いくつかの戯れ言

no extension

ひとつひとつではネタとして軽いけど, まとめて書いたらちょっとはブログ記事っぽくなるかな? って感じで。

組込みであることの要件

最近また組込みの仕事をしている。 まぁ短期のお助け仕事だけど。 で, メモリ管理の方法で悩んでいるわけだが(これはありがち), その過程の調べ物で以下の記事を見つけた。

まぁ記事自体が2000年頃のものだし, 組込みの話というわけでもないので, 内容自体には文句はないのだが, 「exit() すればいいぢゃん」という発想には「くすっ」となってしまった。 いい息抜きをありがとう。

いや, 組込みの定義って難しいかもしれないけど, 組込みとして要求されることのひとつは「終了しないこと」なんだよね。 もう少し厳密に言うなら, どんなときでもコントロールされた「状態」のひとつに入ってること, である。 強いてコントロールできない状態を挙げるなら, それは電源の供給を絶たれたとき(バッテリーの電圧低下等も含む)である。 例えば exit() という関数はあってもいいけど, その関数を呼び出すことによってどういう処理が行われ, どういう状態に遷移するのか, といったことが厳密に定義されていなければ「設計した」ことにならない。

exit にせよ abort にせよ, それによってアプリケーションとしての「自身」を放棄し「他者」に状態とコントロールを預けてしまうような動作は, もはや「組込み」とは言えない気がする。 そういう分類の仕方をすると「組込み」と呼ばれている製品のいくつかは実際にはそうとは思えない構成だったりすることが多い。 例えば最近の携帯端末はオンラインでファームウェアを書き換えることができる。 ユーザにソフトウェアのロードやリセット等の操作を要求するシステムを「組込み」と呼ぶのは適切なんだろうか。

まぁ, でも, 「組込み」とそうでないものの区別はどんどん曖昧になっていくだろう。 それはきっと「パソコン」の黄昏と連動している。 「パソコン」は目的別により細分化された PC (Programmable Controller)に置き換わっていくはずである。 そうなったときにエンジニアの居場所はどこにあるんだろう。 よりハードウェアに近い場所か, それとも「雲」の向こう側か。

Web 2.0 の黄昏

「クラウド化する世界の憂鬱」のあとで 「やっぱりバブルだった「ウェブ2.0」」「Web 2.0のジレンマ」 とかいった記事が出てくると「こりゃ何の暗合だ」と思ってしまうのであるが, とりあえず私にとって今一番面白い遊び場である Tumblr には是非生き残ってほしいと思うのだった。 (Flickr みたいに定額制にするのならお金払うよ!)

上の節にも連動するが, Web 2.0 というバズワードがもたらしたものは「エンジニアでない人たちの台頭」だと思う。 コードが書ける・ものが作れるというだけではエンジニアとは言えないわけで, エンジニアを名乗るからにはターゲットに対して最善の実装を行おうという自負があるはずである (そういう意味で私自身がエンジニアと名乗っていいのかどうかはちょっと疑問だが orz)。 これは悪いことではなく, 可能性の幅を広げるものとして作用している。

例えば(Web 2.0 じゃないけど) Winny の実装なんてまっとうなエンジニアなら思いつきたくない(思いついても実装したくない)。 著作権云々以前にユーザから見てコンテンツが uncontrollable になるなんて恐ろしすぎる。 でも Winny のような実装が(著作権的にもセキュリティ的にも問題視されているのにもかかわらず)受容されているのは, まさにエンジニアが「恐ろしくて手を出せない」部分, 場所や帰属を不定にすることによって不特定のユーザに(いいものも悪いものも安全なものも危険なものも)届きやすくしている部分だ。 かつて Web 2.0 と呼ばれた一連のトレンドは, 結局は(Winny ほど過激ではないにせよ)「場所を不定にする」ことに向けた動きだった (故に日本で流行のサービスによってコンテンツを囲い込むような動きは時代に逆行していると主張しておこう)。 そして更にその延長上にクラウドがあると考えるほうが分かりやすい。 その波の先端に乗っかっている人たちは必ずしもエンジニアではない。

「クラウド化する世界の憂鬱」では, 「IT と電力のアナロジーに立ち戻り,電力がユーティリティーサービスとなるまでの歴史」がちょっとだけ紹介されている。 エジソンの直流送電システムは最終的にテスラの交流送電システムに敗れてしまうのだが, そんな瑣末な話はさておき, この電力供給システムは, それまで支配的だったガスの供給システムをそっくり転化したものであり (更にさかのぼれば水道システムにまでいくが), 近代においては薪・油の自前調達からガス一括供給へのパラダイムシフトの中である種の葛藤があったと 『闇をひらく光』 には記されている。 少し引用してみよう。

