さて,このテキストはHotWired Japanさんの特集「日本の「クリエイティブ・コモンズ」の可能性 ── 創造的な著作物の共有地を広げよう」で私が書いた記事の草稿版です。とはいえ実際には同特集のそれとほとんど同じ内容で,異なるのは章立てと関連コンテンツへのリンクくらいです。本テキストはこのときの記事「クリエイティブ・コモンズは誰のもの?」を完成図書として保管・運用する目的で作成しました。
この記事の執筆依頼を受けたのが2003年の10月下旬。脱稿して編集部にお渡ししたのが翌11月の中頃。そして特集がネット上で公開されたのが11月末でした。一応編集長さんからは「公開して半年後なら自分のサイトで公開しても構わない」と快諾をいただいていたのですが,諸般の事情で大幅にずれ込んでしまいました。
このあとがきでは当時を振り返りながら最近の私の心境等もつらつらと書いてみたいと思います。
2003年1月に公開した私の拙文『「クリエイティブ・コモンズ」について』は幸いなことに多くの方に参照していただいているようです。そもそもこの文章を書いた理由は自コンテンツにCCPLを付与する際に何らかの解説が必要だろう,ということで書いたものでした。一種のFAQですね。
『「クリエイティブ・コモンズ」について』を書いた当時の私は「CC/CCPLはすぐにでも広まるだろう」という甘い幻想を抱いていました。「そのうちどなたかがもっと優れた(=簡潔で分かりやすい)解説を書かれるだろう。そうなればそのコンテンツへのリンクを指し示すだけで済むようになり拙文はそのうちお払い箱になる」なんてなことを思っていたものです。実際,「iNTERNET magazine」において「著作権を自分でコントロールするための新しいツール クリエイティブコモンズとは」(PDF)という特集記事が組まれましたし,神崎正英さんによるRDFメタデータの解説コンテンツ(5)も公開されました。日本版CCPL(6)の話も出てきたり「著作権とCreative Commons 実施権」(PDF)といった議論もあったりしました。「萌えクリ」の話もこのころ出てきましたね。
海外の事情はよくわかりませんが,日本国内における2003年のCC/CCPLに関する議論は法の専門家やコンテンツの提供者(クリエイターまたはコンテンツの流通・配信者)が中心でした。それは八田真行さんによる「著作権者へのインセンティヴの不足(7)」という言葉に象徴されていると思います。(そしてこの状況は日本版CCPLが正式リリースされた2004年現在もあまり変わっていません)
日本国内の議論で最も不足しているのは「消費者の影」だと思います。コンテンツの消費者が不在の状態でいくら議論しても堂々巡りで終ってしまい,結局「今のままで何が悪いの?」という結論に終ってしまうのです。これが2003年第4四半期の時点において私が感じていたことでした(8)。
前述のような状況で特集「日本の「クリエイティブ・コモンズ」の可能性 ── 創造的な著作物の共有地を広げよう」で記事を書く依頼をいただいたのですが,このときのメモには以下のように書いています。
ネット上の記事のいくつかは,どうもCreative Commonsの「Creative」という単語に引きずられて何か創造的な活動に付与されるライセンスといった誤解があるように思えます。もちろんそういう方面で採用されればプロモーション的には結構な話だと思いますが,実際にはCCPLはもっと消費者レベルの切実な要求に応えるよう設計されている,といった感じに持っていきたいです。
偉そうですねぇ,私。今にして思えばこんな生意気な内容を承諾していただいた江坂編集長の寛容さにはひたすら感謝です。この場を借りて改めて御礼申し上げます。
もうひとつ今回の依頼が私にとってラッキーだったのは,他の執筆者の方々が社会的にも信用のある堅気(!)の方々だったことです。そこで場末のやくざなプログラマである私は同特集において「色物(9)」に徹することができたのです。とはいえ,本人はいたって大真面目な内容のつもりです。なにせこれまで論文もどきや技術文書のような様式でしか書いてこなかったのですから(自サイト(10)で書いている戯れ言は別ですよ),どれだけ悩みながら書いたか想像してみてください。
