されれば,彼らはファイルを一切アップロードできないように改造してしまうだろう」 からとしている。 しかしそれならば現在の状況を改善する最良の方法は, まさしくソースコードを公開することではないのか。 報告の内容が本当ならソースコードを公開することで Winny 上の需給バランスを崩すことができ, 最終的に Winny ネットワークを不能状態にすることができる。 脆弱性にも対処できるしね。 警察や検察はそれすら許さないというのか。

あと 「第三世代P2Pには,匿名性・効率性・オープンソースの「トリレンマ(trilemma)」の構造がある」 としているが, これもおかしな話。 確かに匿名性は一定のユーザにとっては必要な機能かもしれないが, 大多数のユーザにとっては別に必須ではない。 多くの人にとって匿名性が必須の要求なら電子メールだって Web だって使い物にならないということになる。 匿名性が必須でないなら BitTorrent 型で必要十分だ。 今だって YouTube が大流行だが, あれは別に匿名システムではない。 日本とアメリカ(だっけ?)が協力して本気で捜査すれば「違法コンテンツ」をアップロードする人を特定し摘発するのはそれほど難しくない筈だ。

私が Freenet などの匿名サービスを素晴らしいと思うのは, 単に技術面だけではなく匿名性に関する議論の裏づけがあるからだ。 それ故に運用上の問題を抱えつつもここまで生き延びてきたんだと思う。 しかし日本における「匿名性」は単なる免罪符になっている。 確かに社会的にある程度「匿名性」は担保されるべきだが, いつでもどんな状況でも許されるわけではないだろう。 「匿名性」が免罪符となっていることで本来の議論が損なわれているように見える。

技術と倫理・規範は両輪なのに Winny は片輪だけで突っ走ってきた感がある。 ここらでもう片輪をきっちりはめなおしてみてもいいんじゃないか。 (もちろんこの話ともうすぐ結審する件の裁判とは別の話だよ)

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2006年07月13日

☆ 「数学的にはデジタル情報に著作権はありえない!?」

そんなの簡単。 専門家でなくとも分かる。 著作権は表現に対して付与されるもので, その形式が何であるかは別の問題。 ある記述が(仮に「記述」としておくが)「表現」であるかどうかは主観(の集積すなわち共感)による。 ある表現とその符号化である「有限の自然数」ではレイヤが異なる。 著作権は符号化情報自体を対象にしているのではない。 「表現」と「符号化情報」を「デジタル情報」の名のもとに一緒くたにするからおかしなことになる。

「著作権」は人と人との間で交わされる決め事であって真理でも原理でもない。 数学的な証明自体に意味がない。 数字(列)に対して強引に意味を付加して, そこに真理やら原理やらがあるかのように見せかけることを「天数演繹(うらない)」という。 「当たるも八卦,当たらぬも八卦」というやつですな。

☆ インストール作業のまとめ

「インストール作業メモ」を作った。 今まで書き散らした作業メモのリンク集である。

なんでこんなものを作ったかというと

という記事を書くため。 内容的には今までの作業メモをマージしただけの内容だが, これを書いとかないと次が書けないのよ。 とか書いてみる。

☆ 文化庁の解釈が司法判断で否定された1953年問題

色々読むと「アホちゃうん,文化庁」では済まされないレベルの話らしい。

映画コンテンツの著作権保護期間が50年から70年に延長になったわけだが, その切り替わるタイミングが2004年(平成16年)1月からということになっている。 じゃあそこから遡って1953年に公開された作品は2003年末で著作権が消滅するのかどうか, という話らしい。(すンごい端折ってるので細かいことは言いっこなし)

映画配給側や文化庁は2003年12月31日24時は2004年1月1日0時と同じだから, この時点で著作権は有効で更に20年延長されるという理屈らしい。 まぁ24時制では「24時」という時刻は存在しないので(24時制は zero origin なので0時から23時までとなる), そもそも前提が間違っている(故に判決内容は至極当然な)わけだが, 問題はそこではなく

  • 立法者は上述の理屈を前提に(つまりもともと1953年製の映画作品も保護するつもりで)この条項を作ったこと
  • それに対して誰もツッコむことなく(というかそんな屁理屈が隠されていることなど誰も知らず)法案が通ったこと
  • 実際に裁判になったら「そんなわきゃねーだろ」とあっさり覆されてしまったこと

にあるようだ。 これは2通りの解釈があって 「時計の読み方も分からないド阿呆が作った法律」 という解釈と 「法の意図を超える運用(法の濫用)がなされている」 という解釈があるわけだ。 もし抗告することがあるとすればその辺がポイントになるかもしれない。

もうひとつ問題がある。 それは, これで「お役人様の言うことは信用ならねぇ」というイメージが蔓延することである。 日本は法律の条文以上に「お役人様のお達し」で動いているところがある。 それは「お役人様は法律に沿った正しい判断をされているから信用して言うことを聞く」わけであるが(もちろん「それは建前」の部分もあるが), 今回の判断はそんな「日本の常識」をひっくり返す可能性があるわけだ。 それは「全体性の消失──IT化に最も脆弱な日本社会────【前半】」にある 「【官僚の質低下がもたらす全体性危機】」 という話とも関連していると思う。

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2006年07月15日

☆ 「安全な鍵長の下限」とは

「暗号の危殆化と新しいアルゴリズム」www.textfile.org で取り上げていただいたおかげか微妙に評判がよかったのだが, どうも私が断定的に書いちゃったのがいけなかったらしく, 鍵の長さについて鵜呑みにしてるっぽいコメントが若干見られた。 ので, 新たに記事を書いてみた。

前回のは昔調べた情報をベースに書いているが, 今回は他にもいろいろ資料を紹介している。 共通鍵暗号はともかく公開鍵暗号は評価機関によってばらつきが多いので要注意。

この記事でも紹介しているが ECRYPT の年次報告と NIST の SP800-57 は一度は読む価値あり。 セキュリティ関係の業務をしている方は頑張って読んでみることをお薦めする。

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2006年07月16日

☆ 意外に時計が読めない人は多い?

