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「クリエイティブ・コモンズ」は誰のもの?

みなさんは「クリエイティブ・コモンズ」についてどのようなイメージを抱いているでしょうか。著作権意識に目覚めた人たちによる運動?行き過ぎた著作権コントロールに抗議する団体?それともクリエイティブな活動を行う人たちを支援する組織?もちろん多くの人たちに著作権について考えていただき,現在「商業」寄りにシフトしつつある著作権コントロールのバランスを取り戻し,クリエイティブな活動を行う人たちがもっと自由に振舞えるようになれば素晴らしいと思いますし,そうしたことも確かにクリエイティブ・コモンズの目標のひとつです。しかし私を含めてほとんどの一般の人は著作権法や実際の判例を熟知している専門家ではないですし,官僚や政治家に影響を与えることのできる市民エリートでもありません。世の中の注目を集めるようなクリエイティブな活動をしているという人も少ないでしょう。ではクリエイティブ・コモンズは多くの人たちにとって無関係なプロジェクトなのでしょうか。そんなことはありません。クリエイティブ・コモンズは文章や映像や音楽といったさまざまな作品を利用する私たち普通の人達(消費者)がもっと自由に振舞うための方法を提案するプロジェクトです。

このテキストではネットにおける作品の「消費」と「流通」に注目し,これらにクリエイティブ・コモンズがどう関わってくるかについて考えていくことにします。

「消費」と「表現」は常に一体

今ネットでは,著作権をめぐる悩ましい状況が日常茶飯事で発生しています。本屋で買った本を読み,レンタルショップで借りた映画を鑑賞し,オモチャ屋で買ったゲームで遊ぶ。そしてその時々の思いを家族や友人たちと分かち合う。このような日常生活ではごく普通の「消費」行動をいざネットに持ち込もうとすると途端に禁則の嵐になります。

ひとつ例を挙げましょう。私の学生時代の先輩が作られた「Music Box Player」というソフトウェアがあります。これはどんなMIDIファイルもオルゴール風にアレンジして演奏してしまうという優れものです。(これ本当に凄いんです。単に音源を変換するのではなくメロディトラックの類推といったことまでやっているんです)しかし,このソフトには「保存」機能がありません。作者が忘れたわけではありません。MIDIファイルをアレンジして公開することはオリジナルの作者が持っている著作権を侵害する可能性があるため意図的に「保存」機能を外したのです。つまりユーザは「Music Box Player」をひとりで楽しんだりBBSやチャットでソフトウェアの感想を話し合ったりすることはできますが,アレンジされた演奏を「見せっこ」することは禁じられていることになります。更にオリジナルのMIDIファイルが他の誰かの権利に抵触するものであれば,そのファイルを演奏すること自体に問題があります。

何故こんなにもネットは不自由なのでしょう。それはネットが公衆空間である(少なくともそう考えられている)こと,そしてネットの中では情報の流通コストが驚くほど低いことに関係していると思います。例えば家族や親しい友人達との間で作品をコピーして楽しんだり,勉強・調査等の目的で図書館の本の内容を一部コピーしたりといったことは普通に行われますし著作権法上も「権利の制限」として許される行為です。しかし同じような行為をネット上で行った場合は不正コピーになります。ネット上で行われたコピー等の行為が不特定多数に対する「複製」と「頒布」であるとみなされるからです。既にある絵や音楽をちょっと真似た落書きや鼻歌のようなものでも,ネット上のウェブサイトや誰かの掲示板に置いてしまえばオリジナルの絵や音楽の作者の著作権を侵害してしまう可能性があります。そして何気なく置かれた複製物や派生物は本人の想像をはるかに越えて早く広く伝播します。こうなると収拾はほぼ不可能です。

このような権利やネットワークの構造については色々と議論がありますが,私達一般の人にとって当面問題なのは「ネット上の自身の行動について判断・決断しなくてはならないことが多すぎるため,事実上身動きがとれなくなってしまう」ことではないでしょうか。

