『太陽の簒奪者』とかいろいろ
『スノウ・クラッシュ』(上)(下)と『太陽の簒奪者』を読了。 SF と呼ばれるものを読むのは久しぶり。 かなり楽しめた。 以下, 感想めいたものを書くが, 本の中身には全く関係のない内容なので, 書評とか感想文とか期待してる人はあしからず。 他所のサイトをあたってください。 こちらは思いっきりメタメタな内容で行かさせてもらいます。
「SF とはセンス・オブ・ワンダーだ」 とはよく言われることだが, 私はこれに懐疑的だ。 確かに優れた作品は面白いしビックリするし不思議にも見えるかもしれない。 今回読んだ2作品は間違いなくそうだ (谷川流さんが『太陽の簒奪者』のあとがきを書いておられるが「全く以ってそのとおり」という感じ)。 しかし作品に対するそういった感情に対して SF という道具立てが必要条件であるとも十分条件であるとも思えない。
思い返してみれば, 子供の頃読んだ(子供向けにアレンジされた) SF 作品の方がよっぽどドキワクがあった。 それはそこにちりばめられたギミックが面白いだけでなく, (今にして思えば)その SF 作品が既存の通念を打ち破る破壊力を持っていたからだ。 まぁぶっちゃけて言うなら, 私は SF によって蒙を啓かれてしまったのである。 でも私の場合, そこから SF に傾倒することはなかった。 以後, 貪るように読み始めたのは科学解説書や実験書の類である。 かろうじて例外だったのは筒井康隆さんや平井和正さんあたりの作品くらい。 それも高校を卒業するくらいまでの話 (平井和正さんの作品を SF に分類できるのかどうかは分からないけど。 まぁ私は SF 者ではないからどうでもいいや)。 一方で文学作品で深みに嵌っていくのはむしろファンタジー作品だったりする。
別に今の SF のパワーが落ちているわけではないだろう。 私は感じなかったが, 『スノウ・クラッシュ』や『太陽の簒奪者』で蒙を啓かれてしまった人もいるに違いない。 昔の子供向け SF で感じたものを今になって感じなくなってしまった理由を考えるのなら, それはもう分かりきっていて, 私のほうが変わってしまったということだ。 私はもう「パワー」そのものに魅力を感じなくなっている。
紹介した2作品には共通するものがある(私がそう思うだけだけど)。 これらの作品に対して感じたものに似たものを子供の頃に感じたことがある。 それは, はじめて科学実験書を読んだときの感覚だ。 この2作品はある意味で壮大なシミュレーション実験であるとも言える。 ある特定の環境を構築し, その中にイレギュラー因子を配置する。 これが初期状態。 あとはその因子を観測していけばいい。 因子はその「特定の環境」を知るためのプローブとして機能するわけだ。 実験書にそんな面白い実験が載っていれば試してみたくなるのが人情だろう。 そして本当にその気になっちゃった人が Second Life や Google Eath を作ったりするわけだ(笑)
しかし SF が啓蒙的な手段として機能し得るというのはなかなか象徴的だ(書き手はそれを全く意識していなかったとしても)。 それは SF というジャンルが成立した時代の影響もあるに違いないと妄想してみる。