なんだこれ?

「本来の版権元であるパラマウント・コーポレーションが、「2003年12月31日午後12時と、2004年1月1日午前0時は同じ時間」だとして」...

わざとミスリーディングを誘ってるのか, それとも天然なのか? 12時制に0時は存在しませんから! それに午後12時はお昼の12時のことなんですけど。 ああそうか, 「コデラ ノブログ」の記事から間違っているのか。

そういえば昔関わったプロジェクトで時刻を12時制で表示する際に24時制の0時が12時制の午前12時だってことをなかなか理解してもらえなくて往生した覚えがある。 つまり 「午前12時→午前1時→...→午前11時→午後12時→午後1時→...→午後11時」 となる。 12時制なら12時を境に午前と午後がひっくり返るので「接触」なんて妙な発想にはなりようがない(と思う)。 まぁプログラミングするときは12時制なんてサポートしたくないけど。

☆ Last.fm がリニューアルしてる

「自分好みのpersonal radioも楽しめるLast.fm」を読んでサイトに行ってみたらサイトデザインも一新されていた。

新しいプレイヤーよかです。 タグの設定もできるようになってるし。 サイトのほうもいつの間にか「recommendation radio」ってのが追加されていて, 私のように銭を払わないフリーライダーでも自分の好みに引きこもって楽しむことができるようになった。

☆ 「The Fool」の向き

折角梅田望夫さんをお迎えしているのに2005年後半からこっち(傍から見て)さっぱり動きが見えなかったので 「なんだそれで終わり?」 と思っていたがアメリカ進出ですか。

某所で見た「天才バカボンの最終回みたい」という感想にウケてしまったが, そういえばメジャー・アルカナの0番目って「The Fool」なんだよな。 これが正位置と出るか逆位置と出るか楽しみなところである。

やはりアカウントは持っておいてもう少し様子見かな。

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2006年07月17日

☆ 久しぶりお買い物

結構溜まってたな。

  • 『続続・ GOGO 玄徳くん!!』 白井恵理子 (メディアファクトリー)[bk1]
  • 『かみさまのいうとおり!』 3 湖西晶 (芳文社)[bk1]
  • 『ちびでびっ!』 1 寺本薫 (芳文社)[bk1]
  • 『ちぃちゃんのおしながき』 2 大井昌和 (竹書房)[bk1]
  • 『おねがい朝倉さん』 6 大之元初奈 (芳文社)[bk1]
  • 『花と泳ぐ』 1 口八丁ぐりぐら (芳文社)[bk1]
  • 『ボクの社長サマ』 1 あろひろし (芳文社)[bk1]
  • 『闇をひらく光 19世紀における照明の歴史』 ヴォルフガング・シヴェルブシュ 著,小川さくえ 訳 (法政大学出版局)[bk1]

う〜ん, 毎度のこととはいえ見事に4コマ漫画ばっかし。 『闇をひらく光』は前に紹介した奴。 本は返したけど結局買っちゃった。 感想はそのうち mixi にでも。 最近噂のあのライアカ本といっしょに読むと面白いかも。 その本だけど広島市内ではまだ店頭にありません。 ちっきしょう! (← 小梅日記のフレーズで)

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2006年07月18日

☆ 保守とは営業なり

保守ってのは営業なんだよね。 厳密に言うと営業という名の技術。 (もちろん「足で稼げ」とかいってひたすら「飛込み」をしたり舌先三寸で相手を丸め込んだりすることが技術なのではない。 確かに「クレームは(ビジネス)チャンス」と言える程度のタフさも営業の必要条件だけどね)

それにこれは FOSS に限る話でもない。 優れた製品を作れることと製品が売れる(普及する)ことは全くの別物で, 「売れる」ための鍵は営業(技術)が握っている。 これは例えば日本における Firefox の体たらくなどを見れば一目瞭然だろう。 ものが勝手に売れる(普及する)なんてことは絶対にない。

FOSS が面白いのは, 成功しているプロジェクトというのは開発技術と営業技術が上手く分業している点だ。 例えば Linux には無数のディストリビュータが存在するが, 彼等が(プロシューマ・コミュニティの外側にいる)私たち消費者に対する営業窓口になっている(全部のディストリビュータがそうだというわけではないが)。 消費者にとっては彼等が唯一のクレームの宛先なのだ。 (オープンソースなのだからコミュニティに参加して発言すればいいじゃないかという人もいるかもしれないが, それはプロシューマの発想。 一般の人にとってはプロシューマ・コミュニティの存在自体が巨大な障壁になっていることをお忘れなく)

保守というのは製品についてよく知っている必要がある上に営業技術も要求される。 しかし逆にいうと企業にとってはそこに旨味がある。 企業は慈善事業でオープンソースエンジニアを雇っているわけではない。

優れているという理由だけでそれを買う(利用する)人はよっぽどのチャレンジャー(ギーグ?)か大馬鹿者だ。 普通の人はそこに信頼がなければ手を出さない。 営業というのは「もの」と人との間に信頼関係を構築する手段であり, 保守はそのために用意された大きなチャンスなのである。

