それは「社会」ではないかもしれない

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またも思いつきで書いてみる記事。

「ねとすたシリアス」第1回後篇を観たから, というわけでもないのだが, 現在再読中(2007年に買って少しだけ読んで放置していたのだ。色々あったんだよ)の 『ウィキノミクス』 の以下の部分を(ちょっと長いけど)抜き出してみる。

「トライブやライフジャーナル、マイスペース、フェイスブックなどの SNS については、 カルフォルニア大学バークレー校の社会学者、ダナ・ボイドが行った大規模調査が参考になる。 ボイドは社会的な技術の利用に関し、 深く掘り下げて真実を発見する人物としてウェブで高い評価を受けており、 ボイドの「民俗誌」説にはかなりの信奉者がいる。
ボイドは先日、 アメリカ科学振興協会で行った講演で、 一〇代の少年少女にとってマイスペースはプライベート空間なのだと説明した。 「家族や学校をはじめとする活躍の場、ほとんどすべてが大人に管理されています。 ティーンエージャーは、どこにいろ、何をしろ、どのようにしろと言われてばかりなのです。 家族でも自分の意が通らず、自宅をプライベート空間だと思わないティーンが増えています」
いま彼らがプライベート空間だと思う場所は、 多くの若者が集い、 仲間とつながりをもち、 自分たちの共有空間をもつことができるオンラインの場が増えている。」 (p.78-79)

ちなみに 『ウィキノミクス』 の原著は2006年に出版されていて (翻訳された 『ウィキノミクス』 は2007年出版), 現時点から見るとちょっと古びて見えるかもしれない。 でも 『ウィキノミクス』 でも書かれているように

「実は二〇〇六年は、プログラマブルウェブが静的ウェブに全勝した年である。 フリッカーがウェブショットを圧倒し、 ウィキペディアがブリタニカを圧倒し、 ブロガーが CNN を圧倒し、 エピニオンズがコンシューマーレポートを圧倒し、 アップカミングがイーバイトを圧倒し、 グーグルマップがマップクエストを圧倒し、 マイスペースがフレンドスターを圧倒し、 クレイグスリストがモンスターを圧倒した。」 (p.63)

のである。 昨年後半からの世界的な景気後退の要素を除けば, 当時から状況はそう大きく変わってないわけで(だからこそより冷静に見れる), 先の引用部分について考えることは意味のあることだと思う。

引用部分で紹介している「一〇代の少年少女」の様子は日本のケータイを中心とした子供たちの様子とよく似ているように思える。 これで連想するのが 『ケータイを持ったサル』 である。 この本の感想は以前に書いたが, ここでいう「サル」は皮肉でもなんでもなく, ニホンザルやチンパンジーなどの猿の群れの生態とケータイを中心とした若者の生態が「社会を構成していない」という意味でほとんど同じ, ということを指していて, 『ケータイを持ったサル』 の著者はこの現象を悲観的に捉えている。 しかし, プラットフォームは違うにせよ, こういった「若者の生態」が日本に限ったものではないとするならば, このことをもっと積極的に評価したほうがいいんじゃないだろうか。

そういえば, 前に紹介した 『アーキテクチャの生態系』 の第三章では2ちゃんねるを題材に日本社会論めいた話が展開されている。 その中で「繋がりの社会性」といった言葉や「集団主義」や「安心社会」といったキーワードが並ぶのだけど, いずれも核心を突いていない印象があった。 もしかしたら, そもそもそれは「社会」じゃないんじゃないの? という疑いを私が持ち始めているからかもしれない。 随分前に私は 「「繋がりの社会性」は繋がりを指向しない」 と書いたけど, 本当はそうではなくて「「繋がりの社会性」は社会性を指向しない」というのが正しいのかもしれない。 そこにあるのは「群れ(cluster)」であって「社会(society)」じゃないんじゃないのか。 で, その核心にあるのはネットにおける (いや,ネットに限らないかもしれないけど) 公的領域と私的領域との境界の揺らぎにあるんじゃないんだろうか。 (以前紹介した『日経サイエンス』 2008年12月号の特集記事の中にあった「プライバシーに無分別な若者」の話もここに関わるように思う)

「ねとすたシリアス」を観てて思ったのは, 日本のソーシャルウェア (『アーキテクチャの生態系』 で定義されている言葉) は「コミュニケーション志向メディア」としては機能しているけれど, その内実は「ソーシャル」ではなくむしろ「クラスタ」に近いということだ。 しかも「コミュニケーション志向メディア」でやりとりされるものを「社会」へ還元するラインが非常に細いか断たれている感じ。

この前「ザ☆ネットスター!」の4月号をたまたま見たのだが, 「あの楽器」 の特集は印象的だった。 なんというか, エンジニアの端くれとして非常にもどかしいのだ。 例えば chumby のハードウェアにはオープンソース的な「集合活動」を経て製品へと結実するプロセスがあった。 でも「あの楽器」を巡る活動では, あくまでも各人の「作ってみた」で留まっている感じで, その先へ行く道筋が(少なくとも「ネトスタ」の特集からは)見えない。 むしろ先へ進むのを嫌がっているようにさえ見えてしまう。

内向きの遊びももちろん悪くないし, 中には本当にすごいことをやってしまう人もいるけれど, そこから社会的な何かへ昇華していかないっていうのは今の日本の社会的な問題なのかもしれない。 何がそれを阻害しているかってことだよね。

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ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)
正高 信男
中央公論新社 2003-09
評価

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805)) 天才はなぜ生まれるか 子どもはことばをからだで覚える―メロディから意味の世界へ (中公新書) 他人を許せないサル (ブルーバックス) 父親力―母子密着型子育てからの脱出 (中公新書)

by G-Tools , 2009/04/24

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アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
濱野 智史
エヌティティ出版 2008-10-27
評価

思想地図〈vol.2〉特集・ジェネレーション (NHKブックス別巻) グランズウェル ソーシャルテクノロジーによる企業戦略 (Harvard Business School Press) 歴史の〈はじまり〉 サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書) 続 基礎情報学―「生命的組織」のために

by G-Tools , 2009/04/24