「家庭が集中ガス供給システムと結びついたことは、 家庭での自給自足の終結を意味した。 熱ランプは、 それまで光熱設備をもっぱら家の内部に集中させていたが、 それがいまや外部に、 つまり家長にはもはや監視できない遠隔地に移されることになった。 公共のガス供給によって、 家庭用照明は産業段階に入った。 光熱の自家生産をやめた家庭は、 さながらへその緒で産業的なエネルギー生産者と結びつき、 彼らに依存することによって、 いわば禁治産の宣告受けたのである。」(p.29)

『クラウド化する世界』はまだ読んでないけど, 巷で言われる「クラウド化」の言説を追いかけると, それは結局, 人類がかつて経験したパラダイムシフトへの葛藤を(エネルギーを情報に置き換えて)追体験しているだけのような気もする。

垂直型コモンズ vs. 水平型コモンズ

昔 Tumblr で書いた(1年以上前の)テキストを検索で偶然拾ってしまった。 自分で書いた記事なのに「なんていいことを書くんだ」と自画自賛してしまった。 アホだ, 私。 当時は「ブログにするまでもない」ということで書き捨てたものだが, 今回の話の流れに乗せて再度書いてみようと思う。

発端は以下の PDF 文書。

ここに挙げられている著作権の問題点の3番目が興味深かった。 ちょっと長めだが引用してみよう。

「3 つ目の問題点は、権利者から許諾を取ろうと思っても、権利者の連絡先を調べる手段が乏しいことである。 著作権には、特許権などと異なり、登録制度がほとんど普及していないため、権利者を探すことは非常に困難である。 そのため、許諾を取ろうにも権利者を見つけることができず、新しい創作活動やビジネスをあきらめた例も多い。
(中略)
現在、権利者団体や経済界が協力して、権利者や連絡先などを集約した著作権のポータルサイトを作ろうという機運が高まっている。 そのこと自体は大変歓迎すべきことであり、これによって簡易に許諾を取れるシステムが成立すれば、世界でも類を見ない優れた環境が整備されるだろう。 しかし、実際にそれがうまく機能するかどうかについては、検証しなければならない点は多い。 なぜならば、ここ数年来、集中管理団体を整備しようとする努力が行われてきているにもかかわらず、実際にはほとんど進んでいないのが実態だからだ。
その理由は、権利者を一つの団体に取りまとめ、統一のライセンス・プログラムを作ることの手間が想像以上に大きいことにある。 権利者を探し出し、作品をリストアップするだけでも、かなりの手間が掛かる。 作品の管理状況なども、作品分野によってまちまちであり、その上、先に述べたように近年増加傾向にある分野を越えた著作物については、だれがどのように管理するのかについての団体間の調整も明らかではない。 いずれにせよ、ポータルサイトや集中管理ですべての権利処理がうまくいくようになるには、相当の努力が必要であると考えられる。」

私はこの部分を読んで何故か PKI (Public Key Infrastructure)を連想してしまった。 公開鍵暗号方式の公開鍵を管理する方法は大きく分けて2つ, X.509 (SSL 等で使われる証明書の PKI はこれ)のような垂直型の hierarchical PKI と, OpenPGP のような水平型の web of trust である。 垂直型の PKI は頂点にある認証局(CA)が権威的に振舞うことで下位の CA や証明書に信用を与える。 垂直型の PKI は構造が分かりやすいが構築と維持にコストがかかる。 水平型の PKI には中心と言えるものがなく, ユーザ同士の関係の中で信用を構築していく。 水平型の PKI は構造が分かりにくいがコストが分散されるため構築しやすい。

この PKI の構造をそのまま援用するなら, 引用の中で書かれている「著作権のポータルサイト」は垂直型の構造になっている。 ニコニ・コモンズは最小構成の垂直型コモンズ(以前私はこれをディズニーランド型コモンズと呼んでいる)と言える。 一方, Flickr のようなサービスは(CC-license を道具とした)水平型コモンズであると言える。 垂直型は「権利者」同士の利害調整には優れていているが, 基本的に「利用者」は排除されているためお互いがお互いに相対的剥奪感を抱くことになる。 水平型は利害調整者がいないので揉め事も多いが(実際 Flickr では著作権をめぐる揉め事が時々起こる), 現在の「場所を不定にする」トレンドにはこちらのほうがむしろ向いている。

垂直型と水平型はどちらが優れているというものではなく, お互いに相補的に機能しうる。 フェアユースを含めた最近の著作権法をめぐる議論は, こうした背景も頭に入れた上で考えないと, 単なる利害の押し付け合いになってしまい, 声の大きいほうが通るという最悪の結果になりかねない。 (実際「ダウンロード違法化」はそんな感じだったけどね)