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2006年07月19日

☆ 左手首が痛い

月曜の夜くらいから痛いのだが原因不明。

今朝起きたら更に悪化していた。 これ以上アレなら病院に行かないと拙いかな。

私は左利きなので左手が使えないと日常生活に支障でまくり。

☆ YouTube 訴えられる

いやぁ遂に来ましたな。

私は専門家ではないので YouTube の言い分が通用するのかどうか分からないが, これはひょっとするとかなり面白いことになりそうである。

YouTube について最近一部で盛り上がっているっぽい議論(?)を見ていて萎える。 みんな YouTube がアメリカのサービスであることを(意図的にか天然か)忘れているんじゃないだろうか。 アメリカのサービスなのだから当然向こうの著作権の考え方に従うし争いの決着のつけ方も向こう流である。 日本とアメリカとで決定的に違うのはフェアユースがあるか否かということだ。 日本にはフェアユースがなくいくつかの例外があるだけだが, アメリカには利用者のためのフェアユースという権利がある。 YouTube はそのフェアユースをグレイゾーンいっぱいまで活用したサービスであるということができる。 YouTube に批判的な人も礼賛する人もその辺がすっぽり抜け落ちている。 そこに(双方とも)レトリックがある。 仮に YouTube が素晴らしい革新をもたらしたとしても, あるいは惨めな敗北に帰そうとも, すべては彼岸の話なのである。

YouTube においては日本的な考え方はひとまず通用しない。 例えば日本に YouTube のようなサービスを持ち込んでも, おそらく YouTube のようには機能しない。 アングラにもぐるか著作権管理団体のヒモ付きの放送型サービスになるのがオチである(もしくは誰にも知られず鳴かず飛ばずで終わるか)。 何故なら日本の著作権の法体系には利用者のための権利が存在しないから。 あるいは著作物を明示的に公有化するための手続きが存在しないから。 もし本当に常識を変える気があるのなら, ここが議論の出発点になるはずである。

と煽ってみる。

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2006年07月20日

☆ spam 減少中

先週末あたりから spam メールの数が激減している。

うちの spam は結構多いほうだと思うのだが300通/日くらい。 それが14日から以降100通/日を下回っている。 ISP である ALLESNET は 7/7 から「OP25B (Outbound Port25 Blocking )」を開始しているらしいが, これは発信側の制限だしそもそも時期が合わない。

なにかあったんかねぇ...

☆ 闘病日記... 番外編

左手首の痛みがどうにも直らないので行きつけの市民病院へ行った。

初診手続きを済ませて形成外科に行く。 担当医に事情を話して「こりゃあまずレントゲンを撮らんと」ということでレントゲン室へ。 その後もう一回問診をする。 レントゲン写真を見ながら「変なところはないようだね」ということで湿布と痛み止めの薬を貰う。 骨に異常がなくてよかった。 わはは, 某氏, 賭けは私の勝ちだ!

市民病院は今年の5月から新病棟ができて外来や検査のほとんどがそこに移転している。 移転直後は迷いそうになっていたが今は慣れた。 カルテ等も完全に電子化され心電図やレントゲンの結果を持ちながら病棟をうろうろすることもなくなった。 上述のレントゲン写真もパソコンで画像を表示して患者もいっしょに見ることができる。 ディジタル画像だからズームも自由自在。 自分の手の骨をあんなにまじまじと見たのは初めてじゃないだろうか。

前にも書いたことがあるが, ここのシステムは本当にバランス感覚がいい。 エンドユーザは私たち患者なのだから患者に複雑な手順を強制させてはいけない。 複雑な部分はシステムと病院のスタッフが肩代わりすることで患者の手間を最小限に抑えている。

巷に多いヤクザなシステムはシステムが楽をするためにユーザに煩雑な操作を要求する。 そのためのスキルが必要になるという本末転倒なことになっている。 スキルがなくても使えるようにするためにコンピュータシステムがあるのに, それを使うために更にスキル(バッドノウハウ)を要求されるなんてマヌケな話であるが, 困ったことに世の中は(Web アプリケーションも含めて)そういうシステムのほうが多い。 そういうシステムに慣れきっているヤクザなエンジニアは病院にでも行って目から鱗を落としてもらえと言いたい。 (はっ私のことか?)

ちなみに湿布をしたらかなり痛みは治まった。 これならなんとかなるかも。

☆ 左手がないと不便なこと

というわけで左手がほとんど使い物にならないため不便な日常を強いられている。 私は左利きなのでその所為もあるかもしれないが, 右利きの人も意外に左手を使ってるのではなかろうか。 以下に手を使う作業を列挙してみる。

  • 幼稚園のときに矯正されたのでペンは右で持つ。
  • ハサミも右用。包丁も右用。(左手用の道具は高いのだ)
  • でも消しゴムは左。
  • 定規を持つ手も左。
  • 野球は右投げ右打ち。
  • テニスもゴルフも右。
  • 箸は左,茶碗は右。
  • ちなみに何故かナイフは右,フォークは左(左利きの人は逆が正しいと言われたことがあるが...)
  • 歯ブラシは左。
  • ビンの牛乳を飲むとき腰に当てる手は右。
  • 鍋を持つ手は左。お米をとぐのは右手。
  • シャツは左から袖を通す。
  • 靴を履くのは右足から。
  • 靴べら代わりに使う指は左。靴べらも左手で使う。
  • かばんを持つのは左。でも肩からかけるときは右肩。
  • ケータイは左手。でもメール打つときは右手。
  • ケータイはいつも右のポケットに入れている。腕時計は持ってないが,昔懐中時計を使っていたときはやっぱり右のポケットに入れていた。
  • 自動改札でつい左手で切符を挿入しようとして妙な態勢になったことがある。
  • 左胸のポケットにあるものを左手で取り出そうとして妙な態勢になったことがある。
  • マウスは右。
  • 机の上の書類は右側にあると安心する。でもテンポラリな置き場は左側。(なのでいつも机の左側が散らかる)
  • (下ネタご容赦)トイレでお尻を拭くのは左手。でもロールからトイレットペーパーを引っ張り出すのは右手。
  • (下ネタご容赦)余談だがローリングストーンする手のひらも左。

あなたはどちらの手を使いますか?

