Web がつくる「文脈」

no extension

人は文章を言葉の羅列として理解しているのではない。 一見フラットに並べられた言葉の列から「文脈」を読み取って理解している。 では, コモディティ化しフラットに並べられた Web 上のコンテンツ同士が有機的に結びつくとき, 私たちはそこに「何か」を読み取ったりするんじゃないだろうか。 実は昨年あたりからこんなことを考え始めている。

きっかけになったものは色々あるがひとつはこれ。

そしてもうひとつ。 最近になってまた考え込むきっかけになったのがこの本。

次世代ウェブ
次世代ウェブ
posted with 簡単リンクくん at 2007. 1.28
佐々木 俊尚著
光文社 (2007.1)
通常24時間以内に発送します。

ITmedia のアンカーデスクでの連載を書籍用にまとめたもの。 というか(あとがきにも書かれているが)この本を書くために連載を持ちかけたらしい。 連載はひととおり読んだが, 書籍になって改めて読むとまた違った感じがする。 やっぱ今の時代にライターでエディタというのは最強なのかもしれない。 今回はこの本を下敷きに考えてみる。

Web 2.0 というパラダイム・シフトがもたらしたものはいろいろあると思うが, 私としては, その最大の恩恵は「ロングテール」や「集合知」などではなく「コンテンツのポータブル化」にあると思う (っていきなり本の趣旨から真っ向対立してるけど)。 その取っ掛かりになったのはやっぱり RSS フィードだろう。 いまやフィードには何でも入れることができる。 blog 記事はもちろん, 音声や映像や広告だって入れることができる。 そしてそのフィードはどこにでも持ち運べる。 blog 記事を RSS リーダでまとめ読みをしてもいいし, iPod にぶちこんで Podcasting してもいい。 またフィード群を処理したものをフィードの形でアウトプットすれば, 別の価値を付与することもできる。

そういう意味ではもう「グーグルの次」は始まっているような気がする。 確かに私たちは最初の取っ掛かりを Google 検索に依存している。 何もないところから情報を得るには Google 型「UFO キャッチャー」はこれからも有効に機能するだろう。 でも, 一方で私たちの側でも知識は蓄積されるのである。 それは規模では到底 Google 等には及ばないかもしれないけど, 「私」のために最適化されたデータベースなのだ(もちろん Google はそのデータベースをも自社内に取り込もうと画策しているわけだけど)。

余談だけど, 昨年導入した BON SAGOOL だが, とても便利に使わせてもらっている。 導入して一番良かったことは「フィードを全部チェックしなくちゃ」という強迫観念から解放されたことかな。 だからフィードはざっと斜め読みして面白そうなものだけピックアップしている。 「斜め読み」からこぼれたものも BON SAGOOL のホットリンクに大抵あるので, むしろじっくり見るのは BON SAGOOL のホットリンクにあるものだったり。

で, こういう使い方をしていると何となく自分の傾向が見えてくる。 それは単なる趣味や興味の傾向ではなくて(それは最初から分かっている), フィードでやって来るコンテンツ同士の(主観的な)繋がりから生まれてくる(ように見える)「文脈」のようなものだ。 これを言葉にするのは難しい。 仲俣暁生さんの「本と本のあいだに本がある」では「町」に喩えられてるような気がする。 あるいはコンテンツ群で構成される「群体」のようなものか?

でも, こういう利用の仕方ができるのは個々のコンテンツがその帰属するものから切り離されているからだ。 「言葉」には著作権はない(まぁ特定の言葉には商標権があったりするけど)。 故にそれらを自由に組み合わせて「文」を作ることができる。 更にそれを見た人は文の中に何がしかの「文脈」を読み取る。 「文脈」を与えられたそれはいつかひとつの「言葉」になる。 そしてまた別の誰かがその「言葉」を使って別の「文」を作るのである。 あるいはそういうサイクルを Web 2.0 的に「マッシュアップ」と言ってもいいかもしれない。 (もちろんここでいう「言葉」は必ずしも文字の羅列を意味しないし「文」もいわゆる文章を意味しない)

そう考えると, なぜ楽天や mixi が Web 2.0 的でないのかが分かる。 楽天や mixi が生み出すコンテンツは全て内向きに囲い込まれているからだ。 楽天や mixi から生み出されたコンテンツはそれぞれの内部でしか消費できない。 これは Flickr や Vox のような外向きの SNS と決定的に違うところだ。 (まぁ Vox を SNS と呼ぶべきかどうかは微妙なところだけど)

Yahoo! Japan は既存の各サービスに SNS 的なフィーチャを埋め込もうとしているけど, それはマーケティングのための囲い込みでしかない。 「友達ダイアグラム」を使ってユーザ同士で共依存的な状況を作り出し, その束縛力を以ってコンテンツをその場所に留めておこうとする。 どうしてそんなことをするかといえば, マーケティングのためには「その場所にどれだけ沢山のコンテンツがあるか」が重要, という信仰めいたものがあるからだ。 彼等はその信仰に従ってコンテンツ(UGC)をかき集めているに過ぎない。

これも余談だが, なぜ mixi が「安全」と思われている(いた)か。 それは mixi へのアクセスに制限があるからだけではなく, 上述の「友達ダイアグラム」の束縛力によって「外部」を想像できなくなっているからじゃないのか。

仲俣暁生さんの比喩を拡大解釈するなら, コンテンツは「道路」のようなものだ。 道路であるなら必ず別のどこかに繋がっていなければならない。 アーキテクチャによるものであれ, 「友達ダイアグラム」の束縛力を利用したものであれ, 囲い込まれたコンテンツは出口のないロータリーのようなものだ。 そこをぐるぐると回っているだけ。 かき集めたコンテンツが外部のどこにも繋がらないのならタコ壺状態に陥るだけで何の発展もない。 それを避けるためにサービスプロバイダは必死にユーザ(とコンテンツ)をかき集めるだろうが, しかしそれもユーザの流入が続くまでの間であって, 流入が止まった(あるいは食い尽くされた)瞬間にそのサービスは死ぬのである。 これは Web アプリケーションのサービスだけじゃなく DRM のサービスでも同じ。

Web はもともとディレクトリサービスの一種であり, コンテンツにとって「場所」が重要な属性要素になっていた。 しかし Web 2.0 によってコンテンツは「場所」の束縛から自由になりつつある。 それは一方でコンテンツのコモディティ化をもたらすが(従来のコンテンツは帰属する場所によって権威化されていた), 同時に人とコンテンツの新しい関係も生まれつつあるように思う。 当然ネットの既存プレイヤー達(楽天や mixi や Yahoo! Japan など)は何としてでも逃げるコンテンツを留めおこうと画策するだろうけど, 全体としてこの流れはもはや止めようがない。 これらの既存プレイヤーが息絶えたときにこそ「グーグルの次」が台頭してくるのかもしれない。