私の日記(11)を読んだ方はご存知かもしれませんが,実は執筆依頼を受けた直前に大学時代の先輩でもあるMag.さん(12)が亡くなられまして,『「クリエイティブ・コモンズ」は誰のもの?』では当時の思い入れがたっぷり入った内容になっています。
DTMをやっておられる方なら「MIDI Espressivo」というツールをご存知かもしれません。あるいは,画像関係のツールに詳しい方なら「PickPix」の方が馴染みがあるかもしれません。Mag.さんは特にMIDI関連のツールにおいてユニークな作品をいくつか公開されていて,「MIDI Espressivo」(MIDIのレタッチソフト)の他にも以下のようなツールを公開しておられます。
中でもマンデルブロ集合などのフラクタル図形を利用した自動作曲ソフト「Chaos von Eschenbach」は秀逸で,日頃音楽には縁遠い私でも一時病みつきになるほど「ハマる」ツールでした(13)。
このようなツールに囲まれていると,「音楽」は「聴く(listen)」ものというよりは「楽しむ(play)」ものという感覚が強くなります。これはもしかしたらクリエイターの方々がコンテンツに対して行うものとは異なるのかもしれません。しかし,私達「消費者」を「単に消費(listen)するだけの存在」として規制していた「コード」は既に崩れ去っていると,私達自身が気づかなければならない時期にきていることは確かです(14)。
私は法の専門家ではありませんし,クリエイターというわけでもありません。しかし,与えられたコンテンツをただ消費するだけの存在でもないのです。私がこのような位置に立てるのも,Mag.さん等が公開してくださる優れたツールがあり,基盤としてのインターネットが存在するからこそであると思います。
私の拙文はこのような方々からいただいた「恩恵」の上に成り立っています。改めてこの場で御礼を申し上げたいと思います。そして,私ような出来の悪い後輩を相手にいろいろ遊んで(play)くださったMag.さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
特集「日本の「クリエイティブ・コモンズ」の可能性 ── 創造的な著作物の共有地を広げよう」の後,CC/CCPL周辺は何か変わったでしょうか。
本家アメリカではCCの代表的な活動として「Founders' Copyright」(アメリカ建国時代の著作権)があります。これは著作権者に対して権利の行使期間をアメリカ建国時代の14年に制限し,以降の権利を放棄するよう求めていくキャンペーンです。このキャンペーンについてはいくつかの企業が賛同を表明し実際に14年以上経ったコンテンツについてはパブリック・ドメインまたはCCPLを設定しています。また最近iCommons絡みで注目のイギリスでは,BBCが自社の番組アーカイブ「BBC Creative Archive」にCCPLを設定するという報道もあります(15)。
日本では(何とか日本版CCPLの公開まではこぎつけましたが)海外のような既存のコンテンツホルダーと連携する動きは,2004年の半分以上を経過した現時点においてもないようです。一応NHKが過去の番組アーカイブを公開していますが,施設へ出向いての「視聴」に限られていて,とても「公開」とか「解放」などとは呼べないレベルです。
不思議なことに日本ではクリエイター,コンテンツホルダー,法専門家,消費者が各々勝手に議論している(場合によっては議論以下の)状態でお互いの接続点が皆無な印象を受けます。既存の「箱」に手を入れることなく次々と新しい「箱」を導入し,挙句に誰も使わない「空箱」が乱立するというのは日本の(特に公共事業における)お家芸ですが,CC/CCPLもそうした空箱のひとつ(16)になってしまっている(今のところ)ようです。
私は,2003年末の特集「日本の「クリエイティブ・コモンズ」の可能性 ── 創造的な著作物の共有地を広げよう」および翌年にリリースされた日本版CCPLを以ってCCPLについて考えるフェーズは終ったと考えてます。(法的な整合性については今後も検証されていくと思いますが)