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2006年07月21日

☆ AHS (Advanced Hash Standard)

「Tetsuya Izu's Wiki」の記事より。 現在の SHS (Secure Hash Standard)に変わる新しいハッシュ関数を AES のときのように一般公募する際の仮のスケジュールが発表されている。

まだ一般公募するかどうかも決まっていないのだが, もしやるとしたら(FIPS PUB 186 の見直しを2012年に行うため) 2012年までには完了したいということで, そのためのいわゆる「おしりから引いたスケジュール」というやつである。

参考:

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2006年07月22日

☆ 権威と監視

やあっと手に入ったよ。

  • 『インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門』 白田秀彰 著 (ソフトバンククリエイティブ)[bk1]

mixi のレビューでも書いたけど, どえらい苦労してしまった。 そもそも「ソフトバンク新書」ってぇのがないんだってば。 で, 発売日1週間後に3軒まわってようやく見つけたけど, もちろん平積みになどなってはなく百年位前からそこに鎮座ましましているかのように棚に1冊だけあった。 『ウェブ進化論』[bk1] はいまだにどこ行っても平積みで置いてあるのに。 タイトルが堅かったのか? ライアカ本なんだからタイトルも『インターネット法学者の憂鬱』くらいにしておけばよかったかもしれない。 やはりプロモーションが決定的に重要なんだねぇ。

いつだったかの『日経ビジネス』によるとコンビニの商品サイクルは最長でも1ヶ月程度らしい(ちょっとうろ覚え)。 はやければ2,3日で撤去される。 つまり店頭に並んだ瞬間に陳腐化してしまうのである。 当然そのしわ寄せは製品開発セクションにくる。 カップラーメンとか酷いものらしい。 最近カレー味や「〇〇店の味」のカップラーメンが多いのも, そのほうが万人受けするし, かつ開発期間も圧縮できるかららしい。 コンピュータエンジニアの諸君。 世の中には君らより酷い目にあってる方々もいるのだよ。 膨大な時間と人をかけて作った製品が2,3日でゴミ箱に捨てられる光景を想像してごらん。

おそらく今のコンビニ化した本屋も似たようなものなんだろう。 物理的な制約を受ける本屋の棚に商品を置かせて貰うことが如何に熾烈なことかということなのかもしれない。 結局, 大多数の消費者にとっては本も記号の消費に過ぎないってことなんだよね。 あーやだやだ。

前振り長かったけど一応感想めいたことを。 つか読んでて頭に浮かんだことをメモしておく。

p.42 イギリスにおける街頭監視カメラ: 『闇をひらく光』[bk1] に17-18世紀における街灯破壊に関する面白い記述がある。 例えば, パリにおいては街灯は絶対的権力(主に警察組織)による秩序と支配と監視の象徴であり(まぁ実際に街灯は当時の警察の設備だったのだが), 街灯を破壊することは (心理学的には全能感を満たすための行為であるということを差し引いても) それらに対する反抗であり闇を以って自由を得るための正義の行為であった。 しかしこのような街灯破壊はパリに特有な現象だったらしい。 特に当時もっとも近代的な大都市といわれていたロンドンでは18世紀に至るまで公共照明がなかった。 これは当時のロンドンの警察力の弱さに原因があるそうだ。 当時のロンドンの警察は組織と呼べるような統一的な集団ではなかったらしい。 現在でもロンドンの警察は世界的にも特異な存在なのは結構有名な話。 ロンドンがこのように変わっているのは当時の施錠装置の技術の高さにあるのではないかという指摘がある。 つまり施錠装置によって公共空間と私的空間を確実に分離することができたからということらしい。 街頭監視カメラやネット上のセキュリティ・システムは象徴的には17-18世紀における街灯とよく似ていると思う。 ロンドンのように空間的にパブリックとプライベートが分かれているところでは「監視」も「見守り」に変わるのかもしれない。 しかし今のネットにはパブリックとプライベートを確実に分ける施錠装置がない。 そこに権力の付け入る隙がある。 (最近流行りの「見守り」という言葉には言いたいことがいっぱいあるけど, どう書いても誹謗中傷っぽくなるので止めておく)

p.138 権威(典礼)の実装: これは既にさまざまな形で始まっているような気がする。 例えば spam 等のノイズを排除する手段としてフィルタリングやレーティングを使うのが主流になりつつある。 検索サービスもユーザから見ればフィルタリングとして機能する。 見方を変えるなら, ユーザはフィルタリングやレーティングによって排除されないように振舞う。 SEO なんか典型的だ。 これはフィルタリングやレーティングが一種の権威として機能し始めている証拠。 同じく spam 等のノイズを遮断するための方法として別のアプローチもある。 TypeKey や OpenID などを用いた認証(Identification)だ。 これは本来の認証(Authentication)とは異なるが, ID により相手を形式的に承認することによって特定の場で自由に振舞うことを許す仕組みだ。 もちろん「自由に振舞う」といっても場の規範に沿わないユーザは ID 単位で排除される。 ここでいう ID は国民番号のような現実界に直結するものではなく仮想的で同時にいくつも保持できるのがポイント。 逆に Identification の仕組みや ID そのものを持たない人は参入すらできない。 これも Identification の仕組み自体が権威として機能していると言えなくもない。

p.168 ポリシーロンダリング: これが初出というわけではないだろうが, ポリシーロンダリングに関してはこういう記事もある。

そうそう, 本を開いてのっけから著者のポートレートがドーンとあってバカウケしてしまった。 昔の本ってこんなのあるよね。 あと個人的には「国王なんて飾りです。トーリーの連中にはそれがわからんのですよ」がツボ。

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2006年07月25日

☆ 「サルでも読める空気」かな?

