じゃあね。
まぁ,この歳になると近しい親族やら知人やらで亡くなる人も増えてくるわけで。 かといって慣れるわけもなく(慣れる気もない),更にそれが同い年の友人なら相当「くる」ものがある。 彼も私も(主訴は違うが)同じように持病持ちだし,お互いに「長生きはしないよなぁ」とは思っていたが,まさか先に逝かれるとは思わなかった。
彼とは同じ大学サークル繋がりで私のほうが入学年度はひとつ上だが,生物年齢は同じで後に学年も抜かれることになる(笑) 「武勇伝」を自慢する気はないが,いっしょになって「顔にバカって書いてある」ようなこともやってきた。 そのバチが当たって今の有様なわけだが。
同じ大学サークル繋がりで仕事上の先輩でもある Mag. さんのときは(事故で急逝されたこともあり)ひたすら驚いて悲しくて,なんとか痕跡を遺そうと思った。 でも今回は自分で自分がどう思ってるのかよく分からない。 棺の中の彼の顔を見ながら,なんとなく「次は私の番かなぁ」と思ったり。
最近は「終活」なるものが流行ってるらしいが,死ねば自身の主観は消失するのに,死後の自分の心配なんかしたってしょうがない(でも他人に迷惑のかかるようなことは生前のうちに清算すべきとは思うが)。 それよりも「客観的な存在」としての自分をどう遺すかだと思う。 私たちは社会的動物なんだから。
告別式は「真言宗」だった。 毎度思うが,坊主の呪文(読経)が長ぇよ。 しかも日本語じゃないからわけが分からん。 「あのくたらさんみゃくさんぼうだい」とか言われてもレインボーマンくらいしか連想できん。 思わず microsleep しちゃったよ。 あれってラリホーなのか?
思うのだが,その場で全部唱えるんじゃなく,あらかじめ precasting しておいて,式場で何らかの trigger を発生させれば有効になるようにしておけばいいと思う。 マニ車とか(笑) いまどき音声コマンドとか流行らないよ。
私の親族はみんな浄土宗か浄土真宗なので,真言宗の式は初めてだったり。 でも,あとでネットで調べたらだいぶ違ってるみたい。 時代に合わせて簡略化されてるのかしら,あれでも。
彼の地元の山口では出棺から火葬までは原則として親族のみで行うのだそうだ。 ただ,お願いすれば親しい友人とかでも参列できるらしい。 今回は棺に献花するところまでは参加させてもらった。
彼の顔を見ながら,生物としての彼と無生物になった彼との境界は何なのだろう,などと場違いなことを思いつつ,「またね」と言う覚悟もなく,「じゃあね」とだけ声をかけた。