『ウェブ時代をゆく』を読む?

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なんというか, 序章から終章まで頭の上にクエスチョンマーク点きっぱなしで読了。 っていうか, 1回挫折してるし。 Vox の記事でも書いてるけど, 「メイキング・オブ・『ウェブ時代をゆく』」によると,

「本を読むには二つのタイプがあるということに気づきました。 一つ目のタイプは「頭で読む人」。 二つ目のタイプは「心で読む人」。」

なんだそうで, どうやら私は「頭で読む人」らしい。 まっ, たとえそうでないとしても, この本がターゲットとしている読者層に私が含まれていないことは序章を読み始めた時点で明らかだったので, モードを切り替えて, 徹頭徹尾「頭で読む」ことにした。 とはいえ, 最初に書いたように, この本に関しては最初から最後まで違和感アリアリのまま読み終えてしまい, 書評はおろか(元々私に書評を書く器量はないが)読書感想文すら書けそうもないので, この違和感を列挙することで読書録とする。(あと派生して考えたこともいくつか)

今回は 『ウェブ時代をゆく』 を読みながら頭に浮かんだことを Google Notebook に書き留めていった(ただし非公開)のだが, この本に関する違和感は以下の4つに集約できそうである。

  1. 「好きを貫く」という強度への傾倒
  2. 「働く」という言葉の曖昧さ
  3. 「オープンソース・コミュニティ」と「企業」との比較の仕方
  4. 「島宇宙」のニュアンス

とりあえず, ひとつずついこう。

まずひとつめ。 この本では「リーナス・トーバルズ」や「まつもとゆきひろ」等のオープンソースの第一線で活躍される人たちを「好きを貫く」のモデルケースとして挙げているが, じゃあこれを読んで「自分も「まつもとゆきひろ」(以上)になろう」とか考える人がどのくらいいるのか。 いや, 「自分も「まつもとゆきひろ」(以上)になろう」 と思える人はそれでいいのよ。 そういう人はきっと 『ウェブ時代をゆく』 を読むまでもなく高速道路もその先も自力で乗りこなせる筈である。 でも, そんな人はおそらく 1% もいないよね。 残りの殆どは, 彼等の創るものにコミットしたいとは思うかもしれないけど, 自身がとって代ろうなんて果たして思うのだろうか。 と考えると, 「好きを貫く」という強度への傾倒はあまり現実的ではないのではないかと考えてしまうのだ。

この点に関して私はある本にとても共感する。 『ぼくはいつも星空を眺めていた』 という本だ。 一部引用しておこう。

「大人になってからは、 空を見上げたいという誘惑をひたすら抑えこんできた。 そのかわり、 正面ばかり見てきた。 だんだん下を向いてしまうのはごく自然の成り行きで、 視線の向かう先ははっきりしていた ―― 仕事、家族、子どもたち、住宅ローン。 ささやかな人生の軌道は偉大な天体の動きと同じくらいドラマティックで、 同じ法則があてはまる、 ということがわかった。」(『ぼくはいつも星空を眺めていた』 p.6)
「その晩、 わたしはふたりの娘といっしょに芝生に寝ころがり、 星座を指さしてすごした。 なんとも奇妙なことに、 星座のかたちや名前をまだおぼえていた。 あの晩、 ふぞろいな天の川をじっと見つめていると、 ひとつの考えが押し寄せてきた。 わたしがいまだに放棄していない考え。 われわれはみな宇宙の一員なのだ。」(『ぼくはいつも星空を眺めていた』 p.7)

そしてこの筆者, チャールズ・レアード・カリアさんは自分の手で天体観測所を建ててしまう。 そこにあるのは「好きを貫く」ことではなく, 「好き」でいることを忘れないこと, 「好き」でいることを諦めないことである。

ふたつめ。 『ウェブ時代をゆく』 では「働く」という言葉を(意図的としか思えないほど)多様なニュアンスを混ぜ合わせて使っている。 この本をよく読むと, 「働く」について少なくとも3つのニュアンスが混交している。 ヒントはハンナ・アーレント。 ハンナ・アーレントさんの本が手元にないので Wikipedia の記事を参考にして話を進める。 この記事によると, 彼女は「活動的生活」を以下の3つに分けている。

  • labor (労働): 人間のメタボリズムを反映した行為であり、生存と繁殖という生物的リズムにしたがって行われる循環的行為
  • work (仕事): 職人的な制作活動に象徴される目的-手段的行為をさす
  • action (活動): 人間が関係の網の目の中で行う行為であり、他者関係的なもの

私の個人的な印象で申し訳ないが, これからの「活動的生活」は「labor」と「action」に引き裂かれていくように思える。 「action」というのは, 先ほども紹介した, 「リーナス・トーバルズ」や「まつもとゆきひろ」等をモデルケースとする生き方だ。 一方の「labor」については, 以前紹介した 『下流志向』 に出てくるような生き方, 「労働からの逃走」により「labor」を対価に金銭を得る生き方だ (ここで「労働からの逃走」という言葉を使うのはややこしいが, おそらくここで言う「労働」は「labor」を意味するものではなく「work」や「action」を指すものと思われる)。 「「labor」を対価に金銭を得る」という意味で(等価交換), 「labor」はもはや消費行動と同義である。 というのが 『下流志向』 の主張のひとつだ。 例えば, 佐々木俊尚さんの「プラットフォームの力はますます強化されていく」では, アマゾンの裏方として以下の事例を紹介している。