ここで少し考え方を変えてみましょう。私たちが普段作品を楽しむ行為(以降「作品をプレイする」と呼ぶことにします)を大きくふたつに分けてみるのです。ひとつは作品を単に読む・観る・聴く行為,もうひとつは「作品を読む・観る・聴く行為」から新しい想像力を得て行う行動(例えば友人に知らせるためにコピーをしたり,元の作品をアレンジして別のものを作る行為)です。前者は独りで行う行為で,その場限りのものです。これを「消費」と名付けることにします。本来「消費」とは「使い尽くす」ことを意味しますが,作品が使い尽くされて無くなることはないので,その場限りの「読む・観る・聴く」行為を「消費」として拡大解釈します。一方後者については「表現」と名付けることにします。違和感があるかもしれませんが,オリジナルの作品から受けた感動や想像力を他の人達と共有したり,そこから新たな派生物を創ったりする行為は「表現」と呼んでもそうおかしくはないと思います。また著作権法上もオリジナルを元に作られた派生物は「二次的著作物」と呼ばれ著作物の一種とみなされます。

このように作品をプレイする行為をふたつに分けて考えると,その行為における著作権上の問題を回避するには,「表現」行為を一部制限し,その結果生成されるもの(=派生物)を流通経路に乗せないようにするのが一番簡単,と気づきます。つまり「表現」をコントロールすることで著作権上のトラブルを回避しようというわけです。制限の方法についてはいくつか考えられますが,現在(主に商業サイドで)よく使われる方法は,「表現」を技術的な手段で制限する方法です。技術的にできないのであれば消費者は権利の競合について悩まずにすみます。前述の「Music Box Player」の例では保存機能を組み込まないことで技術的な制限を組み込んでいると考えることもできます。このような例はいくらでも見つけることができます。例えばPDF文書の暗号化機能,DVDなどにおけるデータのスクランブル機能,ケータイにおける着メロや壁紙のダウンロードの機能制限,記憶媒体のコピー機能制限などなどです。

作品をプレイする際,その場限りの「消費」で終わらないことがあります。お気に入りのアーティストのライブのために新作のアルバムを買ったり,新しいゲームの感想を話しあったり裏ワザ等の情報を交換したりすることはよくあります。小さな子供だってお気に入りのTV番組や童話のキャラクタの似顔絵を描いて親に見せたりするでしょう。「消費」の後に残る「思い」を某かの「形」でみんなで共有しようとするのは自然なことです。このように「消費」と「表現」が一体で進行する場合には(「表現」行為を制限する)技術的回避手段は消費者にとって「不自由感」を増幅させる強力な「禁則」として機能してしまいます。技術的回避手段がダメだというわけではありませんが,導入するのであれば消費者の「不自由感」をできるだけ低く抑えるよう慎重かつ巧妙に設計されなければなりません。

ここでようやくクリエイティブ・コモンズの登場です。クリエイティブ・コモンズでは作品をプレイする行為を技術的手段ではなく「ライセンス」という法的手段によってコントロールします。そのためにクリエイティブ・コモンズでは「Creative Commons Public License」(CCPL)をツールとして提供しています。(クリエイティブ・コモンズ自身はライセンスを発行したり個々の紛争を調整したりする立場ではないことに注意してください)CCPLではプレイに対するコントロールを以下に示す4つの条件の組み合わせとしてシンプルにまとめています。

なお,これらの条件は必ずしも「禁則」事項ではありません。例えばある作品に「非営利目的利用」条件を付与している場合でも,作者と何らかの交渉を行って商用利用の許可を得ることは可能です。また引用等のいわゆるフェアユース(公正な使用,日本では「著作権の制限」として定められている項目)については利用条件によらず常に可能です。

CCPLの大きな特徴は,上記の条件の組み合わせを遵守する限り「作品の流通を制限しない」ことを明示している点です。具体的には作品の利用者に対し以下の許可が与えられています。(『「クリエイティブ・コモンズ」について』より引用)

