『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』を読む
季節はすっかり夏になりクールビズでも暑苦しい今日この頃,皆様いかがお過ごしでしょうか。 私は利き手の左手首を痛めてしまい不自由な生活を強いられています。 1週間くらいパソコンのキーボードに触らず,穏やかな生活をしていれば治ると分かっているのですが,仕事柄それは無理というもの。 困ったものです。
さて『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』,ようやく読み終わりましたよ。 決して読みにくい内容ではないのだが(むしろ読みやすい),上述のように難儀な身体状態なので余計に読むのに時間がかかったり。
『クリエイティブ・コモンズ』以来,この手の良い本が出てこないなぁと思っていたが,ようやく出てきた感じである。 これからは『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』をベースに議論を行なってもいいんじゃないかな。 そのくらい「いい感じ」の本である。 一部豪快な間違いがあったが(CC ライセンスの「継承」と「改変禁止」をとっ散らかるという派手なミス),最新の PDF 版では修正されているので,まだの方は是非ダウンロードを。
そう,この本の特徴のひとつは書籍自体が by-nc-sa で提供されていること。 そして同じライセンスで PDF 版も提供されていること。 この PDF 版が素晴らしい出来で,プロテクトがほとんど外された状態で提供されている。 昔,ある本が CC ライセンス(by-nc-nd だったかな)を付けてリリースされ,それをスキャン&OCRしたものを公開しようとした猛者がいたが,誤変換だらけでまるでダメダメだったという話があったが,『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』ではそんな事しなくても最初から PDF が用意されているし,しかも紙の本より正確な内容である(笑)
これは本の内容を抜き出して議論したい時などに非常に都合がよい。 厳密な引用の作法とか気にしなくても良い。 PDF から好きな部分を抜き書きして議論を始めればいいのだ。 私は Evernote に気になる文章を PDF からコピペしながら読んでいた。 あとで読み返す際に,このコピペがしおり替わりに機能するのである。
ついでに苦言をふたつ。 まず... 横書きにしようや。 アルファベットの単語が混じる文章で縦書きは果てしなく読みにくい。 縦書きにするためにわざとカタカナに書き下しているのではと思しき箇所もある。 英単語はカタカナに変換された瞬間に意味を喪失する。 よほど定着した単語でない限り英単語のままで表記すべきだ。 もうひとつは... 帯に推薦文載せるの止めようや。 下品。 そりゃあ著者の方は推薦文もらって嬉しいだろうし,出版社も書籍にハクが付くと思ってるのかもしれないが,この手の権威主義的マーケティングは反吐が出る。 どうせ帯に書くならもう少し気の利いたキャッチコピーとか考えればいいのに。 さもなきゃ帯なんか付けるな!
さて本題。 『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』は「ガイドブック」としては凄くよくできてると思う。 が,細かい部分では首をひねりたくなる部分もある。
たとえば,私に分かる範囲の話では「ソフトウェアの著作権」の話がある。 そもそもプログラムコードには著作権などなかった。 プログラムコードに著作権がついたのはコンピュータができたずっと後の話である。 個人的なイメージではプログラムコードは「表現」足り得ない。 むしろそれは「意匠」と呼ぶべきようなものだろう。 その意匠を表現にすり替えられてしまっているところに問題があるように思うのだ。 最近の例としては Android をめぐる Oracle 対 Google の裁判がある。
- AndroidをめぐるOracle対Google裁判を振り返る(前編)~ Oracleが主張した特許侵害は認められず - Publickey
- AndroidをめぐるOracle対Google裁判を振り返る(後編)~ 残る課題はAPI著作権と9行のコード - Publickey
