多文化主義的言語論
そろそろ沈静化したかな。 例の梅田望夫さんの紹介記事はたまたま私も読んだけど, (記事を見る限り)あまり面白そうな本には思えなかったのでスルーしていたのだが, その後の展開が面白そうなことになっていた。 もっとも私は「はてな」のサービスはまったく使わないし, 彼の Twitter タイムラインも follow してないので, Tumblr に漏れ聞く話から想像するしかないんだけど。
梅田望夫さんの紹介記事を読んで連想したのはむしろ 『排除型社会』 にしばしば登場するエスニック・グループの話だったり。 なので, (本来はブログに書くような内容じゃないけど)今回はそういう方向で覚え書き用に書いておく。
わざわざインターネットを持ち出すまでもなく, 日本と英語の関係は企業などを中心に見回せばわかる。 外資系の企業や外資が入ってる企業はとっくに公用語が英語になっている。 たとえ外資が入ってなくても小さな会社でも, 「世界」を視野に企業戦略を考えるなら英語(や中国語など)を無視するわけにはいかない。 広島という辺境の地方都市に住んでいても, 日本語以外の言語によるコミュニケーションを意識せざるを得ない(私はそゆの不得手なのに)。 地方都市ですらそんな状態なのだから, 東京や大阪などの大都市ではもっとそうだろう。 そういえば知り合いが, 久しぶりに東京から広島に戻っていちばんビックリしたのは, 早朝のコンビニやファーストフードの店員が日本人だったことだ, と言っていた。
10年以上前の話だが, ある外資系の企業に詰めていたとき, そこに勤務しているインド人の方と話をしたことがあるが, 向こうで最も流通している言語は英語だと言っていた。 インドは部族間での言語の違いが大きく(部族が違うと言葉が通じないと言っていた), 最終的にいちばん通じるのは英語なんだそうだ。 (もっともインドは階級による貧富の差が大きく, 当時日本に来るようなインド人はアッパークラスの人ばかりなので, インド全体での実態がどうなのかはよく分からないが。 そういやその人の喋る英語は私にはヒンズー語っぽく聞こえてしまって(そうでなくても英語は不得手なのに)なかなか聞き取れなかった思い出がある)
ソフトウェアの世界では Perl の Jcode なんかより TeX の歴史をみたほうが分かりやすいだろう。 Babel プロジェクトとか(今の人は TeX とか使わんか)。 私も昔ちょっと書いた(PDF,現時点からみると古い内容を含んでいるので注意)ことがあるが, 文字集合や文字エンコーディングにおける日本語の立ち位置は昔から微妙で(CJK 統合問題とか象徴的だが), そのために様々な方が尽力されていることは覚えておいたほうがいいだろう。
日本語を通じて「日本文化」を見ていくと, 世界中に数多あるエスニック文化のバリエーションのひとつでしかないことがわかる。 そこから文化的なアイデンティティを求めていっても多文化主義的な言説(多文化主義的エポケー)に陥るだけである。 今や「日本文化はすでに世界遺産」なんてなことを言われているのが「日本文化」なのである。 そもそも文化ってのは「変容し雑種(ハイブリッド)化を繰り返すプロセス」であり, それに伴って言葉のあり様も変わっていって当たり前なのだ。 でもそれで「日本文化」が死ぬわけではない。 大野安之さんの名作「ゆめのかよいじ」にもあるじゃない。 「時ってさ… とける とか とかす っていう言葉ともとは同じ/ものがたえず変わって流れていくことをいうの」 ってさ。
ちわけで, 続きは「『排除型社会』を読む」をどうぞ。