人との「絆」は本当に必要か?
(タイトルはもちろん釣りです)
テレビを見なくなってどうでもいいニュースには本当に疎くなっているのだが,今年の漢字は「絆」なんだそうである。 まぁそもそも一年を漢字一文字で表そうという発想が馬鹿げているのだが(包摂と排除),例えば今年の被災地の方々と,同じ国内とはいえ,そこから離れた場所である広島に住む私達では「大震災」から受けるイメージも異なるだろうし,そこから連想するものも異なるだろう。
しかし,どうやら今年は「絆」の大安売りの年だったようで,こんな記事が登場している。
(このサイトでは原則として新聞系の記事はスルーすることにしているのだが(だって,いろいろ面倒っちいし),今回は斎藤環さんの記事ということで。 どうせ何ヶ月かすればサイトから消えてしまうと思うので,読みたい方はお早めに)
そもそも「絆」とはなんなのか。 件の記事にはこう書かれている。
「広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。
語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。 だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。
(中略)
絆は基本的にプライベートな「人」や「場所」などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。 つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。」 (「時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環」より)
人と人との間にある「絆」は本来,親密さの様態を示すものとして用いられることが多いと思う。 しかも,引用にあるように,かなり強い意味(意思)がある。 私はお目にかかったことはあまりないのだが(多分 TV を見なくなったからだろう),「絆の連呼」などと呼ばれる大安売り状態になると「絆」の意味するものが変わってくる。 つまり「家族の絆」「ご近所同士の絆」といったものが「家族としてあるべき絆」「ご近所としてあるべき絆」に変わるのだ。 それはもはや様態を示すものではなく社会から見た役割・規範のようなものとして作用する。 あるいは「癒し」などといった言葉と同じく消費を指す言葉として作用することになる。 そして人々はその言葉を目指して行動するようになる。 これはかなり怖いことである。
件の記事はこう続く。
「カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインが提唱する「ショック・ドクトリン」という言葉がある。 災害便乗資本主義、などと訳されるが、要するに大惨事につけ込んでなされる過激な市場原理主義改革のことだ。 日本では阪神淡路大震災以降になされた橋本(龍太郎)構造改革がこれにあたるとされ、さきごろ大阪市長選で当選した橋下徹氏の政策も、そのように呼ばれることがある。
人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。 政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。」 (「時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環」より)
いきなり飛躍しすぎたかな。 もっと小さい話をしようか。 たとえば近代において,社会から見る家族には「父親」「母親」「子供」といった役割・規範が明確に提示されている。 家族はその役割・規範に沿って行動しようとする。 これが行き過ぎ,本来の意味での親密さが失われた状態になると「機能不全家族」になってしまう。 実は現代(後期近代)はこうした「ほだし」を解体し「自由な個人」を回復していく過程であるとも言える。 つまり「絆の連呼」はそうした流れに逆行するものなのである。
なんで今更こんな話をしてるかというと,先日読んだ『ソーシャルシフト』の第1章のタイトルが「ボンド・オブ・トラスト」で,個人的にはこの言葉に強い違和感を感じてしまうからである。 もちろん『ソーシャルシフト』の中で「絆の連呼」が行われているわけではないが,一方で「絆」はやはり強すぎる言葉なのではないかと思う。 そういえば(英語不得手なので間違ってたらゴメンナサイだけど) bond という単語も元々の意味は「束縛・拘束・囚人を縛るなわ・鎖」(WISDOM 英和辞典より)といったものらしい。
最初に挙げた斎藤環さんの記事にあるように,私はやはり「束縛としての絆から解放された、自由な個人の「連帯」」という言葉に強く共感する。