面白い記事みっけ。

確かに個人のメールソフトと連動する spam フィルタなら「受け取った側が悪い」と言えるけど, これが社会的な装置として機能する場合には送る側の問題になるかもしれない。 私が想定しているのは ISP がメールサーバと連動する形で設置しているウイルス対策や spam 除けのツール群。 あるいは Websense などが今のところ主に企業向けに提供している Web レーティング・ツール。 これらのツールはユーザのコントロールを離れれば離れるほど社会的な装置になっていく。 しかも更なる利便性を求めるユーザの欲求がそれを後押ししている。

Google の検索サービスだって広い意味でのフィルタリング/レーティング・ツールだ。 そしてそれがネット上の社会的装置として機能し始めているからこそ SEO なんてものももてはやされる。 またそういう社会的装置が独占に近い状態で提供されている(日本ではそうでもないけど)という危惧があるが故に 「Google は evil か」なんてな話も出てくるわけだ。

IHCPC の話は面白いかも。 これって最近流行りの言葉で言うなら「見える化」ってやつだよね。 本来形に残らない社内のコミュニケーションを可視化することで内部統制を容易にするというアレである。 「見える化」といっても社内の全てのやり取り(給湯室での OL 同士のおしゃべりとか喫煙コーナーでのおぢさん同士の情報交換とか)を可視化するわけにはいかないので 「どこまで見える化?」というのが問題になる。 でもこれを一種の典礼と考えるなら設置ポイントが見えてくるかもしれない。

更に推し進めていけば「空気が読めない奴」もアーキテクチャの力を借りて読めるようになるかもしれない? ってそこまでは飛躍しすぎか。

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2006年07月26日

☆ セキュリティ対策の専門家や企業にご用心

セキュリティ対策の専門家や企業は信用できるのか, あるいは信用されているのか。

専門家同士であればある事象について自らの知見と照らし合わせて判断することができるが, 片方がただのユーザの場合はそうはいかない。 (「情報の非対称性」というやつかもしれないが) そもそも「パソコン」をただ使うだけの普通の人は「〇〇に脆弱性がある」と言われても, それを確かめる知識・手段は皆無といっていい。 だから相手の権威性で判断するしかない。

しかしそういった権威性すら spam のネタにされ, 企業によるマッチポンプ広告も激しさを増す中, 私たちは何を信用すればいいのか。 私たちもセキュリティ専門家になれとでも言うのか。 ありえないだろう。 問題点はおそらくふたつある。 ひとつはセキュリティ対策の専門家や企業を比較する物差しが存在しない(しなくなった)こと。 もうひとつはセキュリティ上の脅威をリスクではなくハザードで語る専門家や企業が非常に多いこと。

セキュリティ上の脅威をハザードで語れたのはセキュリティ上の脅威が(他の事象に比べて)さして大きくない長閑な時代の話である。 ウイルス情報のアップデートが1ヶ月に1回とか1/4年に1回とかいうレベルなら「ウイルス対策ソフトを入れとけ」でとりあえず問題なかったが, 今では毎日のアップデートでも追いつかなくなりウイルス対策ソフトの有効性は相対的に下がっている。 日本では Winny の作者が係争中で手が出せないのをいいことに Winny を諸悪の根源であるかのように祭り上げ, その対策として自社の新製品を導入しろと売り込みをかける。 政府も「Winny さえなきゃ大丈夫」みたいなメッセージを送り, それを真に受けたユーザが Share で機密情報を垂れ流すというマヌケな状況を作り出している。 22日にも書いたが, Web の改竄情報を提供しているサイトにしても怪しいものである。 昔と違って今はサーバサイドで作業する割合が高い。 そのため作業中に一時的に表示がおかしくなることはよくあるのだ。 そういった現象と改竄をどうやって区別しているのか。 ちなみに ISP はログを渡してはいないらしい。

では私たち普通のユーザは何を信じればいいのか。 有効な方法はあまりないが, 比較的使えるものとしては「脅威をハザードで語る専門家や企業の言動はひとまず信用しない」ことであろう。 つまりハザードを叫ぶものを(とりあえず)ハザードとして排除するのだ。 これはセキュリティ分野以外でも使える。 もっともそんなことをしたら信用できる人や企業は誰もいなくなった, なんてことになりかねないかもしれないが。

脅威を声高に語り, 脅威を「排除」するためと称し猛烈な売込みをかける専門家や企業にはご用心ご用心。

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2006年07月27日

☆ 漏洩を完全に防ぐことはできない

こんなの常識だと思ったんだけど。

企業なんだから漏洩を防ぐための設備投資を行うのは当然。 でも, どんなに(内部統制を含めた)投資しても漏洩を 100% 防ぐことは不可能だ。 これはリスク・マネジメントの問題。 セキュリティ対策企業は恫喝と懐柔のマッチポンプ広告で商品を買わせようとするだろうけど, 防衛にのみ法外な投資を行うことは意味がない。 それよりも漏洩が発生した際にいかに被害を小さく抑えるか, いかに顧客への信用を落とさないようにするか, つまりインシデント・レスポンスに備えることにもっともっとお金をかけるべきだ。 たとえ Winny であっても被害を最小限に抑えるためのインシデント・レスポンスは可能なのだ。

失敗しないようにするのはもちろん重要だけど, 万一失敗した際に「上手に失敗できる」よう備えておくことはもっと重要。 それがセキュリティ・システムを設計するということだ。 そういうことをちゃんということができる専門家を Bruce Schneier さん以外にほとんど知らない。

☆ MD も同じだな

上記の話, なんか既視感があると思ったら日本の MD 構想だ。

まぁこれ自体もあまりいい記事ではないかもしれないが, 今回の北朝鮮のミサイル発射は日本に対して何ら脅威を与えていないのにも関わらず, 声高に脅威を振りかざし日本に MD のような防衛手段が必要であるかのような印象を植え付けた。 ホントにマスメディアって奴は「大本営発表」しかしないとつくづく呆れちまったよ。

J-RCOM 最新情報(7/26 の記事)を見ても, こんなものが役に立つとは思えない。 でも利権塗れの MD は推進しなければならないし, そのためには北朝鮮のミサイルが(国民感情として)脅威でありつづけなければならない。 これが安部次期総理大臣(?)の最初の業績だってんだから笑ってしまう。