CCPLは法的な厳密性を追求した「模範解答」のひとつだと思います。法の専門家の方々を中心に「自由なライセンス」についてこのような「模範解答」が示されたことは大変に意義があり,その過程における議論も尊重すべきであると思います。しかし,だからといって利用する私達の側は必ずしもCCPLに縛られる必要はありません。重要なことは私達がコンテンツを安心して利用(play)できる「Creative Commons(創造性の共有地)(17)」を確保することなのです。
「創造性の共有地」を確保するために私達「消費者(player)」ができることはあるでしょうか。それを考えるには,まず私達がどのように著作権および著作権法にコミットしていくかということを議論していく必要があります。著作権はクリエイター(著作権者)にも「消費者(player)」にも必要な権利であり,両者のバランスをとる著作権法をいかにチューニングしていくかが肝要である,と「消費者(player)」自身が気づく必要があります。
あるコンテンツは必ず特定の「誰か」に帰属する,という社会的認識である限り,社会人(社会的責任を負うべき人)である私達は「それ」に従う必要があります。しかし一方で,コンテンツを構成する創造性とか表現といったものは最終的に「誰か」が所有すべきものではないことも真実です。なぜなら創造性や表現は人と人との関係の中で生まれるものであり,「誰か」に占有された時点で「次の創造」は失われてしまうからです。
2004年の日本では2つの大きな出来事がありました。そのうちのひとつが「Winny開発者の逮捕・起訴(18)」です。Winnyが周囲に与えたインパクトは多岐に渡るため,その全てを語るのは難しいですが,このテキストでひとつ挙げるとするなら「コンテンツの放流」問題でしょう。
「放流」という表現は高木浩光さんがご自身のWeblogで使われたのが最初(19)だと思います。WinnyはP2P型のファイル交換ツールおよびシステムですが,Winny同士の通信が暗号化される上にノードごとにキャッシュを作っていくため,システム上で流通するファイルのトラフィック解析が非常に難しい(20)のが特徴です。また検索機能も強力なので,一度Winny上に乗ったファイルは瞬く間に全体に拡散してしまう可能性があります。このような複製・配布スタイルを指して「放流」と呼んでいるわけです。もちろんWinny上に「放流」されたファイルはWinnyの外,つまりインターネット全体に拡散してしまう可能性もあります。つまりファイル形式で収容可能なコンテンツであれば,Winnyのような「ファイル放流システム」を介して,簡単にネット上にばら撒くことができるのです。
Winnyが問題視された理由のひとつは,著作権者の許可を得ないいわゆる「違法コンテンツ」が大量に流通していた(している?)ことでした。また,マスコミ等の報道によると,Winnyの開発者自身が掲示板にて
「そろそろ匿名性を実現できるファイル共有ソフトが出てきて現在の著作権に関する概念を変えざるを得なくなるはず。自分でその流れを後押ししてみようってところでしょうか」
と語ったとされており,この点も裁判上での印象を悪くしているようです。私はWinny開発者が語ったとされるこの言葉が(本当にWinny開発者の発言であるかどうかに関わらず)「違法コンテンツ」を放流するユーザ達にとって免罪符になっているのではないかと危惧します。
そうであるならWinnyはシステムとしては完全に失敗作(策)であると言わざるを得ません。「違法コンテンツの大規模な放流」という事実が逆に「著作権者によるコンテンツの囲い込みと管理の強化」への動きを加速させてしまう恐れがあるからです。
またWinnyは一種のコンテンツ・ロンダリング・システムであるとみなすこともできます。流通経路を隠蔽してしまうことでコンテンツから著作権者を切り離そうとしているのです。しかし実際には,日本で「誰のものでもないコンテンツ」の存在が認められない限りロンダリングは成功しません。最終的にどのような手段であれ,コンテンツと著作権者は必ず関連付けられ,ロンダリングされたコンテンツには「違法コンテンツ」という取れない「染み」が付着してしまうのです。
コンテンツを著作権者の許可なく複製・配布することが違法である限り私達はそれに従うべきです。著作権法に修正すべき点があるなら,コンテンツ・ロンダリングではなく,もっと別のレベルで議論されるべきでしょう。「コンテンツの自由な流通」を求めて起こした行動が結果的に「コンテンツの管理強化」を後押ししてしまう。こんなことも起こり得るのです。私達「消費者(player)」には事態を読み解く「リテラシー」とコントロールするための「戦略」が今まで以上に要求されています。
