『ふしぎなキリスト教』を読む
最近は本を購入するのに Amazon ばっかり利用しているので,すっかり本屋さんから足が遠のいている。 でも,たまに本屋さんに行くと新しい発見があったりして,まだまだ本屋も捨てたもんじゃないなと思ったりもする。 日常生活に「発見」があることはとても楽しいことだよね(たとえそれが予め用意されていたものだとしても)。
で,今回見つけたのは,石田敦子さんの『球場ラヴァーズ』と,橋爪大三郎×大澤真幸両氏の対談(大澤真幸さんが「受け」というわけではない)による『ふしぎなキリスト教』だ。 『球場ラヴァーズ』はカープ・ファンなら老若男女問わず読んでおけ,と言うにとどめておくとして(めっさ面白かった),今回は『ふしぎなキリスト教』の感想を書いてみる。 (いや,妄想かなw)
なんか帯を見ると15万部も売れてる本だそうだが,今年の5月といえば私は PSN の杜撰さに怒り狂ってた頃なので,こんな面白い本が出てるとはちっとも知らなかった。 この本を大雑把に紹介するなら,両氏の対談を通してキリスト教がどのような宗教であるかを紹介し,更にキリスト教が現在の社会システムや哲学や自然科学などにいかに深く根をはっているかを示す内容である。 でもクリスチャンでもない私が読むと,(キリスト教との差異を知ることによって)むしろ自分の中にある宗教観や世界観を「認識」することになる。 実は,この本の本当に面白いところは,この「認識」の部分にあるのではないか。
昔ちょこっと紹介したことがあるのだが,日本の特徴は「重層信仰(syncretism)」にあるのではなく,「宗教メーカー」から「宗教ユーザー」への働きかけがとても弱いことにある。 そういう状況では「宗教ユーザー」はユーザ同士の「見えない回路」を通じて宗教的儀礼を選択するようになる。 たとえば,朝起きて顔を洗ったり歯磨きをすること。 食事の前に「いただきます」を言い,終わったら「ごちそうさま」を言うこと。 仏壇やお墓に手を合わせる。 冠婚葬祭。 初詣(現在のような初詣のスタイルが定着したのは明治以降だそうだが)。 春秋のお彼岸やお盆。 明治の改暦でなくなったにもかかわらず続く五節句(人日(七草),上巳(桃の節句),端午(菖蒲の節句),七夕,重陽(菊の節句))の行事(国立天文台なんか伝統的七夕とか作ってるし。もちろんそれは宗教的意図ではなく星に親しんでもらうためのキャンペーンなのだが)。 あるいは「世間」「世界」「利益」といった言葉。 そういった断片をつなぎ合わせて私たち日本人は(っていう括りは良くないかもしれないけど方便として読んでね。そういや「方便」も仏教用語だっけ)信仰や世界観を構築していると言える。 そして当然それはキリスト教の「宗教メーカー」が唱える世界観とは似ても似つかないものになる。
ずいぶん前,私は「それは「社会」ではないかもしれない」と書いたが,『ふしぎなキリスト教』を読んでみれば当たり前の話で,「社会(society)」とは突き詰めてみれば「神(God)」と人との関係を指すものであり,「神」のいない(信仰のジャンクアートのような)日本で「社会」が成立するわけがないのだ。 (「社会」という言葉自体が明治期に輸入された外来語だし。やはり日本では「社会」ではなく「世間」と言うのがいちばん近いのだろうか?)
たとえば「ヒトは言葉を話す動物である」というが,単に音声で以ってコミュニケーションを行うというのであれば特にヒトに限るわけではない。 つまり「ヒトは言葉を話す動物である」とは,社会生活の中で見知らぬ他者と情報をやり取りするための「公的言語」を話すということである。 これをキリスト教的な解釈をするのなら,言葉(公的言語)は「神」との契約の証である,ということになるのだろうか。 天地創造における最初の言葉「光あれ」ってやつである。
じゃあ,「社会」を構成し得ない日本人にとって「公的言語」はどのような意味を持つのだろう。 というか,そもそも「公的言語」なるものが成立しえるんだろうか。 日本人は「ケータイを持ったサル」に過ぎないんじゃないだろうか。 でも日本が「社会」を構成せず「公的言語」を持たないなら, GDP 2位とか3位とか言われるパワーはどこから来ているのだろうか。 なんてなことを考えるわけだ。
『ふしぎなキリスト教』にもあるけど,「グローバル化(Globalization, G10N って書いたら違う意味になるかw)」は言ってみれば西洋的・キリスト教的なものによる併呑である。 でも完全に飲み込まれてしまうわけではなくて,「西洋的・キリスト教的なもの」を上位文化とするなら日本を含めた様々なエスニック文化は下位文化と考えることができる。 エスニック文化の中にはキリスト教圏であったりキリスト教と親和性の高いものもあったりするだろうけど,日本のように根本的なところで齟齬がある場合もあるだろう。 そういったときに生まれる葛藤が,上位文化と下位文化の間,あるいは下位文化同士に存在するわけだ。
グローバル化は止められないにしても自分の(国の)中にある日本的なものは手放したくない。 でも「日本的なもの」って一体なんだろう,と考えてしまう。
『ふしぎなキリスト教』にはそういった思いに対する答えはないんだけど,考えるきっかけにはなるかなぁ,と思える一冊だった。