今の北朝鮮は日本にとって全く脅威ではない。 今の極東情勢は北朝鮮をネタにした米中のパワーバランスの中で動いている。 他の国はそのパワーバランスをいかに利用すべきかと狙っているが, 日本だけは様子が違う。 日本の外交上の役割は番犬みたいなもんだ。 ギャンギャン吼えて威嚇しているように見えるがロープの端はアメリカがしっかり握っている。 中国も他の国もそれを良く知っている。 国連は日本が演ずる番犬をなだめるふりをしながら他のどの国にもあまり角が立たないように今回の決議を決めたわけだ。 はっきりいって恥ずかしいから日本は国連ではもう喋るなといいたい。

中国が北朝鮮の口座を閉めたのは今回の辱めに対する報復かと思っていたが(今回の件で北朝鮮が泥を塗った相手は中国だろう。アメリカや日本は予定の行動を予定通りにとったに過ぎない), 人民元の偽札を造ってたとはね。 いよいよ北朝鮮は終わりかな。 それよりも今は中東か。 陸自は運が良かった, というか陸自が撤退したから今回の戦争を仕掛けることができたのか?

そういやこの記事は久しぶりに面白かったな。

例によってこの方の記事は話半分くらいで読んでちょうどいい感じだが, それでもこの記事は面白い。

☆ アニメという作品は消失する?

へぇ, 最近はこんなんなんだ。

最近のアニメを見てても何が面白いんだかおぢさんにはさっぱり分からないんだけど, そういうことなのか。 これはすなわち経営的に見るならアニメ作品の核心部分をアウトソースしちゃっているわけだ。 アニメは動画という表現手段としての役割のみ与えられ, それ以外の全て(つまり「作品」)はアニメの外に存在するということか。

確かにゲームなどはキャラの描写が上手くなってきた。 これはアニメだけじゃなくてロボット工学なんかでもそう。 いわゆる「不気味の谷」を埋める技術革新がなされつつあるわけだ。 そうなるとアニメータがキャラを描く必要はなくなる。 これって知財的に考えればアニメ制作会社にはほとんど何の権利も残らないことになる。 アニメ制作会社はただ機械的に原作の二次利用をしているだけだからだ。 で, ますますアニメ業界は下請け業のスパイラルから抜け出せなくなる... とか。 っていうか「アニメ業界」という存在が「要らない子」になってしまうのか。

もうひとつ考えられるな。 アニメ制作から人間系の部分が排除されればされるほどアニメはツール化され場合によってはオープンソースになっていく。 原作のシナリオやキャラなどを数値化し適当なデコーダにかければいつでも好きなときにアニメが見られるわけだ。 となるとアニメ制作会社の仕事はアニメを作ることではなくアニメを「表示」するためのエンコーダ・デコーダを作ることになる。 「この会社のデコーダは萌え」とかいった感じ。 で, デコーダにかけるパラメータ情報をハックする奴も出てきたり。

☆ みんな大好き「数独」

『日経サイエンス』2006年9月号の目玉はなんといっても「数独を10倍楽しむ数理」。

数理パズル好きならおそらく一度はハマったであろう「数独」。 私も『ニコリ』がまだ「極力季刊発行(といいつつ年2回程度の発行)」だった頃からハマっていて, 今でも雑誌・新聞なんかで「数独」の問題なんかあったらついやってしまう。 ちなみに『日経サイエンス』の記事によると, 「数独」はニコリの登録商標で日本ではむしろ考案者(インディアナポリスの元建築家 Howard Garns という人だそうだ)が名づけた「ナンバープレース」の名前のほうが有名だが, 日本国外では「Sudoku」の名前のほうが有名というちょっと妙なことになっているらしい。

数理パズルって解き方が分かっちゃうとルーチンワークになってしまうので, ハマる人というのは大体2通りのタイプに分かれるみたい。 ひとつは問題を作るほうが楽しくなるタイプ。 もうひとつは更に効率的な解き方を模索するタイプ。 「数独」の場合, 開始格子が少なくとも17個の数字を含んでいなければならないことが証明されているので, その辺を手がかりに問題を作ってみるのも面白いかもしれない。 ちなみに問題を作ったり解いたりするプログラムも存在するらしい。

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2006年07月28日

☆ 「ワーキングプア」というバズワード

最近うちでもようやく TV キャプチャを導入した。 NHK スペシャルは全て録画するように設定しているのでこの番組も一応見たのだが, なんちうかいたたまれなくなる番組。 貧困率を下げるためのキャンペーン番組にここまでの演出が必要なんだろうか。 これでは単に上から下を見る目線で「可哀想(=弱者)」と感じるだけで議論も薄っぺらに終わってしまう。

「日本の貧困率は OECD 25ヶ国中5位だった」 というのは私も最近知ったので他人のことは言えないが, 日本の貧困率の問題は例えばイギリスにおける NEET の問題などとは質が異なる。 構造的な問題なので一朝一夕に解決できるものではないし, 解決できるとしても全ての貧困者を救えるわけではない。 件の番組を見てあなたが「可哀想」と思った人は所得格差を減らす政策が(そんなものができたとして)行われた後もやっぱり貧困者かもしれない。 それでもやっぱり「可哀想」と思うのか, それとも「仕方ない」と思うのか。

うちの親も高度成長期に貧乏な生活を強いられた。 「日本総中流時代」の幻想の中にも「ワーキングプア」は一定数いた。 「巨人の星」の子供時代のシーンさながらの生活をしていた人は結構いたのである。 それとも「古き良き時代」に戻って再び貧困者などなかったことにするのか。

ところで TV キャプチャだけど, 確かにこれは便利。 私は今まで「今見れないものを後で見れるはずがない」と思っていたが, これを導入すれば On Time で TV 番組を見ることに意味が無くなるわけで(朝のニュースと天気予報くらい?), 実はこれで TV 離れが進むということにようやく気が付いた。

