ソーシャルメディア・ポリシーと教育

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「ソーシャルメディア・ポリシー」というものがある。 これは大手の企業などでは既に導入されているが, Twitter や Facebook といった「ソーシャルメディア」に対して企業やその従業員がどのように振る舞うかという行動指針である。 ソーシャルメディア・ポリシーについては斉藤徹さんの『ソーシャルシフト』で詳しく解説されているので,(続巻も含めて)是非読んでみることをお薦めする。

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ソーシャルシフト これからの企業にとって一番大切なこと
斉藤 徹
日本経済新聞出版社 2011-11-11
評価

BEソーシャル! ブランディング 7つの原則 欧米トップ企業の最先端ノウハウ 値段から世界が見える! (日本よりこんなに安い国、高い国) 失敗の本質 ソーシャルシフト 新しい顧客戦略の教科書 (中経出版)

これからの企業戦略は「ソーシャルメディア」を無視しては成り立たない。その最初の一歩について分かりやすく解説した本。

reviewed by Spiegel on 2014/10/30 (powered by G-Tools)

ソーシャルメディア・ポリシーは企業が立てるものだが実は個人にも当てはまる。 更にソーシャルメディア・ポリシーを考えることはネットにおけるリスク・マネジメントや情報リテラシーについて考えるきっかけにもなり,教育的な題材であるとも言える。

教育現場におけるソーシャルメディア・ポリシーとしては東京工業大学の「情報倫理とセキュリティのためのガイド」がよく出来ている。 具体的には

  • SNSは、プライベートな場ではない。
  • SNSは、他人を非難する場ではない。
  • SNSは、自分の行いを懺悔する場ではない。
  • SNSでの発言は、取り消せないものと考えよう。
  • SNS上の情報は、いずれ流出するものと考えよう。
  • SNSでの発言の匿名性は、いずれ破られるものと考えよう。
  • SNSの利用者には、善人のふりをした悪人もいることを忘れない。
  • SNSでの不用意な発言は、激しい批判にさらされることもあることを覚悟しよう。

の8つのポイントを挙げている。 更に

まず、その発言が多くの人を傷つける可能性を忘れてはなりません。立場が変われば、ものの見方は変わるのです。貴方にとって正しくても、またただ単に事実を伝えていると思っていても、他人にとっては必ずしもそうではありません。しかも背景の説明を省かれ引用された発言が一人歩きすることもあって、その内容に反発する人々から、容赦ない攻撃を受けることもあります。さらに、ことさら内容をねじ曲げて解釈し、悪意をもって攻撃する人も多数存在するのです。
情報倫理とセキュリティのためのガイドより

のようにリスクについて具遺体的な解説もあり,とても参考になる。

さて,ここからが本題。

先日,総務省が「インターネットリテラシー・マナー等向上事例集」を公表した。

これが(タイトルに反して)なかなかおもしろい内容である。 なので,今回はこの事例集を見ながらソーシャルメディア・ポリシーについて考えてみたいと思う。

「マナー」と「ルール」は違うものである

「マナー」という言葉を使うこと自体いかにも役人的な発想なのだが,実際に事例集を見てみると「江南ルール」のようにちゃんとルールとして捉えているらしき点は好感が持てる。

「マナー」は言わば(閉じた集団内での)対人儀礼であり,もっと広く言えば(集団間の)外交儀礼である。 つまり相手とのコミュニケーションを円滑に図る手段として「マナー」は存在する。 しかし「マナー」の問題点はそれ自体が目的化してしまうことにある。

ネットの変化は速い。 したがって「マナー」はあっという間に陳腐化・形骸化してしまう。 ソーシャルメディア・ポリシーを考えるなら「マナー」ではなくプロセスとしての「ルール」を考えるべきである。

ではプロセスとしての「ルール」はどのように構築すればいいのだろう。

プロセスとしての「ルール」

「ルール」はどのように設計し運用すべきか。 以下に挙げてみる。

目的を見失わない

例えば「ソーシャルメディア・ポリシー」であれば

  • ソーシャルメディア上での活動におけるリスクを軽減する
  • ソーシャルメディア上での活動で発生したトラブルをいち早く収拾する

という目的がある。 この目的を達成するための手段として「ルール」が必要なのだ,ということを忘れてはいけない。 「まずルールありき」の発想はただの儀礼であり意味が無い。

問題に優先順位をつける

目的が設定されれば,目的に対する問題点を列挙できるようになる。 ここで重要なのは,問題の解決にかけられるコストは有限であり,したがって解決すべき問題には優先順位があるということ。 ほとんど発生せず発生時の影響も小さい問題にかまける必要はない。

