VOCALOID の意匠性

no extension

Vox がニコニコ動画に対応するようになって, アカウントを持っていない私でもようやく VOCALOID を使った作品を視聴できるようになったのだが (といってもそんなに積極的に視聴しているわけではないが), 最近は「ぼかりす」っちうのが話題らしい。

これを聴いて連想したのは, 今は亡きMag.さんによる MIDI レタッチソフト 「MIDI Espressivo」 だったり。

MIDI (Musical Instrument Digital Interface)ってのは, もの凄く端折って説明すると, 楽器の演奏データを指すもので, 音そのもののデータではない(私は DTM は詳しくないので違ってたらゴメン)。 もっと抽象的に言うなら, MIDI とは実演そのものを数値化したものと言える。 「MIDI Espressivo」 の面白さは演奏(実演)テクニックを「エフェクト」としてライブラリ(部品)化できるところにある。 「ぼかりす」の技術の詳細はまだ明らかになっていないが, コンセプトとしては 「MIDI Espressivo」 と同等のものを感じるのだが, どうだろう。

「ぼかりす」については私の観測範囲内で以下の文章がよく reblog されているようだ。 個人的にも面白いと思うので, 改めて以下に引用してみる。

「ぼかりすは自然すぎて、 VOCALOIDとしてのキャラクター性をスポイルしている気がするんですよね。 無論、 リアルさを求めるなら正しい方向ではあると思いますが、 それなら人間が歌えば良いわけですし。 オリジナルでもカバーでも、 "VOCALOIDの曲"を作るなら、 求められるのは、 曲のコンセプトとVOCALOIDのキャラクター性を基礎においた、 機械っぽさと人間っぽさのバランスの取り方なんだと思います。」

「VOCALOID としてのキャラクター性」とは何かと考えると, それは意匠性評価の偏りである, と言い換えることができるのではないだろうか。

VOCALOID といえども所詮楽器であり, 実演に関して10人いれば10色の意匠がありうる。 しかし実際には, 各 VOCALOID には「キャラクター性」が付与されており, オーディエンスの評価は「キャラクタに沿っているか」で決まる(だから「調教」と呼ばれるんだろうけど)。 キャラクタに沿った実演でなければ, どんなに上手くても「それなら人間が歌えば良い」ということにしかならない。

そして VOCALOID 実演に関する意匠性評価のこうした偏りは「実演の部品化」を生みやすい。 上述の引用は「ぼかりす」に対するネガティブな意見に見えるが, そのネガティブな意見の背景にあるものが「ぼかりす」を生み出す土壌にもなっている。

Tumblr では散々書いてるけど, 私は VOCALOID が最終的にもたらすものは「実演の無意味化」だと思っている。 今はまだ VOCALOID は楽器の一種に過ぎず, その実演には少なからず実演者の意匠性が入り込む。 しかし「実演の部品化」が進めば意匠性の入り込む余地は少なくなっていく。 例えば, 作詞を人工無脳が行い, 作曲を(「Chaos von Eschenbach」のような)自動作曲ソフトが行い, それを VOCALOID に唄わせたとしたら, その作品および実演は「誰」に帰属するのだろう。

ってなことを考えながら内田美奈子さんの『BOOM TOWN』にある数理紫生(かずりしせい)の話を読み返してたり。