「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」
これは私の言ったことではないし,ちょっと古いトピックなのだけど,最近 Facebook で新しい「友達」も増えたことだし,紹介を兼ねて書いてみる。
まずは memorandum@tumblr. の2010年12月14日の記事を読んでみて。
Facebook などでよく見かけるようになった「いいね!」。 これは英語の “like!” の訳語として使われることが多い。 確かに私たちは中学英語で “like” を「好き」と習うし,そのニュアンスでいくと「いいね!」と訳すのは悪くない選択ではある。 でもそれじゃあ “like!” の機能を半分しか表してないんじゃないかという話。
「likeには「好き」という意味の他にもhowとの組み合わせで「それについてどう思うか」という意味もあります。 たとえば、お母さんが子供に”How do you like school?”と聞く場合、それは「学校は好きか?」ではなく「学校はどう?」になります。 これは肯定的な意見も否定的な意見も両方込みで質問しています。 ”How do you like it?”は「どうだった?」、です。
likeボタンを押す、という行為は、その文章なり画像なり動画なりに「興味がある」ことを意味します。 それは必ずしも肯定的意見とは限らないかもしれません。 なので、その対象物に「いいね!」と評価していないケースもあり得るのです。」 (memorandum@tumblr. より)
でも勿論 “like” には「好き」という意味もある。 そこに “like!” の絶妙なマジックがある。
「likeボタンは「対象の良し悪し」を判断する一歩手前の段階、「その対象に興味がある」状態を抽出することができます。 とある記事のlikeが500の場合、その記事に「興味を持った人」が少なくとも500人いる状態になります。 けれども、likeには日本語の「いいね!」の意味も含まれているので、それが高評価されているようにも見える。 評価が上がれば人の目に触れる機会も増えるので、良い循環を創り出すことができます。 likeボタンは読み手が倫理的価値判断を行う前にレイヤーを一層追加することに成功しているように見えます。」 (memorandum@tumblr. より)
なんで今になってこの記事を紹介しているかというと, Facebook を「いいね!」を押し合う馴れ合いの閉鎖的共同体のようなイメージで語る記事を見かけたから。 「それはちゃうやろ」と思ったから。
Facebook に限らないけど, SNS にはどうしても結社的なイメージが付きまとう。 でもそれは道具の問題じゃなくて,本当は使う人間の問題だったりする。 どんなサービスでも使う人間が「馴れ合いの閉鎖的共同体」として使えばそうなるし,「出会い系」として使えばそういう風に使えてしまうのだ。 優れたサービスはそうした使い方も許容するものだ。 (mixi みたいにイレギュラーを排除していくやり方だと,いずれ人は居なくなる。 完全なシステムは人を排除する方向に働く。 でも人の作ったシステムは人のために働かなければ意味がない)
でも私は Facebook をそういう風には使いたくない。 仕事仲間の間では Facebook がパーソナルブランディング(あるいはセルフブランディング)のステージとして使える,という見解で一致している。 実名登録を要求したり,知らない相手との「友達」関係を推奨しないといったあたりもこの目的に合致している。 「友達」関係や「いいね!」の履歴も全部ひっくるめて自己表現なのである(故にプライバシーとの線引きが問題になるのだが)。
参考: Facebookと〈私〉
(ペンネームやニックネームで活動している方はどうすればいいのかというのは問題なんだけど(これは例の「春の BAN 祭り」にも関係するけど),最新の Facebook で Facebook ページが「人格」を持てるようになったことで改善するかもしれない。 まだ時々動きがおかしいんだけどね。 ただ匿名で活動したい人あるいは匿名で活動しなければならない人には Facebook は向かない。 当たり前だけど)
最近「キュレーション」なる言葉が流行ってるそうだが(一応本も買ってみたけどまだ読んでない),どうもいまひとつピンと来ない。 「Web 2.0」同様2,3年したら古語になってしまいそうな気もする。 今の時代,ネット上で活動する人はみんなキュレータなのであって,そうなるとむしろ「誰が」に意味がなくなるんじゃないだろうか。 Twitter なんか典型的で,リアルの知り合いとかマーケティングに使ってるとかそういうのを除けば,ある人を follow するかどうかは自身の TL の内容や量をチューニングする手段でしかない。 つまり「誰が」ではなく「何が」がより重要ということだ。 「いいね!」も同様で「誰が」は大したことではなく「何に」がより重要。 「いいね!」ってのは全体としてみれば「関心」を軸にした結合子のようなもので,その結合の構造によって「文脈」が構成されることに意味があると思う。
そういう点で「いいね!」を今のところ最もうまく実装しているのは,実は「いいね!」ボタンとかじゃなくて, reblog なんじゃないだろうか。 ちうわけで,やっぱり私のメインの遊び場は Tumblr である。