問題の優先順位を考えるには「リスク」の概念を導入するのが有効である。 リスクは「生起確率×脅威の大きさ」で測ることができる。 脅威の大きさを定量化するのは難しいが,問題が発生した際の被害をお金に換算することで定量的に評価する方法もある。

ただし,「リスク」による問題の序列化は直感に反する場合が多い。 リスク感覚を養うにはある程度の訓練が必要だが,日本の学校教育にはリスクについて習うカリキュラムが存在しない。 こういうときは,専門家に助力してもらうのも手である(ただし,セキュリティ専門家にしろ警察や弁護士にしろ脅威の大きさを過大に評価する傾向がある。これをマッチポンプという。ご注意を)。

合理性のないルールは排除する

問題点が分かれば,それを回避するためのルール設計は比較的簡単にできるようになる。

まず注意すべきは,合理性のないルールは排除することだ。 そのルールが何故必要なのか,合理的に説明できなければならない。 合理的に説明できない(つまり合理性のない)ルールは採用してはいけない。

守られない「ルール」はルール自体が間違っている

これ,非常に重要なポイントなのだが案外分かってない人が多い。 ルールはインセンティブを変える。 ルールが人の行動をどのように変えるか注意深く検討する必要がある。

特に設定したルールが頻繁に守られていない状況があるならば,そこには何らかの理由があるはずである。 その理由を特定し,守りやすいルールに変えていくことがルール設計のメイン作業であるといえる。

ここで気をつけなければいけないのは「どんな集団・組織にも故意にルールを破る人は必ず存在する」ということだ。 それは純然たる悪意かもしれないし,(本人にとって)止むに止まれぬ事情があったのかもしれない。 こうした例外に対しては「事後の対処」が重要になる。

事態の変化にあわせて「ルール」を変える

最初のほうで述べたように,ネットの変化は速い。 今まで合理的だったルールが事態の変化で合理性を失うことはよくある話である(もちろん逆もあり)。 また,先ほど述べたように順守の難しいルールがあれば改善しなければならない。

故にルールの運用状況を観察し,定期的にルールを見直していくことは必要な工程である。

「事前のルール」と「事後の対処」はセットで考える

「ルール」はリスクを事前に回避するために存在する。 しかし予期できない問題やリスクの小さい問題については回避できない場合もある。 その時のために「事後の対処」について検討しておくのが有用だ。 したがって,「事前のルール」と「事後の対処」はセットで考えるべき。

また「事後の対処」が上手く機能するか定期的に「避難訓練」を行うのも有用である。 大手の企業では従業員に対して抜き打ちでダミー・トラブルを発生させ,きちんと「事後の対処」ができているか確認している。

ただし,「事後の対処」は学生や学校教師レベルで考えるには難しいことが多い。 こういうときは,専門家に助力してもらうのも手である(ただし,セキュリティ専門家にしろ警察や弁護士にしろ脅威の大きさを過大に評価する傾向がある。これをマッチポンプという。ご注意を)。

もっと「事後の対処」への配慮を

以上を踏まえて事例集を見てみると,なかなか良くやっている印象である。 ルールを設定するだけではなくルールが上手く機能しているか継続的に評価しているし(熊本市立江南中学校の場合),インターネットやソーシャルメディアを「危ないから使うな!」ではなく「上手に使う」方向へ議論する姿勢(島根県隠岐の例)にも好感が持てる。 あと鎌倉女学院高等学校の取り組みのように擬似 SNS を制作して体験的に学ぶというのは面白いと思った。 制作を通じて問題への理解が深まるからだ。 この辺は(学校のみならず職場等でも)参考になるのではないだろうか。

気になる点もある。

  • 総じて「事後の対処」の検討が薄い印象。もしかしたらドキュメントから割愛されているだけかもしれないが。また,トラブルに対して「◯◯窓口」へ丸投げしているかのような例も見られる。これは(教育という観点からは)いただけない
  • 事例集の最後に「ルールのサンプル」が添付されているが,各ルールが何故必要なのか示されてない。意味を伴わないルール設計は破綻する
  • 「標語」は止めるべき(この発想がいかにもお役所的)。ネットの変化は速い。変化の速い環境に対して「標語」を作ってもすぐに陳腐化してしまう。それよりはむしろリスク感覚を磨く訓練をしたほうが有益だ

この辺が今後改善されていくのかが見ものである。

ソーシャルメディアへの嗜癖(しへき)

(この事例集だけではないのだが「インターネット中毒」なるものは存在しない。 「中毒(poisoning)」と「嗜癖(addiction; 依存症を含む)」は異なるものを指している。 たとえば「アルコール中毒」と「アルコール嗜癖(またはアルコール依存症)」は医学的に明確に意味するものが異なる。 したがってきちんと表現を分けるべきだ)