法律等に詳しくない私たち一般の消費者にとってCCPLによって提示される条件のシンプルさは重要です。このライセンスの強制力の根拠となるものは著作権法ですが(この点については色々と議論があるのですが,ここでは割愛します),私たちは著作権法の詳細を知らなくても作品の作者が提示する条件の組み合わせを遵守すれば著作権上のトラブルを回避できます。また流通を制限しないと明示することは事実上「表現」に対する制限を行わないことであり,これによってネットにおける「不自由感」は大幅に緩和されます。こうして見ていくとCCPLは,単なるライセンスではなく,消費者が作品を安心かつ自由にプレイするための基盤(インフラ)としても機能していることが分かると思います。

これはあくまでも私的な見解ですが,これからCCPLが広く普及するのは映像や音楽の分野ではないでしょうか。映像や音楽をディジタル情報として容易に扱うことができるようになった結果,「作品」とは呼べないような細かい「素材」に分解された形でネットに公開されはじめています。MIDIデータを例に挙げましょう。MIDI規格というのは簡単に言うと楽器演奏を符号化したものです。つまりMIDIデータというのは演奏テクニックの塊であると言い換えることもできます。このようなテクニックを「素材」として抽出しライブラリ化(データベース化)できれば,もっと面白い作品をもっと簡単に創作できるようになるかもしれません。実際にこういったことができるソフトウェアも登場(3)しています。「素材」に付属する著作権をCCPLのもとで簡単に取り扱うことができるようになれば「素材」の交換も容易になり,それ自体が「財」の一種として流通するようになるかもしれません。まぁこれはお伽噺に過ぎませんが「CCPLを基盤とした流通」がどういうものかおぼろげながらイメージできるのではないでしょうか。

  1. 例えば「MIDI Espressivo」など。

クリエイティブ・コモンズは受け入れられるか

さて,ここまではクリエイティブ・コモンズをべた褒めしてしまいましたが,実際の問題としてクリエイティブ・コモンズおよびそのライセンスツールであるCCPLはネット上で受け入れられ利用されるのでしょうか。特にアメリカ生まれのプロジェクトとライセンスが日本の法と慣習に馴染むかどうかは未知数です。法的な問題は私の手に余るので,消費者の立場から問題になりそうな点を挙げてみましょう。

第一の懸念は,クリエイティブ・コモンズが作品の再利用を前提にしたものであることです。よほど天才的なクリエイターでもない限りまったくゼロの状態から作品を作ることは難しいでしょう。普通は,意識的・無意識的に関わらず,既にある作品に何らかの影響を受け,アレンジして(または複数の作品を組み合わせて)作られるものです。この場合,出来上がったものにCCPLを付与するためには元になる作品もまたCCPL(あるいはそれに近いライセンス)が設定されている必要があります。しかし実際にはCCPLを設定している作品は(クリエイティブ・コモンズの知名度の低さも手伝って)ほとんど皆無といっていい状態です。また,クリエイティブ・コモンズ自体はどちらかというと流通と消費に重きをおいたライセンスであり,作り手に対するインセンティブに乏しいと言われています。この状況を改善するにはCCPLを基盤としたアプリケーションが必要になります。

本家アメリカでは最近になってようやくCCPLを基盤としたアプリケーションが登場しつつあります。そのひとつに「gnomoradio.org」というプロジェクトがあります。ローレンス・レッシグ教授のblogによると,このプロジェクトでは「アーティストが自発的に、フリーに音楽をシェアしたりプロモーションをおこなうことができるオンラインネットワーク」の構築を目的としているようです(4)。このうち各曲のライセンスの設定と検証にCCPLが使われます。もしこのプロジェクトが順調に発展すればCCPLを基盤とした流通システムのもとで安全かつ容易に作品のやり取りができるようになります。

日本ではCCPLを流通の基盤として利用するような動きは皆無です。これはクリエイティブ・コモンズの知名度の低さに依るところが大きいと思いますが,そもそもこのような需要が日本にあるかどうかも分かりません。しかし商業的な流通とは独立した自由なやり取りが望まれる状況があるのなら,それがきっかけになり得ると思います。

