non-human person の「人権」
アルゼンチンの裁判所でオランウータンを「人間ではない人(non-human person)」であると認める判決を下した。 このニュースは NHK でも流れたようで,微妙に反響があったようだ。
NEWSWEB終わり帰宅中です。見てると「オランウータンに人権なんてあるわけないだろ、この濱野という奴はバカだ」的ツイートが結構見受けられますね。はー。。はっきりいうけど読解力なさすぎですよ、どっちがバカなんだか。まあ時間に限りあるTVだから仕方ないですが。。 #nhk24
— 濱野智史@PIP総合プロデューサー (@hamano_satoshi) 2014, 12月 25
ここで判決の是非については言及しない。 いや,政治的要素が多すぎるし,そんな考察は私には無理だから(笑)
ただ non-human person の「人権」についてはいろいろと考えさせられるものがある。 ので,ここでは思いついたことを列挙してみることにする。
(あらかじめ予防線を張っておくと,私は「環境保護(家|団体)」とか「動物愛護(家|団体)」とかいうものに対して悪い意味で偏見を持っているので,その辺を割り引いて読んでいただけると助かる)
まぁ,今どきのテレビ報道は「報道」ではないし,ツッコミを入れるのは不毛なので無視することにして,今回の話については以下の記事のほうが参考になる。
というわけで,ただ独善的に動物を「助け」て放逐するわけではない(多分)という点はくぎを刺しておく。
(ちなみに non-human person という名前は動物愛護活動家の作ったものらしい。
その根拠となる「科学的証拠」とは
なんだそうだ。 この発想なら脳を持ち,少なくとも雌雄関係や親子関係でコミュニケーションを行う動物は全部知性を持つと言えるんじゃないかな。 そもそも知性の根拠を脳に求めるという時点でお笑い草だけど。 今では当たり前のように聞く「環境問題」という名前もそうだが,問題意識に名前を付けることは活動を行う上で非常に重要なのだと改めて気付かされる)
確かに(類人猿とはいえ)ヒト(human)でないオランウータンに「人権」がある,というのは違和感がある(私は違和感を感じた)。 違和感を感じるのは,人権を含むいわゆる「自然権」がヒトに根差すものであるとの刷り込みがあるのかもしれない。 しかし,そもそも自然権が法学上の「方便」であることは皆さん承知のことだろう(ちなみに「方便」というのは仏教用語で「悟りに至る道」すなわち「般若(prajna)」と同義である)。 ならば,人権がヒト以外に拡張される可能性は考慮しなければならない。
おそらくこの議論には2つの方向性があると思う。 ひとつはヒト以外の地球上の動植物を non-human person と見なしうるのか,という方向。 もうひとつはヒト以外の「異質の知性」をどうとらえるか,という方向である。
前者に関しては,世界には既に様々な判例があるようだ。 たとえばインドにはイルカを non-human person と見なす判例がある。
アメリカでもチンパンジーを non-human person と見なすよう求める訴訟があるが,これは最新の判決で否決されている。
どうやらポイントとなるのは「知性」の有無とその個体が「社会的義務」を果たしうるかどうか,ということらしい。
サンドラは non-human person なのに自由が奪われているという。 でもそれは実は逆なんじゃないのか。 ヒトの尺度で見たときにサンドラは「自由が奪われている」ように見えるだけなんじゃないのか。
「自由」というのはヒトの社会システムに於いてはじめて文脈が成立する。 「ヒトのシステムはヒトの「自由」を奪う」という前提があるからこそヒトは「自由」を希求する。
とすれば,サンドラをはじめとする「異質の知性」を non-human person と見なしてヒトのシステムに包摂しようとするのは,動物虐待と同じくらい,ヒトの傲慢なんじゃないのか。
最初から「知性」と認識されているものならどうだろう。 SF 的には例えば ETI(Extra-Terrestrial Intelligence; 地球外生命体)なんかがそうだろうが,むしろ AI(Artificial Intelligence; 人工知能)等で考えたほうがより身近かもしれない。
そもそもこの話題でブログ記事を書こうと思ったのは,以前に紹介した「ロボット法学会」のコミュニティでこの話題が紹介されていたからだ。 つまり「AI が non-human person と見なされるのなら AI の作った製品に製造物責任が問われるのか」といったことである(この文の AI を ETI に置き換えたら受ける印象が変わるかもしれない)。
オランウータンのサンドラもロボットの AI も,ヒトの外部に存在する「異質の知性」とどう向き合うかという問題に帰着するのではないだろうか。 私たちは私たちが長い時間をかけて構築した社会システムとその中にある「人権」という概念に慣れすぎていて,それはもうほとんど刷り込みのようになっている。 しかし,ヒトの外部にも「知性」が存在する(存在し得る)ということを私たちはようやく認知した。 これは新しい事態である。
もしかしたら動物愛護活動家たちは,自分たちの主義・主張を正当化するために non-human person という言葉を使っているだけなのかもしれないが,これはおそらくそんなレベルの話ではない。 なぜなら「人権」の拡張は「人権」が根ざしている(と私たちが思い込んでいる)ものを根底から覆す可能性があるからだ。 これは例えば「自由」という概念も変わる可能性があることを示唆する。
こういった思考は50年前なら「空想科学」のお遊びだったが,今やリアルな問題意識として突きつけられているのかもしれない。