ネットや SNS に「ハマる」というのは誰しも経験があるだろう。 特に若い人ほど,新奇なものに適応性が高いがゆえに,ハマりやすいというのはあるかも知れない。

事例集では「ネット依存」について大きく取り上げられているが,個人的には「ハマる」程度であれば何ら問題はないと思っている。 「ネット依存」「SNS 依存」の何が問題かというと,「ハマり」が講じ過ぎて日常生活に支障をきたす場合があるからだ。 こういった問題を総じて「嗜癖問題」という。 嗜癖とはつまり「自己破壊的同調」あるいは「環境への過剰適応」のことで,適応であるがゆえに取り除くのが難しい。

アルコール依存やその他の薬物依存(物質嗜癖と総称する場合もある)は比較的分かりやすいし治療もしやすい。 最近はありがたいことにアルコール依存やタバコ依存の医療専門科もあったりする。 ただしアルコール依存やタバコ依存であっても「お酒を飲む」行為や「タバコを吸う」行為そのものに嗜癖している場合は簡単ではない。 ヘミングウェイの名言(迷言?)「禁煙なんて簡単。俺はもう何回もしている」(←うろ覚え,ゴメンペコン)は「過程嗜癖」の典型といえる。 (過程嗜癖の例としては「仕事依存症」「ギャンブル依存症」「買い物依存症」などがある)

そして,これら以上に厄介なのが人間関係への嗜癖(関係嗜癖)である。 というか,物質嗜癖や過程嗜癖のベースに関係嗜癖があると考えられている。 私は専門家ではないので断言できないけど,いわゆる「ネット依存」は過程嗜癖の一種だと思われるが,その根底部分に何らかの関係嗜癖が潜んでいる可能性が高い。

したがって「ネット依存」(の症状)を禁止するルールを設定するだけではあまり抑止力にならない。 依存症(dependence)と言われるほどハマってる人は「いけないと思いつつ,やってしまう」のだから。

この辺はもう学校や学生の手には余るかもしれない。 「ネット依存」への対応はむしろ「事後の対処」に属するものだ。 また,依存症と言われるほどにはハマりきっていないのであれば「何故それにハマってしまうのか」について自問・自己分析していくことで道が開けるかもしれない(認知は回復への第1歩)。

参考:

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嗜癖する人間関係―親密になるのが怖い
アン・ウィルソン シェフ Anne Wilson Schaef
誠信書房 1999-01
評価

人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション 共依存かもしれない―他人やモノで自分を満たそうとする人たち (10代のセルフケア) 何かを心配しているときにそっと開く本 (ワニ文庫) 愛しすぎる女たち (中公文庫) アダルトチルドレンと共依存

終盤になると「霊性」という単語が頻出するけど,日本のいわゆる「スピリチュアル」や類似のカルトの言説とは意味が異なるのでご注意を。

reviewed by Spiegel on 2014/10/30 (powered by G-Tools)

「正しい」ことが正しいとは限らない

正しいと思うこと(それが社会的にも正しいものでも)を公に述べても,(批判ならともかく)誹謗中傷を受ける可能性は常にありうる。

また言論に対してではなく特定の人物そのものへの攻撃も見られるようになっている。

こういったリスクはルールでは回避しづらいし,ある程度ネットを経験しないとピンと来ない部分もある。 ルール化しにくい問題については無理にルール化せず,情報共有を頻繁に行うことで回避しやすくしていくのもありかもしれない。

これは「道徳」ではない

ソーシャルメディア・ポリシーは明確にリスク・マネジメントである。 したがって,これを「道徳」の問題に回収してはいけない。 それは絶対に絶対である。

事例集ではこれを道徳として取り上げているところも見られるが,マナーや道徳はある程度固定的な社会関係の中でなら成立しうるが,変化の速いネットではとても間に合わない。

(この意見については反論があることを承知で言うが(つか知り合いに明確に反対意見の人がいるので),学校教育に「道徳」は不要だと思う。 倫理感や道徳観念は大人も交えた一般社会の中で醸成されるものであって,社会から隔絶された密着閉鎖型の「学校」でそれを教科としてやっても弊害のほうが大きい(ちなみに「躾」は子どもに対する「条件付け」であり,道徳以下の問題。「道徳」と「躾」の区別がつかない人は多い)。 たとえば「水からの伝言」や「江戸しぐさ」や「ソーラン節」などはその弊害の典型例であるといえる。 どうしてもやりたいのなら,もっと学校そのものが「外部」の一般社会へ積極的に関わるような形に転換(paradigm shift)する必要がある。 が,今の学校や多くの学校教師にそのスキルがあるとは思えない)