2004年の日本で起きたもうひとつの出来事,それが著作権法改正案の中の「輸入権」をめぐる顛末です。
輸入権の問題は「日本販売禁止レコードの還流防止措置」と呼ばれていて,海外で生産された(邦楽タイトルを含む)安価なレコードが日本に逆輸入されると同じタイトルでも国内盤と海外盤で価格差が生じるため,「海外でライセンス生産された邦楽レコードについて、国内での販売を目的として輸入する行為は、権利者の利益が不当に害される場合に限り著作権侵害とみなす」というものです(21)。しかも邦楽タイトルのみならず全ての海外盤レコードが対象になるかもしれないということで一部で大騒ぎになりました(22)。
仮に「国内盤と海外盤のレコード価格の差がレコード売上全体に影響している」ことが事実だとしても,明らかにこれは著作権の問題ではありません。しかし実際にはこの輸入権を含む著作権法改正案は国会を通過してしまいました。私は今回の顛末について以下の問題があると思っています。
日本の国会では一度審議が開始された法案を撤回させるのはほとんど不可能だと言われています。したがって法案を撤回させたいなら審議が始まる前に手を打つ必要があります。また審議が始まって法案撤回が難しくなったのなら法案修正を求めるなどのいわゆる「国会戦術」が重要になってきます。しかし実際には,著作権法の改正はほぼ毎年のペースで行われているのにもかかわらず,いつまでたっても国会戦術が稚拙であるという印象を受けます。これでは著作権関連の法案について「国会」は無能・無力であると言わざるを得ません。
国会戦術を改善したいのなら各分野の専門家たちによる国会議員へのアピールが重要であると思います。それは,あるときには公開文書の提出だったり,別のあるときには議員さんへの直接的な「ロビー活動」だったりするかもしれません。1万人規模のデモンストレーションでも国会は動きませんが,ひとりの専門家による指摘が国会を動かす可能性はあると思います。(もちろん簡単ではないですが)
もうひとつの問題として消費者の無関心を挙げました。ネット上で著作権関連の話題のみ抽出して追っていくと非常に関心の高い話題のように感じますが,実際にはほとんどの消費者は関心を示していません。それどころか今年の夏にこのような法案が通過したことすら知らない人が圧倒的ではないでしょうか。
これにはレコード業界側の戦略の上手さがあると思います。今回の問題を「輸出入の不公平」の問題として議論していればこのような顛末にはならなかったはずです。今回の輸入権の問題に限らず,単なる商取引上のトラブルを著作権を含む「知的財産権」の問題として無理やり置き換えて論じようとするケースが増えてきています。無理やり置き換えようとすればどうしてもそこに歪みが生じます。しかし,どういうわけか日本人の多くは「IT」とか「知的財産権」の問題については腰が引けてしまうようです。その結果,誰もその歪みに気づかず見過ごしてしまうのです。
ここでもやはり重要なのは事態を読み解く「リテラシー」です。確かに「知的財産権」の問題にはややこしいものもあります。ややこしいとされる問題に腰が引けてしまうのは無理もないと思います。しかし「ややこしい」とされる問題のいくつかは,実は「知的財産権」の問題ではない場合もあるのです。
「知的財産権」という「言葉(method)」を盾にして私達の創造性や表現を生み出す「消費(play)」活動は著しく制限されようとしています。まずこの切迫した現実に気づいてください。そして目を凝らし耳を澄まして事態を読み解いてください。何か大事なことを話していそうな人を見かけたら,その人となりや纏っている権威を見るのではなく,その「言葉」に注意を向けてください。そうすれば自ずとやるべきことが見えてきます。
「クリエイティブ・コモンズ」はレッシグ教授や他のエラい方々のものではなく,私達「消費者(player)」のために用意された「創造性の共有地」であり,この現実に立ち向かうための強力な「言葉(method)」なのです。
世の中はそう単純じゃないけれど,思ったほどややこしくもないはずです。それでは,また。