「本」が知性や教養を象徴するという発想を止めよう

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電子書籍を「本」に含めることは、すでに国際出版社連合(International Publishing Association)や米国出版社協会(Asssociation of American Publishers)、英国出版社協会(The Publishers Association)、欧州連合などで共通理解となっています。
先進国の中で日本だけが、紙と電子を峻別することに、頑なにこだわり続けているのが実情です。統計のガラパゴス化です。
「活字離れ」論に最終決着?--電子書籍を含めれば「不読率」は激減しているより

個人的には,日本はいまだに「先進国」と言えるのかという点について疑問があるが,「紙と電子を峻別することに、頑なにこだわり続けている」というのは不思議な話。

普通に考えて、ここまでの検討から引き出せる結論は、次のようなものではないでしょうか。
  1. 「読書」の対象の一部が「電子書籍」に移行しているのに、「紙の本」だけを対象として、「読んだか、どうか」を問うている(あるいは対象が曖昧な)ために、見かけ上の「不読率」が上がっている(定義の混乱)。
  2. 「読書」の対象に電子書籍を入れれば、「不読率」は下がっている。つまり電子書籍によって、本を読む人が増えた。
  3. この傾向は、若年層になればなるほど顕著で、逆に最も本を読まないのは、70代、60代である。
  4. 【結論】電子書籍の普及をさらに進めるとともに、電子書籍のコンテンツやサービスを使いやすくして、70代、60代に電子書籍をもっと読んでもらうことが、不読率改善のカギである。
「活字離れ」論に最終決着?--電子書籍を含めれば「不読率」は激減しているより

この辺が「最終決着」だろうか。 この結果を踏まえて,こう問いかけられている。

 そもそも「活字離れ」は、なぜ問題なのでしょうか。
 それは、藤原氏も示唆するように、本が、あらゆる人間の知的活動の基盤となっているからだと思います。
 そうした基盤の中には、「きちんとした文献やデータにもとづいて議論や主張をする」という姿勢、いわば「知的誠実性(Intellectual Integrity)」も含まれるでしょう。
 こうした知的誠実性を含む、活字媒体によって連綿と培われてきた遺産を、仮に「活字文化」と呼ぶこととすれば、それが失われれば、確かに国や文化は危機に瀕すると思います。
「活字離れ」論に最終決着?--電子書籍を含めれば「不読率」は激減しているより

個人的には archive としての「活字」には意味があると思うし,今後ともなくなることはないと思う。 しかし文化としての「活字」は確実に後退している。 それは若い人を中心に「電子書籍」へ移行しているという事実が端的に語っている。

ならば! 「電子書籍のコンテンツやサービスを使いやすくして、70代、60代に電子書籍をもっと読んでもらう」のではなく,今の20代30代(あるいはより若い世代)にマッチする「活字」や「本」を超えた環境や基盤を整えていくべきだ。 (私を含め)先行世代は「やがて死にゆく身」である。 気にする必要なんかない。

「本」は活字が一般的になる前から知性や教養の象徴だった。 古代中国の破戒坊主でさえ天竺に「ありがたい」お経をとりに旅立ったりするほどだ。 しかし今や「知性」の中心は「ネットワーク」に移植されつつある。 「本」はもう「あらゆる人間の知的活動の基盤」ではないのである。

「ネットワーク」の強みは知識や経験の断片を繋ぎあわせて(「ネットワーク」の更に上位 layer である)巨大な context を形成することにある(これを社是としているのが Google なのは皆さんご存知の通り)。 しかし「ネットワーク」の弱みは記憶の永続性である(これにプライバシーの問題が絡むと更にややこしくなるのだが今は置いておく)。 「ネットワーク」はこの弱みを補うために大量の(逐語的)コピーを作る(これが(古き良きw)近代の著作権システムと conflict するのだが,これもまた別のお話)。

更に「ネットワーク」は「検閲をダメージであると解釈し,それを回避する」(John Gilmore)。 「本」ならば,それが作られる過程で何らかのフィルタリングがかかるが,「ネットワーク」はそれさえも迂回する。 結果,「スタージョンの法則」に則り,大量の「カス(crud)」が発生することになる。 でも,これが「知性」の本来の姿であり,その意味において「活字」なんて “one of them” でしかないのである。

大量のカスとそのコピーに囲まれた環境では,それ相応の「読解力(literacy)」が必要になる。 それは大量のカス(とそのコピー)から必要なもの(FACT: 科学的事実)を抽出する工学的能力であり,それらを繋ぎあわせて「文脈を創る」文芸的能力である。 それは「本」の読解力とは異なるものなのだ。

結局「活字離れ」などというのは,現代の新しい知性のあり方とそれを読み解く能力から取り残された人たちの言い分であり,コップの中で騒いでいるのに等しい。 これこそが「最終決着」なのではないだろうか。 メインボリュームはとっくに次のステージに上がってるのに,彼らはいまだ「昭和90年」を生きている。