『ケータイを持ったサル』を読む
前半は面白かった, 前半は。 詳しく言うと, 1章と3章と4章の前半は面白かった。 あとはイマイチ。 2003年に出た本なので, (現時点から見れば)考察が甘いと言えばそうなのかもしれないが。
タイトルの「サル」は皮肉でもなんでもなく, ニホンザルやチンパンジーなどの猿を指している。 要するに, 若者におけるケータイでのコミュニケーションは, 猿の仲間内のコミュニケーションと同程度で, 「ああ,これから日本はどうなるんだ嘆かわしい」といった程度の内容である。 個人的には「嘆かわしい」部分にはさっぱり興味がないので読み飛ばしてしまった。
「ヒトは言葉を話す動物である」とはよく言われるが, 「言葉を話す」つまり音声で以ってコミュニケーションを行うという意味であれば, ヒト以外にもある。 ならばヒトとヒト以外の「音声で以ってコミュニケーションを行う動物」との違いは何かというと, その「言葉」を使って未知の相手とコミュニケーションできるか否かということになるだろう (もちろん実際はそんなに単純じゃなくて, 社会的要因以外に解剖学的な要因などもある)。 『日経サイエンス』 1994年10月号に「言葉の起源」という特集記事があり, 当時私も読み耽ったのだが, この中の「サルは言葉をしゃべっているか」という記事を書かれたのが, 『ケータイを持ったサル』 の著者である正高信男さんである。
『ケータイを持ったサル』 の中で正高信男さんは, 情緒的な交流を目的とした言葉以外に, 社会生活の中で見知らぬ他者と情報をやり取りするための「公的言語」があると述べている。 「公的言語」は公的空間で使われるが, 公的空間を拒絶したり公的空間を意識しない人にとっては「公的言語」など不要で, ごく仲間内の情緒的なやり取りのみ満たされればいいということになる。 この典型例のひとつが「ケータイ」だ, ということらしい。
また, サルの群れというのは実は「社会」を構成していないらしい。 サルの群れのメスは生まれた群れを離れることはほとんどないそうである。 一方オスの場合は群れを離れることもあるが, それも面識のある仲間への「移籍」がほとんどだとか。 要するに, サルの群れというのは家族の拡張版のような形で機能するらしい。 群れを離れる一部のオスを除いて, ほとんどのサルは「家の中」で一生を過ごすことになる。 つまり「ケータイ」などを通じて情緒的なコミュニケーションに依存する今の若者は, 「社会(=公的空間)」を拒絶し, サルの群れのように「家の中」という空間に引きこもっているというわけだ。
この原因として著者は, 日本の親子(特に母子)が密着しすぎていること(そしてそれを是とする社会的規範)を挙げている。 著者が紹介する典型的日本家族のモデルは典型的な共依存状態の家族でもある (そしてある意味「決してフィルタリングできない子供の中の最強の異物」で紹介されてる家族像でもある)。 まぁ, 日本の家族関係が(欧米に比べて)密着しすぎている点は他分野でも指摘されている。 日本では儒教的な規範意識が支配的でその中心には「家」がある。 一方, 欧米における成熟や自立は「家出」から始まると言われている。 「家」は社会システムの一部でしかない。
確かに情報化社会は公的空間と私的空間の境界を曖昧にしつつある。 だからといって日本における「若者のサル化」の原因の一端を情報化社会に求めるというのは共感しかねる。 もしそうなら日本国外でも同じような展開になっているはずであるが, 実際には必ずしもそうなっていない。 どっかの首相もケータイを悪者にしたがっているようだが, 今の日本の社会問題を道具の責任に帰するというのはあまりにも馬鹿げている。
『ケータイを持ったサル』 を読んで感じたのは, ネットも所詮リアルの延長でしかないということだ。 もし日本のネット(特にケータイのネット)が公的空間としての存在意義を失い, 情緒的コミュニケーションの場に終始しているというのなら, それはリアル社会の写像であり, ネットにおける公的空間を取り戻したいのであれば, まずリアルから改善すべき問題なのである。
『ケータイを持ったサル』 における分析や考察には首をひねる部分も多いが, 紹介されているデータは参考になる部分も多い。 特に乳幼児期の育児におけるアメリカと日本の違いは親なら必見だと思う。 あとはまぁ, 流し読みで(笑)