「ねとすたシリアス」を観る
「ねとすたシリアス」を観た。 面白かった。 本当はこういうのを TV でやって欲しいんだけど, まぁ YouTube でいいや。 こっちの番組は期限切れたら削除するとかいうのは勘弁して欲しい。 せっかく面白いんだから。
あっち方面の情報に本当に疎くなってきた。 特に昨年の夏ごろから 『排除型社会』 およびその続編である 『後期近代の眩暈』 を読みはじめてから, 関心がそっちのほうに移っちゃってるんだよな。 とりあえず(今更だけど)『アーキテクチャの生態系』は Amazon で予約した。 ここでは「ねとすたシリアス」第1回前篇を観た印象を覚え書きとして書いておく。 以下に書くことは, 『アーキテクチャの生態系』を読んだらガラッと変わるかもしれないけど, まぁそういうもんだということで。
私はニコ動のアカウントを持っていないので, 前篇前半のニコ動に関する話は興味深かった。 しかし, 「なんで YouTube にはニコ動のようなコメント機能がないんだ」 という部分で単に文化の差の問題として片付けられているのが気になる。 ニコ動を外側から見ている立場としてあえて言わせてもらうけど, ニコ動はユーザの活動(Action)がニコ動内部で完結してしまってるんだよね。 それは文化の問題じゃなくて, ニコ動のサービスがそのように設計されているということ。 そしてそこが Flickr や YouTube との決定的な差である。 Flickr や YouTube はユーザの活動がサービスの外側に拡散することを意図して設計されている。 つまりサービスの中を見ただけではダメで, コンテンツが外側にどのように拡散し, それを人々がどのように消費しているかといった(サービスの枠を越える)もっと大きな系で見ないといけない。 ニコ動と比較するなら YouTube よりむしろ Tumblr のような閉じたサービスではないだろうか。
あと日本語の話。 まぁ余談みたいな感じなのでいいんだけど, なんだかなぁ, と思ってしまう。 以前も紹介したけど, 「日本文化はすでに世界遺産」 なんて言う人もいるわけで, もう一度引用するけど
「こう考えていくと、日本文化は、すでに日本人だけのものではなく、世界のひとびととシェアーしなければ、ならない存在になっていると、わたしは、思うのです。 日本文化の価値を外国人がよく知っていて、日本人が忘れている、というのが、リアルなありようではないかと、思います。」
というわけで, (おそらくアニメも含めて)日本文化や日本語は, 向こうの人たちにとってみれば, 文化的活動を行うための消費財のひとつに過ぎないってことだと思う。 「多文化主義的言語論」でも書いたけど, 世界から見れば日本文化は数あるエスニック文化のひとつであり, 日本語は数ある現地語のひとつでしかない。 そもそも世界はとっくの昔に「グローバル化」の名のもとに文化的に包摂されているのであり, 日本文化なるものはそこからの差異なのである。
前篇後半の部分を見ていて思いついたのは Wikinomics という言葉だった。 なんでそこに言及されないんだろうと思ったが, もう世の中は Wikinomics なんてなかったことになっているのかな? 不特定多数のマスコラボレーションによる創作というのなら, それはもう Wikinomics そのまんまじゃん, と思ったのだが。
もうひとつ思ったのが, 私たちは今も昔も本当にコンテンツにお金を払っているのだろうか? ということだった。 いや, 確かに本や絵画などは形あるものだし, それを所有するというのはすごく分かりやすいし, そういう観点ではコンテンツにお金を払っていると言えるのだろうが, でも私たちの本当の目的は「それ」を所有することではないよね。 「それ」を観て読んで聴いて何かを感じたり活動をはじめたりすることじゃないの? 活動するための敷居がどんどん下がって, 消費と活動が渾然となり, その中でコンテンツが解体され再構築される。 お金を払っても維持したいのはそうしたプロセスじゃないのかな。 (そういえばこの話, 随分前に書いたな)