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2006年07月29日

☆ 「電子翻刻の落とし穴」

「青空文庫 vs Google+amazon」 の話, 「どっかで聞いたなぁ」と思ったら aozora blog で言及されていたのを思い出した。

日本語は難しい。 OCR を使わなくても目視で書き写しても間違えそう。 しかも日本語の場合は異体字だの包摂だの文字に関する面倒な問題があるしね。

ところで, せっかく青空文庫に言及したんだからこの記事も紹介しておかなきゃ。

(8/2 追記) 結城浩さんに「青空文庫の応援ページ」を教えていただきました。 文字をチェックするツールもあります。

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2006年07月30日

☆ 待ちに待ってた衝動買い

ようやく手に入ったですよ, Nintendo DS Lite。 でも買い方はほとんど衝動買いのパターン。

暑さが少しだけ和らいだ昨日の夕方。 近所の本屋に出かける。 漫画本を2冊ほど買った後, 冷やかしにゲームコーナーへ行く。 したら普通に並んでるじゃないですか Nintendo DS Lite。 でもピンクっぽいのは結構売れ残ってるけど他の色はほとんど売り切れ。 白がかろうじて残ってたのでそれを持ってレジに向かう。

と, 本体だけでソフトを買ってないのに気が付いた。 しょうがないので「回れ右」して DS ソフトの棚へ向かう。 が, DS のソフトって何が面白いんだっけ? 棚に並んだパッケージ群を見て激しく悩む。 天邪鬼の本能が騒ぐので「脳トレ」なんか絶対買いたくないし, でも他に何が面白いんだ? 悩んだ挙句「Xenosaga I・II」を持って再びレジへ。 なんだかなぁ, もう完全におバカの買い物だよ。 確かにやってみたいゲームがいくつかあった筈なのに, あまりに本体が買えない時期が長かったので全部忘れてしまった。 今度はちゃんと調べて買うことにしよう。

うちに帰ってパッケージを開けて早速「Xenosaga」をやってみる。 で, 画面見て突っ伏す。 なんだこのチープさは。 「Xenosaga」はリローデッド版(英語吹き替えバージョン)しかやってないので台詞とか声とかも違和感ありまくりだし。 とほほ。 こりゃあやっちまったかねぇ。 DS で出るリメイク版ソフトには気をつけましょうということで。

☆ ゲームを支配するものは

考えてみれば DS 版 Xenosaga にこういう評価を下したということは, そもそも PS2 版のオリジナルに対してもゲームとしての評価はしていないということだ。

この感覚はわたしがもう「おぢさん」であることの証なのかもしれないが, 実際ビジュアルもシナリオも素晴らしいがゲームとしてはイマイチな作品が多すぎる。 ムービーは綺麗だしシナリオも面白いから早く続きが見たくてゲームを続けるんだけど, 正直言ってゲームをする行為が辛い。 できればゲームそのものは他の人にやってもらって私は横から進行を眺めるだけにしたい。 今はこれだけ山ほどのゲームがあるのに, いちばん最初の Wizardry よりハマったゲームにお目にかかったことがない。 私はムラマサを出すのに2年かかった。

こう考えるとゲームを決定的に支配するのはビジュアルでもシナリオでもなくてルールなんだよな。 それはどんな遊びでも同じで, 優れたルールに支配された遊びは面白いしいつまでも楽しめる。 鬼ごっこでも缶蹴りでもババ抜きでもセブンブリッジでも。 でも基本的にコンピュータ・ゲームは論理でしかルールを記述できないから作り込めば作り込むほど面白くなくなってくるんだよな。 あまりシナリオを凝らすことができない MMORPG あたりは期待していて ECO はやってみてそれなりに面白かったけど, なんていうか見通しがよすぎるんだよね。 他の MMORPG はどうなんだろう。 ってそんなにいろいろ試す時間的余裕はないけど。

どなたかめっさ面白いゲームを作ってください。 私が何年でもハマれるような... しょうがない, 数独でも買ってみるか。

☆ その他のお買い物

DS 以外のお買い物。

  • 『石ノ森ヒロイン レクシコン』 (竹書房)[bk1]
  • 『ああっ女神さまっ』 33 藤島康介 (講談社)[bk1]
  • 『るくるく』 6 あさりよしとお (講談社)[bk1]
  • 『刀神妖緋伝』 7 新谷かおる (メディアファクトリー)[bk1]
  • 『おうちでごはん』 2 スズキユカ (竹書房)[bk1]
  • 『悪魔様へるぷ☆』 3 岬下部せすな (芳文社)[bk1]
  • 『ヤバい経済学』 スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー 著, 望月衛 訳 (東洋経済新報社)[bk1]

『石ノ森ヒロイン レクシコン』は随分前に買っていたけど紹介するのを忘れていた。 私の頭の中ではセクサロイドが石森作品になっていて「何でないんだろう」と思っていたが, 実は松本零士さんの作品だった。 なんでとっちらかってしまったのか, 謎。 まっ少年の日の甘酸っぱい思い出の1ページということで。

『ヤバい経済学』は某所のレビューを見て面白そうなので買ってみた。 サブタイトルの「悪ガキ教授が世の裏側を探検する」が気に入ってしまった。 このタイトルを見てふと『インターネットの法と慣習』[bk1] の白田秀彰さんを連想してしまった。 ちなみにオリジナルのタイトルは "Freakonomics -- A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything"。 内容は反社会学講座を彷彿とさせるもので, 世の中を「インセンティブ(誘因)」を軸としてみることにより今まで見えなかった様々なものが分かってくるというもの。 日本の大相撲の話とか「えっここまで書いてええんか」とか思ったりするが, ホンマ学者さんというのは遠慮がない?