けっこう泥沼になるのかと思いきや, Oracle の主張する7件の特許のうち5件は無効,残りの2件についても「特許侵害は認められない」というちゃぶ台返し(笑) そこで焦点が著作権に移ってきたのだが,ここで Oracle が主張するのが「API の著作権」だ。 もし「API の著作権」が認められることになるとソフトウェア業界はかなり面倒な事になる。 しかしそもそも API はみんながそれを利用することで価値が生まれる類のものである。 上述の話で言うなら API に意匠性はないし意匠性を主張すべきものではないのだ。 しかしソフトウェアコードが表現であるなら API に著作物性を認められてもおかしくはないのである。
というわけで,ソフトウェアの著作権は他の著作物と同列に比較するのは危険だと思う。
とはいえ現実には,ソフトウェアであれ他の著作物であれ,著作権に縛られてる。 そこが「フリーカルチャー」の主張のひとつつだ。
「しかし、著作権とはそれ自体が自己完結できるシステムではありません。 著作権が「どのように創造活動の結果が取り扱われるべきか」というルールを示しているとすれば、実際に「どのように創造活動が行なわれるのか」ということは技術的な問題です。
その意味で著作権とは、作品を記録し、伝達し、共有するために利用される技術の本質に依存しているといえます。 そして端的にいえば、今日の著作権問題とは、現代の著作権が想定している技術と、実際に私たちが手にしている技術の間の乖離に起因しているのです。」 (『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』 p.11-12)
いや,縛られているのは著作物ではなく私たちの「活動」だろう。 著作物は,人々がそれに向かって何か活動することで「価値」を獲得する。 「フリーカルチャー」はそうした制限を回避し,「自由」な活動を促すものだ。 そのために「フリーカルチャー・ライセンス」および「フリーカルチャー作品」を定義している。
フリーカルチャー・ライセンスの定義:
- 作品を利用し、上演する自由
- 作品を習作し、その情報を応用する自由
- 複製を頒布する自由
- 派生作品を頒布する自由
フリーカルチャー作品の定義:
- ソースデータの公開
- 自由なファイル形式の使用
- 技術的な制限の禁止
- 追加の制限やその他の制約の禁止
「フリーカルチャー」について考える際は,この定義と照らしあわせて議論すべきだろう。
『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』には「CC ライセンス・ケーススタディ集」として実に豊富な事例が載っている。 買おうかどうか悩んでいる方は,本の真中付近(そこだけ紙の色が違ってる)にあるケーススタディ集をパラパラと立ち読みしてみることをオススメする。 私が CC についてあれこれ書き散らしていたのは2003-2004年くらいだが,あれから比べるとなんと多様なサービスが登場しているか。 私は「場」を支えるのは統制ではなく多様性だと思ってるので,今の状況はわくわくする。
それにしても白田秀彰さんの予言は見事に的中したね。 日本で CC ライセンスのまぁ根付かないことといったら。 個人的には「ニコニ・コモンズ」が CC ライセンス(というより「ライセンス」という考え方)を嫌ったのが決定的じゃないのかなぁ。 日本のサービスの特徴って盆栽か箱庭のような “Walled Garden” の構築・運営にばかり熱心で,人もモノも外に出て行きにくいところだろう。 アーキテクチャに(外部との)共有の概念がないから,外に持ち出すためにはデッドコピーしか方法がなくなる。
まぁでも一方で「日本のサービス」という括りに意味がなくなってきているのも確か。 面白い遊びはたいてい海の向こうからやってくるけど,日本人が使うことについて障壁がなくなりつつある。 最近はそれでもいいんじゃないかなぁ,と思い始めている。 くだらない法律でがんじがらめにされた日本製品なんか要らないでしょ。
まぁともかく,そういうわけで「フリーカルチャー」については今後も追いかけていく予定である。 昨年はビンボーのずんどこだったので寄付もできなかったが,今年は(今年の目標通り稼げれば) CCjp にまた寄付してもいいかなぁ,と思ってる。 ある意味『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』がひとつの大きな成果だよね。 だから,その先も期待してもいいんじゃないかと思うのだ。
参考:
- クリエイティブ・コモンズ―デジタル時代の知的財産権
- ローレンス レッシグ 椙山 敬士 上村 圭介 林 紘一郎 若槻 絵美 土屋 大洋 クリエイティブコモンズジャパン
- NTT出版 2005-03
- 評価
by G-Tools , 2012/06/08