『アーキテクチャの生態系』を読む
「ねとすたシリアス」で推薦されていたので, 今更ながら買って読んだ。 のだが, 感想は「う~ん」な感じ。 「ねとすたシリアス」第1回前篇を先に観たので, 先入観があるのかもしれないが, そもそも私の中でこの手の話は興味の中心から外れているのかもしれない。 結局「生態系」が何を指しているのか最後までピンと来なかった。 なんか話の流れがしりとりゲームみたいなんだよね。 もしくはパッチワークみたいな感じ。 だから読んでいてすごくストレスがかかる。 ひょっとして最後の章から逆順に読んでいくほうが分かりやすいとか? あとがきを読むと, WIRED VISION の連載が元になっているとのことなので, それでとりとめなく見えるのかなぁ。 よく分からん。 以下, 内容をつまみ食いをしながらぼつぼつ感想を書いてみる。
全体的に「日本」にこだわりすぎている気がするのだが, どうだろう。 例えば第八章で 「なぜ米国におけるネット現象が日本のウェブ上に起きないのか」 と問題提起があって, 以降長々と説明があるけど, これを説明するのは至極簡単で, 単に日本と米国との「変化」の速度差で説明できるだろう。 変化が速ければ (『アーキテクチャの生態系』で言うところの) 「進化」の可能性も増えるわけで, 変化の遅い日本で後追いの L10N (localization)に留まるのはむしろ自然なことだ。 mixi だってニコ動だってみんな日本向けの L10N に過ぎない。 今の日本で特異な現象と言えるのは (『アーキテクチャの生態系』で紹介されている中では) ケータイ環境くらいだろう。 (もっともケータイ小説はすっかり廃れている感じだけど)
第七章の前半(初音ミク現象の話)で, Wikipedia やオープンソースといった単語が出てくるが, そこまで出てて, なんで Wikinomics が出てこないのかが不思議。 これは「ねとすたシリアス」第1回前篇を観た時にも感じたのだが, 何か理由があるのだろうか。
そういえば, 第七章の前半を読んでいて何となく既視感があったのだが, 以前自分で
「「文系のオープンソースの道具」が欲しい」(p.163-168)では具体的な道具立てについて検証しているが, 「文系のオープンソース」が難しいのは, 道具の問題ではなく, 「外部とも交換可能な評価基準」が無いからだと思う。 芸術や文芸といった分野は評価や価値がもっとも多様化している分野でもある。 無理に境界を作っても衆愚に陥るか島宇宙(=リアルが切断された異世界)化してしまうかのどちらかである。 こういうときは Creative Commons 的なアプローチがよいと思う。 まず置き場所(Commons)を作って, その置き場所へのアクセスを誰でも容易に行うことのできる手段を提供するのである。 Flickr や YouTube などはそういう風に設計されている。 そうすれば,あとはユーザが勝手にそれで遊びだす。 遊び道具を与えるのではなく, 遊び場所を開放するのである。 遊び場所さえあれば道具なんか勝手に作られる」
ってなことを書いていた。 『アーキテクチャの生態系』 では「限定客観性」と書かれている。 限定的なのに客観性も糞もないと思うのだが, う~ん。 これって要するに注目度(attention)が指標になっているってだけの話でしょ。 ニコニコ動画は(おそらく2ちゃんねるから学んでるんだと思うけど)もともと動員をかけやすい設計になっていて, それにうまく乗っかってるってところだと思うけど。 ある「もの」に対して「誰が」ではなく「どうした」という部分をよりデフォルメして匿名的に人を集めていくってのは「動員」の基本だよね。
(周りでは結構いるが)私自身は2チャンネルをほとんど利用しないし, 高年齢化という話も聞いてるし, すっかり「終わってる」感が漂うのだが, どうだろう。 「グーグルなしで成長したソーシャルウェア」とか書かれてもピンと来ないんだよね。 私は Google などの他のサービス経由でしかアクセスしたことがないし。 確かに日本のネットの歴史を語る上で2チャンネルは外せないだろうけど, 現在においてはどの程度の影響力があるのだろう。 『アーキテクチャの生態系』 を読んだ限りでは, その辺が今ひとつ分からなかった。
ん~, こんな感じかな。