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2006年07月31日

☆ Lion's Milk

公開している RAKI の写真でコメントを頂いた。 向こうの人はこれを "Lion's milk" と呼んでいるらしい。

「どこがミルクやねん」と思う人もいるかもしれないが, 実はこのお酒, 水で割ると白濁するのだ。 見た目はミルク(つかカルピス)みたいだが結構ヘヴィなお酒である。 だから "Lion's milk" なんだろう。

☆ だからセキュリティもリスクなんだってば

だからさ, セキュリティはリスクで考えるべきであってハザードで考えちゃダメなんだってば。 Bruce Schneier さんの本を読むのもいいけど, まず先に『リスクとつきあう』[bk1] あたりを読んでおくことをお薦めする。 それすら面倒だという方は私が風邪引きの妄想中に考えたこの記事でも読んでください。 恫喝や説得(=啓蒙)では理解することはできない。

X.509 型の PKI のコストが高いのは当たり前。 何故ならこのシステムは「見知らぬ他人」と取引(昔なら対面で契約書類を交わすなど)を行う際のインフラとして機能するものだからだ。 逆にいえば相手が「見知らぬ他人」でなければ(つまり信頼関係がある程度成立しているなら) X.509 にこだわる必要はないわけで, 例えばもっとお手軽に OpenPGP (web of trust)でもいいわけだ。 現にドイツは両者(X.509 と OpenPGP)を上手く使い分けたシステムを開発している。 ハンコと同じく PKI も実印と三文判を使い分けるべきなのである。

(ただし上に挙げた記事で「電子署名は不要」というのは言い過ぎ。 通信経路上でオリジナルの情報を改竄することは確かにめったにないかもしれないが, オリジナルを偽装することはそう難しくはない。 その代表的な攻略法が Phishing である。 ただし Phishing のような偽装を防ぐために X.509 を使うのがコスト的に見合っているかどうかは別だが。 また電子署名には改竄や偽装を防ぐ目的のほかに「否認」を防ぐ目的もあることをお忘れなく)

日本が「PKI = X.509」で思考停止しリスクとベネフィットも勘定せずに爆走しているのは, そのほうが(IT ゴロにとって)「おいしい」からに他ならない。 「おいしい」ことが重要なので「セキュリティ要件を満たしているか」とか「運用コストに見合っているか」なんてのは二の次なのである(っていうか運用コストが高いほど「おいしい」んだけどね)。 そうやって作られた記念すべきオブジェの第一号が「住基ネット」だ。 これからもこんなオブジェが次々と作られていくだろう。 まさにネット版「日本列島改造計画」である。

そうなるのが嫌ならそんな(見合わないコストを払いつづける)オブジェは使わないことだ。 役所への届出や支払いは従来どおり人力でできるし, それ以外でネットを使う必要があるなら商用の CA を使うなり OpenPGP を使うなりすればいい。 住基カードなんか返却してしまえ! そうやって彼等の作ったオブジェが役に立っていないことを証明すればいい。

☆ ハードウェアは DRM を指向する?

私自身は GPLv3 にはあまり興味がないのだが, この記事には思うところがある。

気になるのは以下の部分

「Torvalds氏は「仮に私がハードウェアメーカーだとする。私は特定のオープンソースソフトウェアを使用することに決めるが、ハードウェアを販売する時には、そのソフトの1つの特定のバージョンだけがそのハードウェア上で動作するようにしたいと考える。なぜなら、そのバージョンは私が、正常に動作することを確認したものだからだ。そこで私は、そのソフトの実行前にバイナリファイルに施された暗号署名をハードウェアにチェックさせる」と語り、さらに次のように続けた。「しかし、GPLv3ではそれが認められていないようだ。実際、GPLv3の修正点の大半は、まさに上記のような使い方を認めないことを明確な目的としているように思える。しかし、私はGPLv3がそこまで規定する筋合いではないと考える。」」

「Torvalds氏」が実際にこのようなことを言ったかどうかは知らないが, これは明らかに変だろう。 あるハードウェア製品が正常に動作するために特定のソフトウェアの特定のバージョンが要求されるというのはよくある話だ。 しかし「特定のソフトウェアの特定のバージョン」を走らせるために「暗号署名をハードウェアにチェックさせる」なんてことは普通しない。 何故ならハードウェアでそんなことをすれば確実に製品としての寿命を縮めてしまうからだ。

普通, 製品としてのハードウェアの寿命は(同じく製品としての)ソフトウェアのそれよりも長い。 しかし上記のような仕掛けを作ることはソフトウェアと運命を共にするのといっしょだ。 そのソフトウェアが使えなくなればハードもお払い箱になる。 いや, ソフトウェアは改良しアップグレードすることで寿命を延ばすこともできるが, ソフトと運命を共にしたハードはそれについていくこともできないかもしれない。 ヘタをするとソフトのアップグレードのたびにリコール発生するというマヌケな状況になる。

どうしても「特定のソフトウェアの特定のバージョン」で走らせたいなら, そのソフト自身をハードに組み込んで改変不可にするのが普通である。 っていうか世の中にあるコンピュータシステムの多くはそうなっている。 そうなっていないのは汎用機か「パソコン」かしょっちゅう故障する日本のケータイくらいのものだ。 「Torvalds氏」は本当にそんなことを言ったのだろうか。 激しく謎である。

私は「DRM なんか無くなればいい」とまでは思っていないが, DRM をハードウェアに組み込むことがいかにマヌケかということは知っている。 例えば DVD プレイヤーの CSS とか典型だろう。 システムに DRM を組み込むかどうかはあくまでもソフトウェア側の要件であり, ハードウェア側が考慮することによるベネフィットはない。 仮に GPLv3 によってハードウェアに DRM を組み込むことを抑止できるのなら(実際にできるのかどうかは知らない), むしろ結構な話ではないのか。 (だからといって私は GPLv3 を支持しているわけではない。 もちろん不支持でもない。 つまりどーでもいい)

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