第二の懸念は公開した作品がどのように再利用されるか予測できないことです。例えば,ある嫌煙家がCCPLの「著作(権)者表示」条件で公開した作品がタバコ広告の素材として使われるかもしれません。そして条件に則って作者の名前がクレジットされるかもしれません。こうなれば作品を使われた作者にはその広告から自分のクレジットを外してもらうよう依頼するしか方法がありません。しかし,「作者が容認できない使われ方」が見つかれば個別に対処できますが,広大なネット上で自分の作品がどのような使われ方をしているのか全て把握するのは不可能といっていいでしょう。

著作権についてアメリカと日本との大きな違いのひとつは「人格権」の有無にあると言われています。日本の著作権には「人格権」も含まれます。簡単にいうとこれは「作者が容認できない使われ方」を差し止めることができる権利です。ある作品について作者に不利なライセンスが結ばれていたとしても「人格権」を理由にライセンスを無効にできる可能性があります。上記の例でいえば広告として再利用すること自体を差し止めることができるかもしれません。これは作品をプレイする消費者にとっては少々厄介です。「人格権を行使しない」ことを明記する方法もありますが,今まで「人格権」で守られてきた作り手の人達がそのようなライセンスを容認できるかどうかは難しいでしょう。「人格権」をどう扱うべきかについては日本独自の議論が必要です。

第三の懸念は日本特有というわけではないのですが,CCPLにおける責任配分のバランスについてです。「自由」を得るためにはそれに見合う「責任」も負わなければなりません。消費者が安心して作品をプレイするには,その作品が他者の権利(著作権だけではなく名誉やプライバシーといった人権も含めた権利)を侵害していないことが「保証」されていなくてはなりません。CCPLではこの保証責任が作り手側にかかりすぎるという指摘があります。しかしここで「クリエイティブ・コモンズが作品の再利用を前提にしたものである」ことを思い出してください。CCPL基盤の下で作品をプレイするということは「消費」と「表現」が一体になった利用が頻発するということです。こういう状況ではCCPL作品をプレイする多くの人が「作り手」に立場を替える可能性があります。

CCPLにこだわらなければ作り手にも消費者にも保証責任を負わせない方法もあります。すなわち作り手と消費者との間を繋ぐ「流通」に権利関係の管理を任せて保証責任を肩代わりしてもらう方法です。どこかで聞いた話ですね。そう,前述した技術的回避手段を使うやりかたです。不正な作品,権利的にグレイな作品を「流通」に乗せないようにすれば作り手も消費者も保証責任を負わずに済むかもしれません。しかし技術的回避手段により「表現」が制限されることによる「不自由感」といかにバランスをとるかが問題になります。(ちなみにCCPLでは「利用者の正当な利用を制限する技術を使わない」としています)

クリエイティブ・コモンズおよびCCPLが日本で受け入れられ普及するかどうかは,これらの懸念がどのように解決されるかにかかっています。特に最後の二つはとても深刻で,場合によっては「消費者にとってシンプルなライセンス体系」であるCCPLの特徴を損なう可能性があります。しかしこれらは,CCPLの有無に依らず,私たちが必ず通り抜けなければならないハードルでもあります。私たちはネットによって「流通の自由」を手に入れました。そして作品をプレイする行為についても,その場限りの「消費」だけにとどまらない「表現」を行う「自由な場」を得ました。クリエイティブ・コモンズで議論されている問題は,これらの「自由」とともに突きつけられている(もともと私たちが負うはずの)「責任」のあり方なのかもしれません。

  1. http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/000774.html参照。

「SOME Rights Reserved」からはじめよう

もしこの特集でクリエイティブ・コモンズに少しでも興味を持っていただければ幸いです。はじめから気合を入れなくても大丈夫です。もしあなたが公開している作品の著作権表示に「All Rights Reserved」と書かれているのなら,その表示を「SOME Rights Reserved」に書き換えることができないか考えるところからはじめてみてください。必ずしもCCPLである必要はありません。でもクリエイティブ・コモンズをめぐる議論はきっと貴方のお役に立つはずです。