『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』を読む
あやや。 もう3月下旬になってしまった。 Facebook で友人に『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』の感想をそのうち書く,と言ったのが2月下旬だったので,ひと月も放ったらかしにしてしまった。 いまさら読み返して感想文を書いてみる。
全体的な感想から。
この本は元になってる本があるらしいが,例によって私はそういうの全然無視して読んでいる。 ターゲットとなる読者は教育関係者とか政治家とかかな。 そういう人たちには面白いんだろう,多分。 個人的に面白かったのは4章と(移民=外国人労働者問題について書かれている)5章。 4章だけ立ち読みってのもありだと思う。 その程度の内容。 こういう本こそ Kindle で出せばいいのに。
なんで私がこの本に興味を持ったかというと,以下の記事を目にしたから。
なかなか良くまとめられているので,本を買わずにこの記事だけ読んでもいい。 上に挙げた記事が良く出来ていたので,もう少し濃ゆい内容を期待していたのだが,そうでもなかった。 まぁ,でも,面白いっちゃあ面白いので興味のある人はどうぞ。
ところで,学校で算数や数学の問題を解いて,こう思ったことはないだろうか。
「なんでこの問題はきれいに解けるのだろう?」
まぁこれはちょっと考えれば当たり前のことで,あらかじめ決まった解と解法があって,そこから逆算して問題が作られているのだから,きれいに解けて当然なのだ。 実際に自分で適当な問題を作っても(算数のドリル程度ならともかく)たいていは不定解や不能解になってしまう。 これは学校教育全体にも言えることで,あらかじめ決められた解(指導要領)があって,そこから授業や「問い」が構成されている。 つまり学校では全ての「問い」には必ず「正解」がある。 たとえそれが国語や道徳の授業であってもだ。
しかしこれは明らかにおかしい。 何故なら世の中は「正解」のない事柄のほうが多いからだ。 ましてや国語や道徳に「正解」なんかあるはずがない。 正解のない事柄をいかにして進めていくか,これが社会のあり方だ。 なぜ学校はそれを教えないのだろう。 これはコミュニケーションにおいても同じ。 「正しいコミュニケーションはない」(p.164)のである。
私事で恐縮だが,私の子供時代は周囲の大人から「ちょっと変わった子供」と見られていたらしい。 これは私から見れば周囲のすべてが「変わった人たち」だったわけで,その差異を埋めることもできず悶々としていた記憶がある。 これが解消するのが思春期以降になってから。 「他者」を意識するようになって初めて「ひとと違ってて当たり前」と思えるようになり気が楽になった。
「ほんとうに個性的なものは、極めて個人的なもので、他人には理解不能なものである」 (p.102)
ヒトは独りではいられない。 なぜならヒトは「他者」がいてはじめて自分を証明できるから。 「他者」が理解できないのなら(お互いに)理解できる部分を探してそれを広げていけばいい。 つまりコミュニケーションとは「共感」ではなく「理解」であるということだ。
(そういえばこれは SETI@home の活動を通じて知ったのだが,異星人とのファースト・コンタクトをシミュレートする,その名も CONTACT(日本では CONTACT Japan)という集まりがあるらしい。 「未知」の存在とコミュニケートするということがどういうことか,その本質が垣間見れて面白い)
「ぼくはよく、コミュニケーション観の転換が必要だという話のときに、これからの社会のキーフレーズは「『協調性から社交性へ』です」って言うんですけど、社交性というのは「人間同士はわかり合えない、わかり合えない人間同士だけれども、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げてなんとかうまくやっていけばいいじゃないか」という考え方を基本とするものだと思っています。
でも、「社交性」という概念は、これまでの日本社会では、「うわべだけの付き合い」とか、「表面上の交際」と言われてマイナスのイメージだったんですね。 大人の社会でも学校教育のなかでも、「心からわかり合おうとするものでなければほんとうのコミュニケーションとはいえない」「心からわかり合える人間関係をつくりなさい」と教え育てられている。それが実は、子どもたち、若い世代の人たちに相当なプレッシャーを与えているのではないか。」 (p.150-151)
社交性も理解するための方便だと考えると分かりやすい。 お互いに共感はできなくても理解ができるのなら先に進むことができる。 「「ほんとうの自分」なんてどこにもない」(p.183)が,(自身の鏡たる)「他者」を識ることで自分自身に対する理解も深まる。 そういうプロセスがコミュニケーションなんだと思う。
だから本当は「コミュニケーション力」なんて存在しない。 なぜならそれはパワーではなくプロセスだから。