日本学術学会は原発に批判的?
昨日の SciencePortal の記事が興味深かったので紹介しておく。
「日本学術会議哲学委員会主催の公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任-科学と科学を超えるもの-」 が18日、都内で開かれた。 パネリストに原子力工学者の姿はない。 原子力発電に批判的な発言が目立った。」 (「日本学術会議が『合意した声』を出せるのは」より)
日本学術会議については以前,金澤一郎日本学術会議会長談話として「放射線防護の対策を正しく理解するために」(PDF)という文書が公開されているが,それに対する会員からの批判もあるらしい。 シンポジウムでも
「島薗進・東京大学大学院人文社会系研究科教授(日本学術会議会員)をはじめ複数のパネリストは、政府が、避難区域設定や食品中に含まれる放射性物質の暫定基準設定のよりどころとした国際放射線防護委員会(ICRP)の基準自体に疑問を持っているようだ。 政府の食品安全委員会委員でもある唐木英明・元東京大学アイソトープ総合センター長(日本学術会議副会長)が「食品に含まれる放射性物質の暫定基準は国際的に合意されているICRPの基準に基づきさらに安全度を見込んで決めている」という説明に納得していなかった。 確かに平常時と緊急時は違うといっても、年間の被ばく線量として1ミリシーベルト、20ミリシーベルト、100ミリシーベルトなどさまざまな数字が出てくるのは、一般の人間にとってはなおさら理解しにくいところだろう。」 (「日本学術会議が『合意した声』を出せるのは」より)
という感じで批判的なムードのようだ。
(Tumblr でも書いたのだが,「基準値」ってやつは往々にしてリスクへの理解を妨げるような気がする。 「基準値」はもともとハザード的な発想である。 でも実際には基準値より上だろうと下だろうと確率的に影響が出る点では変わらないのだ。 リスクにおける「基準値」はリスク評価に対して特定の条件を加えたもので,その条件は政治的な判断にならざるをえない場合が多い。 放射線量の基準値が平時と有事で異なるのはそのためだ。 リスクは系全体で最小となるようにマネジメントされなければならない。 だから「条件」を巡って議論が起きるのは不思議なことではない。 ただ傍で見てて「それって科学なの?」という思いはあるけど。 私たちはその「基準値」がどのような条件のもとで出てきたのか読み取る必要がある。 それが「リテラシー」というやつである)
また,同記事では日本学術会議哲学委員会委員長の野家啓一・東北大学理事が 6/8 付の日本学術会議第1部ニューズレター巻頭言(PDF)で述べた内容が引用されている。 引用の引用になって恐縮だがここでも挙げておこう。
「そもそも原子力発電は、放射性廃棄物の処理方法さえ確立されていない不完全な技術である。 しかも、いったん事故が起これば、今回のように大気、土壌、水、食料など人間の生存を支える基盤が汚染され、回復不可能な打撃を受ける。 放射性物質は生態系の循環システムの外部にある異質の要素であり、自然界の同化吸収能力の範囲外にある。 そう考えれば、人類は核エネルギーの技術とは共存できないのではないかとの思いを禁じえない。 また、ウランの確認埋蔵量が約80年と見積もられており、放射性廃棄物の処理や廃炉に莫大(ばくだい)なコストがかかるのであれば、次世代に大きな負債を残す原発依存のエネルギー政策からの脱却は中長期的に見て必須であると思われる」 (「日本学術会議が『合意した声』を出せるのは」より)
個人的にはこの内容に関しては「???」な部分もあるが,日本の原発がエコサイクルを確立できてないという点には同感だ。 将来を考えるならクローズドサイクル方式で運用すべきだが日本ではそうなっていない(それを目指してるのかもしれないが現実にはできていない)。 それどころか世界の多くではワンスルー方式になっていて,この傾向は数十年続くとみられている。 もしクローズドサイクル方式が現実的に見込めないのであれば,中長期と言わずスッパリ諦める(そして天然ガス等の代替手段に置き換える)のも手だと思う。
というわけで,学者さんの中でも(トンデモな人はスルーしておくとして)色々な考えや主張があるわけで,見ている私たちはそういった議論を単純な「対立」として見るのではなく,より良い方向を見出すためのプロセスとして監視していく必要がある。 つまり「合意」よりも「合意に至るプロセス」が重要なのだ。 だからもっともっと私達に見える形で議論して行って欲しい。
あっ,でも喫緊の問題は早く片付けてね。