近しい人の死を縁にして

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私事で申し訳ないが,父方の本家の伯父が亡くなった。 大正15年(1926年)生まれ,御歳85歳の,まぁ大往生である。 面倒見のいい人で,なんたら協会の理事とかやっておられたりしてたらしい。 私もほんの小さい時分から本家の伯父には大変お世話になっていた。 幼児の頃,枕ひとつ背負って本家に泊りに行くため畑のあぜ道を歩いていた私の姿は,今でも近所の人や親族の間で伝説になってるらしい(今回も話題にのぼってたw)

実は亡くなる前の週に親に「今のうちに顔を見せておけ」と言われて(つまりそういうこと),見舞いに帰っていたのだ。 確かに楽観できる状態ではなかったが,意外に元気そうだったし,ちょっと安心して広島に戻ったとたんの訃報である。 本当にいきなりの急変で,間に合わなかった人も相当いたようだが,苦しむ様子もなく静かに息をひきとられたそうで,そこは救いかなと思ったりしている。

というわけで,急いで松江の実家に取って返し,通夜の前から札打ちまで参列してきた。 初七日の法要は先に済ませたが昨夜の逮夜(出雲弁では「たんや」と呼ぶ)は遠慮した。 毎度のことながら,慣れないねぇ,こういうのは。 そして,これも毎度のことながら,死者を送る儀式は実は遺された者たちのために行われる,ということを痛感する。 儀式は「死」という究極の事実を受け入れるプロセスなのだ。

母方の伯父の時は浄土教の坊さんが来て故人の「死後」について語ってくれたが,今回は浄土真宗の坊さんが来て「遺された者」である私達について語ってくれた。 曰く「近しい人の死を縁にして生きるということについて考えてみませんか」(かなりうろ覚えの意訳,ゴメンペコン)ということで,なるほどと思った。

「死後」について語ることは慰めにはなるが(無宗教である私にとっては特に)合理的ではない。 それよりも遺された私達の「残り時間」について(自分で)考えるほうがより合理的である。 どんなに「良い人」でも病気をしたり怪我をしたりする。 さらに言えば,いずれは死を免れない。 どんな人でも「死」という究極の事実を避けられない,ということを(誰かや何かのせいにすることなく)受け入れることが宗教の本来の役割なのかも知れない。 と考えるなら,現代の不寛容(ゼロ・トレランス)社会の背後には宗教の変質が(それは例えば,私達の日常から「死」が遠ざけられてしまっている,といったことも含めて)あるのかもしれない,とも思えてくるのだ。

ちうわけで,親鸞の本でも探して読んでみるかなぁ,と思ったりする今日この頃なのであった。