『ヤンキー化する日本』はマジでどうでもいい本だった
まず前提から言っておくと,私は斎藤環さんの著書は基本的に好きである。 が,最近の「ヤンキー文化」に関する著作はいただけない。 ちなみに『世界が土曜の夜の夢なら』はいまだに積ん読状態で読む気になれず,『ヤンキー化する日本』で払拭しておこうと思ったのだがやっぱりダメだった。
そもそも「ヤンキー」という定義不能な言葉を使うこと自体「バッドセンス」としか言いようがない。
私は田舎の出身なので「ヤンキー」と「チンピラ」が区別できない。 「チンピラ」ってのは「仁義無き戦い」みたいな映画に感化されて「ヤクザ」に憧れるものの結局は本物のヤクザに使われるだけの「被搾取者」だ。 「ヤンキー」も同じ。 自分より上位の階層に搾取される存在だから自身も下位階層から搾取しているに過ぎない(だから彼らは犯罪と連接している)。
でも『ヤンキー化する日本』で言う「ヤンキー」はそういう意味ではないらしい。 曰く
- バッドセンス
- キャラとコミュニケーション
- アゲアゲのノリと気合い
- リアリズムとロマンティシズム
- 角栄的リアリズム
- ポエムな美意識と女性性
の和集合が斎藤環さんの言う「ヤンキー」の定義らしいのだが,私がこのリストを見て真っ先に連想したのは「厨二」だった。 つまり「ヤンキー」も「厨二」も基本的には同じもので,包摂されるカテゴリが「ヤンキー」か「キモオタ」かの違いでしかないんじゃないだろうか。 とするなら,上述の定義において「ヤンキー」というカテゴライズに意味があるとは思えない。(密着し閉じた共同体の中での序列を表す言葉としてなら意味があるのかもしれないが)
喩えるなら映画「ソーシャル・ネットワーク」に出てくるウィンクルボス兄弟とザッカーバーグの対比みたいなもので,両者は異質さ(あるいは痛さ)のベクトルが違うだけで本質的には同じ存在と言える。
前に『自分探しが止まらない』の感想で「『自分探しが止まらない』 も自己啓発本のひとつに過ぎない」と書いたが,この『ヤンキー化する日本』も同じで,「ヤンキー」という単語を使った時点で語るに落ちている。 著作自体が「ヤンキー」そのものだ。
と気づいたので,途中で読むのをやめた。 『世界が土曜の夜の夢なら』も売っぱらっていいかもな。
強いて言うなら
のくだりだけは「なるほど」と思った(「ヤンキー」と「厨二」が同値であるという意味でね)。 でも,そこだけなら立ち読みすればよかった,と Kindle で買ってしまったことを後悔している。 せめて紙の本なら(10円程度でも)売れたのに。 まぁ『ケータイを持ったサル』と同程度の内容だと思えばよい。