「狂狷の徒」
最近, 時事的なネタ以外で面白いと思っているのが白田秀彰さんの「教育制度批判」だ (その1, その2, その3, その4, その5)。
以前, 某 SNS (mixi じゃないよ)で道徳教育について知り合いと意見を交わしたことがある。 白田秀彰さんの記事は, その時の知り合いの意見とよく似ている。 一方, 私はと言えば, 「美しいフィクション」なんか要らないんじゃないかと思ってたりする。 愛国心なんて犬も食わないようなものは端から捨てて, リテラシーやリスク感覚を身につけるよう義務教育から訓練すべきだと思ってる。 もちろん, 私は私なりに道徳観念や信仰や宗教観のようなものはあるが, それは全て学校外で身に付いたものだ。
まっ, 今は私の意見は置いておくとして, もうひとつ「おおおっ」と思った記事がある。 「「自由の真の代償」と「自由の真価」 ― サイバースペース独立宣言を越えて」 で紹介されている「自由の本当のコスト」(原文)だ。
内容の全く異なるこれら2つの記事を読んで, 私は何故か両者に共通するものがあるように感じた。 それは何だろうと考えて表題のフレーズを思い出した。
「狂狷」というのは論語の中に出てくる言葉らしい。 この言葉を知ったのは実はつい最近で, NHK でやっていた白川静さんの特集番組(白川静さんは2006年に亡くなられているので追悼番組の再放送かな?)をたまたま観ていた時だ。 あとでググってみたら NHK の番組でおっしゃってたこととほぼ同じ内容の記事を見つけた。 以下に少し引用しておく。
「孔子様はこう言っとる。 「人間というものは中庸を得たものが一番よろしい」と。 まあいわゆる聖人ですわな。 しかし、「現実にはそんな中庸の人間がおるものではない」と。 それでは中庸の人の次にどういう人がいいかというと、 孔子は「狂狷の徒がよろしい」と言うておる。 「狂狷は進みて取る」、 進取の気性です。 世間を変えるには「狂」がなければならない。 そして「狷者は為さざるところあるなり」と。 たとえ一億円の金を積まれても、 わしは嫌じゃということは断じてせんという、 それが「狷」です。」
(「学び続ける 「狂狷(きょうけん)の徒」たれ」より)
「教育制度批判」を書いておられる白田秀彰さんも, Econimist のあの論説を書かれた方も「狂狷の徒」だと思う。
「世の中を変えたければ自分を変えろ」というのは自己啓発の決まり文句だが, 自分を変えるとはすなわち「狂狷の徒たれ」ということだ。 それがどれだけ覚悟のいることなのか, 2つの記事はそれを生々しく伝えてくれている。