『嗜癖する人間関係』を読む
面白かった。 が, 2/3 も理解できたかどうか怪しい。 理解を妨げている主な要因は私の脳みその出来なのであるが, 他にも注意すべき点がある。
まず, 『嗜癖する人間関係』 およびその前著の 『嗜癖する社会』 は基本的にはアメリカ社会を前提にかかれている。 アメリカ社会と日本社会との違いは色々あるが, 今回のテーマに関連する部分としては「教会の影響」がある。 日本にもクリスチャンの方はたくさんおられるので, もしかしたらそういう方々には自明なのかもしれないが, 私のように「基本無宗教だけど,葬式とかで困るからしょうがなしに○○宗を名乗ってる」(結構いるでしょう?)って人には, 「教会の影響」というのはピンとこないような気がする。 アメリカ社会と日本社会との違いとしてはもうひとつ, 「自立イメージ」がある。 斎藤環さんの 『思春期ポストモダン』 でも指摘されている(p.203-205)けど, 欧米における自立イメージが「家出」である一方, 日本(あるいは韓国もそうらしいが)における自立イメージは「孝」である。 更に「家」または「家庭」というシステムは「孝」を前提にドライブしている。 この差は考慮しておくべきだろう。
更に, 『嗜癖する人間関係』 ではやたらと「霊的」とか「霊性」とかいった単語が出てくる。 そもそも欧米と中国・日本などでは「霊性」でイメージするものが異なる。 そのうえ日本では「霊性」のニュアンスが(たとえば霊感商法とか最近流行りのスピリチュアルとか)商業的に酷く歪められてしまっている。 多くの人は「霊的」とか「霊性」とかいう単語を聞いてもカルト的なイメージしかわかないのではないだろうか。 ここを混同したまま読み進めると 『嗜癖する人間関係』 はただのカルト教本になってしまう。
それでもこの本は読む価値がある。 それは嗜癖問題が特定の文化に包含されない, 社会的動物としてのヒトに普遍的な問題だからだ。 誰だって(もちろんこれを書いている私だって)心の中に嗜癖的な要素を持っている。 それは様々なきっかけで表面化してくる生まれながらの持病みたいなものである。
私は8年前にちょっと死にかけてから病気に対する考え方が変わった。 病気には2種類ある。 ひとつは風邪のように治療すれば治る病気。 もひとつは私の持病などのように治らない病気。 病気が治らないということは, いかにしてその病気と上手に付き合っていくかということを「覚悟する」(あるいは自分自身に引き受ける)ことである。
『嗜癖する人間関係』 では, 「引き受ける」ことを責任と呼んでいる。 一方, 嗜癖者たちは「責任」という言葉を異なるニュアンスで受け取る。 すなわち「責任=弁明または非難」と見なしている。 言い方を変えるなら, 弁明・非難と見なすことによって責任(=引き受けること)を回避しようとしているわけだ。 このような回路は実は世の中のあちこちで見ることが出来る。 たとえば不祥事時を起こした企業の会見とそれに対する非難とか, 少し前に話題になった「自己責任」にまつわるあれこれとか, 自分の理不尽な人生を誰かの何かのせいにして挙句にキレて秋葉原で大暴れするとか, 更にそういった事象すら当事者の親や社会のせいにして安堵感を得ようとしたりとか。 みんな「責任」を弁明・非難にすりかえることで本当の意味の責任を回避しようとしているのである。
『嗜癖する人間関係』 では嗜癖的人間関係について書かれている。 その具体例として性的(セックス)嗜癖・ロマンス嗜癖・人間関係嗜癖を紹介している。 嗜癖的人間関係はいわゆる「共依存」と深い関係がある。 共依存というのは
「人に自分を頼らせることで相手をコントロールしようとする人と、 人に頼ることでその人をコントロールしようとする人との間に成立するような依存・被依存の嗜癖的二者関係」 (『嗜癖する社会』 監訳者まえがきより)
であり, 共依存の典型例は親子関係である。 『嗜癖する人間関係』 では嗜癖的人間関係にも親子関係のような構図がみられると指摘する。
すなわち, どんな人にも親・子ども・大人の3つの自我状態が存在するとし
「理想の人間関係(引用注:嗜癖的人間関係のこと)は、 公的にも私的にも両方あります。 どちらの人間関係も、 この種の人間関係を安定させるために必要なのです。 完璧な結婚の公的な面では、 男性(あるいは伝統的な男性役割)は親で、 女性(伝統的な女性役割)は子どもなのです。 親役割をする人、 パーソン1は外の世界に対処し、 お金を稼ぎ、 物事を決定し、 車の手入れをし、 全般的に家庭外のことに対処します。 子ども役割をする人、 パーソン2は、 どのようにお金をやり繰りするか、 夫婦の財産はいくらあるか、 どのように車の手入れをし運転するか、 どのように社会に対処するか、 どのようにお金を稼ぐかなどの考えを全くもっていません。 パーソン2はパーソン1に依存しています。
私的に完璧な結婚では、 役割は逆転します。 この人間関係ではパーソン2が親で、 パーソン1が子どもです。 パーソン2は内面から人間関係を支えます。 この人はパーソン1の身体的要求をすべてケアします。 彼女(または彼)は、 料理をし掃除をし衣料を買い、 相手の性的要求と社会的要求に合わせます。 パーソン1は、 パーソン2を必要としていて、 自分のケアや日々の欲求や要求を満たしてもらいます。 しばしばパーソン1は自分の日々の要求がどう処理されているのかを知りません。」 (p.161-162)
という構造になっているらしい。 上述の例は(Anne Wilson Schaef さんの言う)「完璧な結婚」だが, あらゆる人間関係にこのような親子的依存関係が潜んでいて嗜癖的人間関係を構成している。 嗜癖的人間関係において人間関係は(静的)システムであり, システムにコミットすることで人間関係を構築していると錯覚しているのである。 システムとしての人間関係に必要なのはシステムの維持であり, システムの維持のため人の人たる部分を抑圧または排除しなければならない。 これが嗜癖をして「死に至る病」と呼ばれる理由である。 言い方を変えるなら, 親密さに基いた真の人間関係は時間の経過を含めたプロセスであるべきなのに, その場その時の関係をドラッグのように摂取することしか出来ない状態が嗜癖的人間関係であるとも言える。
(そういえば, 『嗜癖する人間関係』 には「癒し」という言葉も頻繁に出ているが, もちろんこれは最近マスメディア等で頻繁に登場する「癒し」とは全く異なる。 彼等が呼ぶ「癒し」とはまさしくドラッグのようなもので, その場その時限りの快楽しか与えない。 癒しを求めるために人間関係を構成する(しようとする)なんてのは, 典型的な嗜癖的人間関係だと言えるかもしれない)
『嗜癖する人間関係』 を読む前に斎藤環さんの 『思春期ポストモダン』 を読んだことは私にとってラッキーだった。 私から見て 『嗜癖する人間関係』 と 『思春期ポストモダン』 は相補的な関係になっている。 『思春期ポストモダン』 の「病因論的ドライブ」という考え方は, 私たちが心に抱える様々な問題が決して特定の人の特定の病気ではないことを教えてくれる。 嗜癖問題も含め, それは心の成熟にともなって誰でも通る「プロセス」であるということだ。 そして「もっと先へ進みたい」と望む限り, それは「一生付き合う病」であるとも言える。 これは個人の問題だけではなく「社会の成熟」にも関わる問題だと思う。
というわけで(どういうわけだか), 次は 『排除型社会』 を読み始めている。
今回から cressreview のレビューも貼り付けてみることにした。