『排除型社会』を読む
いやぁ, たかだか500頁ほどの内容を読むのに3ヶ月もかかってしまった。 といっても, 実際には通勤の行き帰りとか, 休日(の PSU に飽きたとき)とかにちょっとづつ読み進めてたので時間がかかっちゃったんだけど, それ以外にも読んでる途中で考え込むことが多くって。 私にとってはレッシグ教授の 『CODE』 以来のインパクトかもしれない。 (そういや, まだ 2.0 を買ってないや)
この本を読むことになったもともとのきっかけは, 宮台真司さんが例の秋葉原通り魔事件のコメントとして
「最大の問題は社会的包摂性で、これは格差に還元できない社会的相続財産の問題です。」
と書かれていたことである。 そこで宮台真司さんの言説を追うんじゃなくて, 社会的包摂に関する EU の取り組みとかを追いかけはじめて, この本に辿り着いちゃうんだから, 我ながら変な奴である。
本当はここから感想を長々と書いていくつもりだったが, やっぱり短めで済ませておくことにした。 というのも, この本の続編ともいえる 『後期近代の眩暈』 を既に購入済みで, これからまさに読むところだからだ。 何ハマってんだか, 私(笑)
まず 『排除型社会』 の前提条件として, この本の原書は1999年(つまり「世紀末」)に出版されている点を挙げておく。 したがってここ10年で最大のインパクトである 9.11 などの話は出てこない (インパクトといえばここのところの株暴落も世界が変わるほどのインパクトになりそうだが)。 この本は1960年代後半ないし1970年代以降を「後期近代(Late Modernity)」と位置付け, それ以前の前期近代(または単に近代)を包摂型社会, 後期近代を排除型社会としている。
「近代の社会契約は、もはや失効した。 それは、ある面では正しく理解されなかったためであり、ある面では世界が変わってしまったためである。 (中略) 近代の目標は、絶対的剥奪をなくすことであり、社会的合意にもとづいて様々な機会を創出することであった。 後期近代の目標はそれと異なり、相対的剥奪をなくすことであり、能力主義で多様性を受容する社会への移行をつうじて自己実現とアイデンティティを充足させることでなければならない。」 (p.499)
しかし, 現状の社会は相対的剥奪感に満ちていて, 能力主義がうまく機能せず不平等で, 多様性を排除するかたちでそれぞれの文化的価値観に引きこもっている。
(相対的剥奪感ってなんじゃら? と思われるかもしれないが, そこは本を読め。 って言うんじゃあまりにもアレか。 要するに同じようなクラスの人たちの間で発生する格差に対する不満と言った感じかな。 最近流行りの「下流」も相対的剥奪感からくるものだ。 ちょっと引用しておこう。
「中道左派の政治家の多くは、社会的包摂は経済的包摂によって達成できると信じているようだが、実際はそうでないのだ。 私が本書のあちこちで強調しているように、社会から排除されていると感じている(そして相対的剥奪感をもっとも強く感じている)人々の多くは、仕事に就いている人々なのである。 そして、失業者の多くが仕事に就くことに抵抗する理由は、それらの政策が能力主義的な観点から見て不公平であることを、かれらがきわめて現実的に感じ取っているためである。」 (p.471-472)
働かなければアンダークラスとして周辺化されるだけで相対的剥奪を感じることはない。 俗に言う「働いたら負け」ってやつだ。 これで多少はイメージがつかめるだろうか。 あとは本当に本を読め)
著者のジョック・ヤングさんは犯罪学の分野で有名な方だそうで(そんなことも知らずに読んでたり), 犯罪に関する記述にかなりの頁が割かれているが, 個人的に印象に残ったのは排除型社会の文化的側面である。 もともと(前期)近代における「包摂型社会」とは, 特定の社会システムと特定の文化的価値感(つまり「大きな物語」)に人々を組み入れようと(包摂しようと)するプロセスを指している。 この典型例がアメリカという国だ。 その結果, 上位文化は文字どおりアメリカナイズされたが(文化的包摂), 同時に多様な下位文化を生み出すことになり, 下位文化の「本質」同士の差異を巡って社会的排除が(文化的包摂と)同時に進行する。 これが「多文化主義」の正体だ, というわけである。
『排除型社会』 で登場する事例はアメリカとヨーロッパがほとんどなので(しかもゲイとエスニック・グループに関するものが多い), 日本人が読んでもピンと来ない部分が多いかもしれないが, たとえば東浩紀さんの 『動物化するポストモダン』 にあるオタク論と読み比べれば類似する部分がたくさんあって面白いだろう。 さらに最近読んだ記事から, そもそも「日本文化」自体が下位文化に過ぎないのではないかと思うようになった。 ひとつは「文化大革命」という記事で, もうひとつは「日本文化はすでに世界遺産」という記事。
「文化大革命」は NHK の「そのとき歴史が動いた」の「ひらがな革命 ~国風文化を生んだ古今和歌集~」を紹介したもので(見てないんだよなぁ), 面白おかしく脚色されてるけど, 読んでいくと「そもそも日本文化の本質って何? っていうか本質なんてないんじゃないの」と気付かされる。 何故ならそこに書かれた「国風文化」とやらは政治的に捏造されたものだからだ。
また「日本文化はすでに世界遺産」では, 最後のほうにこう書かれている。
「こう考えていくと、日本文化は、すでに日本人だけのものではなく、世界のひとびととシェアーしなければ、ならない存在になっていると、わたしは、思うのです。日本文化の価値を外国人がよく知っていて、日本人が忘れている、というのが、リアルなありようではないかと、思います。」
そもそも現代の日本文化は, 「忘れている」のではなく, (市場主義・消費主義のもとに)とっくにアメリカナイズされてるわけで, そこからの差分は下位文化として消費されている。 オタクだってそうした下位文化のひとつだ。 そして, 多くの日本人にとって「日本的なもの」は, 引用文が示すように, 海外評価の逆輸入によって消費される。
でも, これは悪いことじゃない。 日本文化に本質がないことは日本文化が空っぽであることを意味しない。 そもそもあらゆる文化に本質的価値や根源的価値などありはしない。 文化というのは人々の関係の中で構築されていく(変容し雑種(ハイブリッド)化を繰り返す)プロセスなのだ (ちなみにこの本では文化を「文化とは、人々が日常生活で直面する諸問題に対処するための様々な方法」(p.230)と定義している)。 変化しないのなら死んでるのと同じ。 文化的価値を捏造された「本質」の中に囲い込むことは自殺にも等しい行為だと思う。 日本を「コンテンツ立国」にしようなどと目論んでいる頭の悪い方々は, この構造をまず理解すべきと思うけどね。
ってな感想を持ちつつ 『後期近代の眩暈』 を読み始めるのだった。