『自分探しが止まらない』を眺める
最初にはっきり書いておくが, 私は「自分探し」とか「自己啓発」といったキーワードに強烈なアレルギーがある。 まぁぶっちゃけて言うなら嫌いである。 よって, 以降に書くことはかなりアレな内容になると思われるのであしからず。
いや, 以前から私のアンテナ範囲でちょこちょこと言及があるのだが, 私は上述のような状態なので全くスルーしていた。 が, あるマイミクの方が面白い書評を書いておられたので, 流し読む感じなら読めるかなぁ, と思って買ってみた。 個人的には 『秘密結社の世界史』 みたいなノリを期待していたのだが, だいぶ違うようである。
なんで私が「自分探し」とか「自己啓発」といったキーワードがダメなのかというと, まさにそういう言葉が氾濫する環境で学生時代を過ごしたからだ。 私くらいの年代の人だと1970年代にオカルトブームを, そして1980年代にカルトブームを経験している筈である。 オカルトブームとカルトブームは時間的にも思想的にも連接していて, その根底には世紀末思想がある。 世紀末思想については 『自分探しが止まらない』 にも言及があるが, ようするに「セカイをリセットする」ことである。 その不安と期待が様々なカルトを呼び寄せる。 そして当時の(今でも?)カルトに共通する布教手段が「自分探し」とか「自己啓発」といったキーワードなのである。
(余談だが, 世紀末思想の話で梅田望夫さんの著書が紹介されるとは思わなかった。 ひょっとして皆, このためだけに 『自分探しが止まらない』 を買ったのか? そりゃあ随分釣られたもんだねぇ)
学生時代の私にとってはそういったものがめちゃめちゃリアルで, 「○○セミナーはどこそこのカルトとつながっている」とかいった話は日常会話のひとつだった。 まぁぶっちゃけて言うなら「自己啓発セミナーなんか行く奴はバカ」だったのである。 カルトの噂のある場所にわざわざ出向くなんてよっぽどのうっかりものか本当の馬鹿である。 で, 色々あって世紀を跨いで分かったことは, (至極当たり前なんだけど)「世界はリセットなんかされない」という事実, 「今日は昨日の続きで明日も今日の続きである」という事実だったわけだ。 同じことは19世紀末にも起こっていてるんだけど, 結局のところ私たちは歴史から何も学ばなかったことになる。
まぁ本の中身について書くのはあまりに馬鹿らしいので割愛するとして, 私に言わせれば「本当の自分」なんてものは存在しない。 なぜなら「自分」というものは「他者」との関わりによって形成されるもので, その構造は, もの凄く単純に言うなら, ラッキョウの皮みたいなものだからだ。 「本当の自分」を探す行為は猿がラッキョウの皮をむくのに夢中になるのと同じ。 敢えて好意的に解釈すれば, 「他者」と関わってきた「自分」の過去への評価が「本当の自分」である。 たとえそれが否認したくなるようなものであっても。 そしてそれを否認したとしても, その行動こそが「本当の自分」の一部として刻まれるのである。 「本当の自分」は常に過去にあるのであり, 現在にも未来にも存在しないのだ。
そんなことは思春期が終わる段階で気付けよ! というのが読後の感想なのだが, まぁどうでもいいや。
ちなみにこの本を読んだなら, 併せて斎藤環さんの 『思春期ポストモダン』を読むことを強くお薦めする。 『思春期ポストモダン』 は「ひきこもり」について多くのページを割いていて, 『自分探しが止まらない』 とはある意味対称(?)になっている。 『思春期ポストモダン』 で言う「自分探し系」モードについて考えるには 『自分探しが止まらない』 はちょうどいい素材かもしれない。