インターネット縁起書としての『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』
『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』読了。 うーん,うーん...
まともな書評が読みたいなら yomoyomo さんの読書録あたりを読まれるのがいいと思う(つか, yomoyomo さんの記事を読んで買う気になったのだが)。 私自身としては,どう評価していいのか分からない。 まぁある意味で好きなタイプの文章であることは確かだ。 でもこれを他人に薦めるかどうかといえば微妙な感じ。
以前も書いたが,私はソフトウェア・エンジニアとして禄を食んでいるが,決してハッカーではないし,ハッカーとしての素養もバックグラウンドも皆無な人間である。 だから, WEC がどうの,カウンタ・カルチャがどうの,と言われても全くピンと来ない。 カウンタ・カルチャについては最初期の「超人ロック」や子供の頃に読んだ「かもめのジョナサン」(五木寛之訳)にそれっぽい描写があったなぁ,といった程度の印象である。 そういったものをウェブやソーシャルにタグ付けされても「どうなん?」って感じなのだ。 多分世の中はハッカーでない方のほうが圧倒的に多いだろうし,(私を含めて)そういう人々への訴求力はあるのかと思ってしまう。
にも関わらず,なんでそれを私が「好きなタイプ」と評するかというと,この本を半分まで読んだ段階で「あっ,これって神話・伝承の類ぢゃん」という印象を持ってしまったのだ(学生時代に天文民俗学から始まって各地の神話・伝承を読み耽ってたりした時期があったので,こういう話は好きなのである)。 こうなると後半もそういう風にしか読めなくなる。 「神話」というのは,その時の為政者が自身の権威を担保するものとして語らせた縁起物語だ。 インターネットに特定の支配者はいないが,この本はインターネットのこれまでを「神話時代」と位置づけ,今を神話時代の終わりと位置づけることで何らかのピリオドを打とうとしてるんじゃないかと邪推したりする。
例えば,第5章では Facebook についての記述がある。 Facebook が学生間のヒエラルキーを誇示するための「顔写真付きのクラス名簿」から一気に世界をターゲットにした拡大路線に転換した背景には「アエネーイス」があるとしている。 確かに欧米の人にとって古代ローマの建国神話はロマンティックで心踊る内容かもしれない。 しかしこれを実際の社会に置き換えれば,現代における典型的な社会問題と解釈できる。 すなわち「融和」などというロマンティックなものではなく「包摂」(そしてその裏面としての排除)なのである。 実際に Facebook の「実名問題」はサービス内におけるユーザの行動規範を実名というルールによって包摂する(そしてルールに従わないものを排除する)ことであると考えられる。 まさに実社会における「過剰包摂(bulimia)」(共食いするように包摂し嘔吐するように排除する社会)の雛形なのである。
第8章では Twitter についての記述がある。 この章ではアノニマスに関する言及が目を引く。
「Twitter におけるアノニマスには、実社会で適用している特定の個人名を明かさずに偽名=ハンドル名を使う場合もあれば、実質的に集団行為であるがゆえに個人を特定できずに集団名を使う場合もある。 そこに自動プログラムであるボットが加わる。
アノニマス=匿名性は、カウンターカルチャーの文脈では、意識の解放による精神の一体化の帰結の一つとして解釈できる。 だから、匿名性を操れる Twitter のほうが、顕名性を保持する Facebook よりもカウンターカルチャー的であるということもできるだろう(ウェブ全体を一つの脳に例えるような視点だ)。
(中略)
しかし、翻ってみれば、アノニマスが混在する状況はむしろウェブ全般の特徴でもあったはずだ。 そして、だからこそ、 Facebook のような顕名サイトが一種の避難所のように選択されることになる」 (『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』 p.247-249 より)
しかし,実際には Facebook は実名をキーとして(アノニマスな領域を含めた)ウェブ上の活動を「名寄せ」しようとしている。 「Facebook のような顕名サイトが一種の避難所のように選択される」というのは強い違和感がある。 引用の文脈でアノニマスな領域を構築・維持してるのはむしろ Tumblr や Freenet の Sone や Flog のほうじゃないかって気がする。 (参考:「情報流通の基盤は web of trust の上に構築される」)
『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』は全体的に楽天的ですらない強いロマンチシズムに覆われている。 それがこの本をして「神話的」と思わせている要因なんじゃないだろうか。 ロマンチシズムは過去または内向きに働く力だ。 Linux の話(p.66)にしても,20世紀末のフリーソフトウェア運動の延長としての活動と21世紀に入って企業も巻き込んだ協働ととでは “Linux” が意味するものも(社会的には)違うはずである。 そういった部分の差異を分析していかないと次のインターネットやウェブやソーシャルは見えてこないんじゃないかなぁ。
まぁ(最初に書いたように)そういうのを全部チャイして,単純に物語(narrative)を楽しむのであれば面白い本ではある。
最後に... 頼むからこの手の文章を縦書きにするのは止めてくれ。 英単語混じりの文章を縦書きで読むのは辛いんだってば。