国民は国の「子ども」ではない

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またフィルタリング周りが色々ときな臭い。

フィルタリングやレーティングの問題はいつだって古くて新しい問題。 ことあるごとに提起され, フルボッコにされた挙句, いずこかへ潜伏してしまう, 不定周期の脈動変光星のようなものだ。

フィルタリングには2つの切り口がある。 ひとつはセキュリティ管理上の切り口で, もうひとつは教育上の切り口である。 セキュリティ管理上の切り口としてのフィルタリングは既に日常化している。 各種のウイルス対策ソフトや Websense のようなフィルタリングソフト等等である。

フィルタリングを教育の問題として考えた場合, 例えば「性表現や暴力・残酷表現が子どもの健全な育成に有害」という考え方がある。 でもこれは厳密には間違い。 それは親が「性表現や暴力・残酷表現」から感じる羞恥心や嫌悪感を子どもに押し付けているだけ。 ただのエゴであって教育ではない。 教育(というか躾)で大事なことのひとつは, (社会に適応するために)奔放な性行為や暴力といったものへの衝動を自らコントロールできるようになることだ。 ただ「性表現や暴力・残酷表現」に蓋をするだけでそういったことができるようになるわけがないし, 臭いものに蓋をするだけなんてのは教育の放棄である, と言っちゃってもいいだろう。

ただし, 養育・教育の過程の中で一定のフィルタリングをする必要はありうる。 WHO が1999年の総会で提案した「健康」の定義は以下のようなものらしい。

「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり, たんに病気あるいは虚弱でないことではない」

これに対して精神科医の斎藤環さんは 『思春期ポストモダン』 の中でこう書かれている。

「精神科的に問題になるとすれば、 それは精神的な意味で「良好な動的状態」とはなにか、 ということになるだろう。 この点について僕自身はこんなふうに考えている。 それは、 自由さと安定性が高いレベルで一致することだ、 と。」 (p.195)

「性表現や暴力・残酷表現」が子どもたちの目につく状態が日常的化している状況は, 精神的な意味での「健康」に悪影響を与えるかもしれない, とは誰もが懸念することだろう。 それを防ぐ意味でゾーニングやフィルタリングを行うことは意味がある。 例えば, 子どもの通学路上にあるコンビニにはエロ本を置かないとか, 電車の中刷り広告に扇情的なタイトルやヌード写真を掲載しないとかいうのもゾーニングの一種だ。

今回のフィルタリングの問題は大きく分けて2つある。 ひとつはセキュリティの問題と教育の問題がごっちゃになっていること。 もうひとつはフィルタリングを行うとして, そのコントロールを誰が握るのか, ということだ。 今の法案のままではセキュリティ対策企業(とその利権に群がる人々)が儲かるだけで, 他の誰にもベネフィットはない。

日本のような儒教国家には親子関係について独特の思想がある。 それは「孝」の概念。 親孝行の「孝」である。 日本の家族は「孝」の連鎖で構成され, 死ぬまで「孝」に支配される(あまりに日常的過ぎてそれが宗教的概念だと思わない人もいるかもしれないが)。 今回の法案はいかにも日本的な「孝」の色に染められた家父長的性格の強い内容だ。 その証拠にフィルタリングのコントロールを握っているのは国民ではない。 子どもを守ることを大儀としている筈なのに, 子どもを守る主体である保護者には何の権限もないのだ。 ケータイのフィルタリングがまだ救いなのは, (道具としてのフィルタリングについては議論の余地があるにせよ) フィルタリングのコントロールを最終的に保護者に求めている点である。 今回の法案にはそれすらない。 (子どもを守る筈の保護者がそれを成していない, という点(たとえば児童ポルノの問題もそのひとつだ)については今回は置いておく)

国民は国家の子ども(臣民)ではない。 古き良き封建時代を懐かしむために現実の「国」を脅かさないでいただきたい。