「アマゾンは巨大な倉庫を持っていて、 安価な労働力を使うことによって膨大な数の在庫を維持することに成功しているということだ。 これは「潜入ルポ アマゾン・ドット・コムの光と影??躍進するIT企業・階層化する労働現場」(横田増生著、情報センター出版局)という書籍に詳しい。 この本によると、 アマゾンジャパンが千葉県市川市に持っている物流センターでは、 時給900円のアルバイトの若者たちが体育館のような広大なセンターの中を走り回り、 「1分3冊」という過酷なノルマを課されてストックヤードから本を拾い上げ、 荷出し場所にまで運ぶという労働を行っているという。 どれだけの時間で本を選んで運び出せたのかという個人データは毎月集計され、 成績が良くなければ2か月ごとの契約更新で契約が打ち切られるという過酷な労働の現場だ。」

ここで彼等の労働環境について議論する気はないが, 普段私たちが「外部化」し無視している「labor」も, 市場全体としてみれば, それなしには成立しないのである。 こういったものを一緒くたにして「働く」という言葉に集約してしまうのは, あまりにも乱暴な気がする。

じゃあ「work」はどうなっていくの, という疑問が湧くと思うが, それはみっつめの違和感へとつながる。 『ウェブ時代をゆく』 では Google という会社とオープンソース・コミュニティについてひとつずつ章を割いている。 実はこのふたつの章が私の中で最も違和感がある。

例えば「経済や企業理論の前提たる常識」(p.56)として 「人は雇用関係や金銭的契約に基づく強制力によって働くもの」 としているが, 明らかにウソだろう。 確かに「labor」レベルであれば「人は雇用関係や金銭的契約に基づく強制力によって働くもの」と言えるかもしれない。 しかし企業・組織内の活動は「labor」だけではない。 例えば「work」は明らかに「人は雇用関係や金銭的契約に基づく強制力によって働くもの」にはあてはまらない。 では「職人的な制作活動に象徴される目的-手段的行為」を行う人たち(私もこれに含まれると思う)は何をインセンティブとしているのか。 それは思いっきり抽象的に言えば「他者からの承認」である。 そして「他者からの承認」をインセンティブにしているという点では, オープンソース・コミュニティだって同じなのである。

「情報共有と信頼」(p.176-178)では Google でインターンを行う学生の話が紹介されているが, 私はこれを見て寒気がした。 これは企業が従業員に対して忠誠心を植え付けるための典型的な「条件付け」の手口である。 要するに彼らを「一流のエンジニア」として遇すことにより「他者からの承認」を与えているのである。 これは組織や(もっと緩い)コミュニティが行う「通過儀礼」で使う手口でもある。 承認として与えるものが, 「一流のエンジニア」としての待遇なのか, 社内ポストや報酬なのか, 自分が書いたコードがコミットされることなのか, あるいは門外不出の秘儀を授けることなのか, といった違いにすぎないのである。

もちろん, 企業・組織(Google も含む)とオープンソース・コミュニティでは決定的に違う点もある。 それは, 企業・組織は基本的に「集産主義」なのに対しオープンソース・コミュニティは基本的に「集合活動」である, という点である。 この辺は 『ウェブ時代をゆく』 よりも 『ウィキノミクス』 あたりが参考になるのではないかと思っている。 (前述した「これからの「活動的生活」は「labor」と「action」に引き裂かれていくように思える」という私の印象は, 実はこの本から連想している)

よっつめ。 「島宇宙」の使い方に関する違和感は, 『ウェブ人間論』を読んだときと同じものだ。 つまり梅田望夫さんの言う「島宇宙」は所詮「リアルから地続きの異郷」にすぎない。 でも平野啓一郎さんをはじめネット上の議論で使われる「島宇宙」のニュアンスは「リアルが切断された異世界」であり, そこにいる蜜蜂は切断されているが故に越境できない。

企業であれオープンソース・コミュニティであれ, コミットするインセンティブが「他者からの承認」である限り, そこに耽溺してしまうのは仕方のないことである (まぁ企業ならワーカホリックに陥った挙句,うつ病か過労死に至ってポイってな感じなのかもしれないが)。 でも「他者からの承認」における評価(または価値)基準が「外部」のそれと交換可能であれば, そこを離れて「越境」できる。 企業であれば金銭報酬がもっとも客観的な評価基準であり, オープンソース・コミュニティであればプログラム・コードこそが唯一の客観的評価基準と言える。

