それはマナーではなくプロトコル

no extension

面白そうな話を無理矢理繋げてみる。

遥洋子さんの記事は会員にならないと読めないらしいので, 読んでやらない。

いや, 私はそういうトラブルの経験がないなぁ, と思ったり。 まぁ運がいいだけなのかもしれないが, 多分そういう事態になったら思いっきり嫌な客を演じるだろうなぁ, とも思ったりする。 だってマニュアル通り接客する売り子や店員なんて格好のハックの対象じゃない。 ならばまず異常系のイベントをインプットしてアウトプットがどうなるか調べるでしょ, 普通。

私は最近, ものを食べる行為を「食事」と「採餌行動」を分けて考えるようにしている。 コンビニで弁当を買って食べるのは採餌行動。 行きつけの料理屋でお酒と料理をいただくのは食事。 ひとりでカツ丼屋で飯を食うのは採餌行動(私はハンバーガーなど食べない)。 でもみんなで行った場合はどうだろう? ...とかなんとか。

で, 採餌行動をとっている時って対象をヒトと見なしてないんだよね。 例えば 「マナーとルール」 で引用されている「チェーン系ファーストフードで注文する時の正しいマナー」とやら。 これを読んで連想したのは家電製品のマニュアルだ。 要するに, これってマナーの問題ではないのだ。 「わたし」と「あなた」という装置間のプロトコルの問題。 店員の側であれ客の側であれ, 相手を「装置」と見なし, その取り扱い方法を記したのがマニュアルでありマナーなのである。 あるいは現代においてマナーとは「規範」ではく「アーキテクチャ」へと変質していると言ってもいいだろう。

私が若い頃は「空気」という言い回しはなかったような気がする。 代わりにあったのは「雰囲気」。 「空気」が「雰囲気」と大きく違うのは(色んな方が指摘しておられるように)その場にいる人は皆なんらかの役割を演じ *させられる* ことだ。 「雰囲気」は外部に対する圧力だが, 「空気」は内部にいるプレイヤーにかかる圧力だ。

で,関係の内部にかかる圧力により何かを演じさせられている状態って典型的な関係嗜癖なんだよね。 「何かを演じる」ということは, その関係から自身を切り離すという適応行動でもあるわけで, それ自体は何ら問題ではない。 でもその関係によってしか自身を定義できない人は結局その関係から離れることが出来ない。 これが関係嗜癖あるいは共依存だ。 関係嗜癖の状態を解除するのに関係の機能や強度を上げていくことは得策ではない。 それはむしろ「空気」という同調圧力を強めていくだけで何の解決にもなっていないからだ。

こういった状況は個々の関係のみならず社会的にも蔓延しているように見える。 いみじくも Anne Wilson Schaef さんが 『嗜癖する社会』 と言われたとおりだ。 ダウンロード違法化の問題にしたって, これが「著作利権」に絡む問題であることは明らかなのに, そこに参加するプレイヤーの誰もそれを修正することが出来ない。 一種のナッシュ均衡になっているわけだ。 でもその構造は個人同士の「KY」な関係と同じ。 お互いがお互いを演じているペルソナ(=装置)でしか認識できないから「非協力ゲーム」にしかならない。 「非協力ゲーム」の下ではマナーは存在し得ない。

故に, 必要なのはお互いの関係性を再構築し, 少なくとも「協力ゲーム」に持ち込むことである。 そのためには「協力」の担保となる何かが必要である。 近代において, それは「大きな物語」だった。 今はそんなものはフィクションだと知ってしまっている。 では代わりに何があるのか。

「MIAU は失敗した」と言う人もいるけれど, 私はそう思わない。 今は産業革命以来の「近代」が大きく変わる時代である。 そう簡単に解は出ない。 少なくとも100年単位のタイムスケールで考えるべきことである。 もしかして最終的に MIAU は失敗するかもしれないが, それも時代の解を求める姿勢の結果であれば結構なことだ。

ちうわけで, もし MIAU が(時間がかかっても)本気で法人になるのなら, (すずめの涙ですが)金銭面でも応援します。

(ってそんなオチかよ!)

(追記 12/24)

何となく似たことを言ってるような気がしたので(もちろん気のせいである可能性大)リンクしておく。