「「文系のオープンソースの道具」が欲しい」(p.163-168)では具体的な道具立てについて検証しているが, 「文系のオープンソース」が難しいのは, 道具の問題ではなく, 「外部とも交換可能な評価基準」が無いからだと思う。 芸術や文芸といった分野は評価や価値がもっとも多様化している分野でもある。 無理に境界を作っても衆愚に陥るか島宇宙(=リアルが切断された異世界)化してしまうかのどちらかである。 こういうときは Creative Commons 的なアプローチがよいと思う。 まず置き場所(Commons)を作って, その置き場所へのアクセスを誰でも容易に行うことのできる手段を提供するのである。 Flickr や YouTube などはそういう風に設計されている。 そうすれば,あとはユーザが勝手にそれで遊びだす。 遊び道具を与えるのではなく, 遊び場所を開放するのである。 遊び場所さえあれば道具なんか勝手に作られる(例えば Tumblr のような)。 もちろん遊び場所に囲いを作ってはいけない。 「アクセスを誰でも容易に行うことのできる手段を提供する」とはそういう意味である。 日本の知財政策が失敗気味なのは, 「それ」を囲い込もうとするからだ。 もはや知財の囲い込み(=私有化)は, 既得権者がどれほど抵抗しようとも, 世界の趨勢から外れつつあると思う。

さて, 以上を踏まえた上で 『ウェブ時代をゆく』 に書かれている「思考実験」を紹介しよう。

「思考実験としてひとつ、 若い友人Sを題材に「新しい職業」と「古い職業」について考えてみよう。
……日本の大学の理工学部を卒業したSは、 宇宙開発という子供の頃からの夢を追求するためにスタンフォード大学の航空宇宙工学の大学院に進み、 博士号を取得しようと勉強と研究の日々を送っている。 しかし大学院を終えたあとの進路を考えると頭が痛くなる。 専門を直接生かせる「古い職業」(大学の先生になる、NASAに勤める、ボーイング等の企業に勤める)はたくさんの採用募集をしている状況とは言えず、 米国中の優秀な学生たちが「古い職業」の数少ない雇用をめぐって椅子取りゲームをしている。 Sの専門は熱と制御なのだが、 ひょんなことから「グーグルでの雇用」という可能性が見えてきた。 グーグルが構築中のコンピュータ・システムにおける今後の最大の課題は熱処理であり、 その未踏分野に「新しい職業」が生まれようとしているらしいのだ……」(p.203-204)

ここで, この本では「新しい職業」と「古い職業」のどちらを選択するか問い掛ける。 もし「好きを貫く」のであれば, 学生時代の専門分野を生かせる, 「グーグルでの雇用」でも全然構わないわけだ。 でも考えてみてほしい。 彼の子供の頃からの夢は「宇宙開発」なのである。 もし「新しい職業」を選ぶなら, それは夢を諦めることと同義だ。 また難関の「古い職業」を選びつづけるなら, それは戦略性のない進路で自らを貶める大馬鹿者と評することも出来る。 いずれを選ぶにしろ「自分で自分を裏切る」ことになる。 (まっ, 学生時代の進路選択は常にこういった葛藤の連続だけどね)

この思考実験の問題は回答者を「職業を選択する」という事態に追い込んでいることだと思う。 そうではなく, もし今の時代が「大変化」の取っ掛かりであるならば, 「職業を選択する」ことは将来にわたる決定的な分岐点ではないことに注意を払うべきだ。 『ウェブ時代をゆく』 の主張のひとつはまさにそういうことだと思うのだが, 全体を通して主張の「揺れ」があり, それが読み手に違和感を抱かせる原因になってるのではないかと邪推してしまう。 「強度」を追求しすぎることは (古いものであれ新しいものであれ) 帰属するものへの過剰適応を招く。 過剰適応を忌避したいのなら「強度」を追求しすぎないことである。 (何度でも書くが)大事なことは「好きを貫く」よりも, 「好き」でいることを忘れないこと, 「好き」でいることを諦めないことであると思う。

最後に大野安之さんのあの名作からワンシーンを引用しておく。

「あるところに…
子供がいた…
男の子だ…
いつも遠くに行きたいと願っていた
大きくなって外国をまわることができた…
会社をつくった…
結婚をして家族もいる
もう冒険はできないだろう…
自分自身以外の責任も負っている中年のオジサンだ…
それでもその子は畳やベッドの上では死にたくないと思っている
家族に看取られるなど冗談じゃない…
――と思っている
多分不可能に近いだろう…
それでもそういう願いだけは持っているんだ
なぜなら…
そういう思いまで失くしてしまったら…
その子の人生が否定されてしまうと考えるからだ…」
(『That's! イズミコ』 4 「のぼる ほし」より)

(追記 1/6)

この記事に関する reblog が参考になる。

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ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ
ドン・タプスコット/アンソニー・D・ウィリアムズ 井口 耕二
日経BP社 2007-06-07
評価

ソーシャル・ウェブ入門―Google、mixi、ブログ…新しいWeb世界の歩き方 フューチャリスト宣言 (ちくま新書 656) ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687) ウェブは資本主義を超える 「池田信夫ブログ」集成 2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書 14)

by G-Tools , 2008/01/05

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ぼくはいつも星空を眺めていた 裏庭の天体観測所
チャールズ・レアード・カリア 北澤 和彦
ソフトバンククリエイティブ 2006-02-18
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by G-Tools , 2008/01/05