『思春期ポストモダン』を読む
著者名だけ見て買ったけど面白かった。 一気に読んでしまった。
内容そのものについてはパス。 いや, とても共感できる部分が多いんだけど, 私はその筋の専門家ではないので評価も批判もできないのであしからず。 なので, 今回は(っていうか,いつもそうなのだが)ちょっと位相をずらして書いてみる。
この本を読みながら思い出してたのは Anne Wilson Schaef さんの 『嗜癖する社会』 だった。 『思春期ポストモダン』 に出てくる「病因論的ドライブ」の考え方は 『嗜癖する社会』 で言う「嗜癖システム」によく似ているように思えたからだ。 まぁ書かれた時代も違うし社会背景も違うので全く同じというわけではないけどね。
個人や家族や社会(世間)など, 個々の要素に病理的な要因がなくても, お互いの関係性のあり様によって何らかの問題(例えば自己破壊的同調)が生ずることがある。 その問題を修正するには, 「治療者」として権威的に振る舞うのではなく, その関係性の中に入って少しずつ介入していくしかない。
『嗜癖する社会』 を読んで以来, 「関係性」の問題について考えるようになった。 例えば「mixi 疲れ」の問題とか Twitter について書いたこの前の記事とか。 でも 『思春期ポストモダン』 のほうが「今の日本」に即して書かれているし私にわかりやすい内容である。 今後はこちらのほうを引用していこうかな。 (『嗜癖する社会』 ではスピリチュアルとか出てきてちょっと引くし。 もっとも日本と欧米ではスピリチュアルの意味が違うけどね。 日本のスピリチュアルはあちこちから素材をかき集めただけのジャンク宗教に過ぎないし)
もうひとつ。 サブタイトルに「成熟はいかにして可能か」にあるように, この本では成熟についても深い考察がある。
「『大人』というのは、子ども時代と老年期との間で、限りなく短縮し続ける期間だ。なぜなら近代社会は、この期間を最小とすることを目的としているのだから」
という引用はとても共感できる。 そもそも価値観が多様化(いや,むしろ流動化)したポストモダンの社会で「成熟」という言葉にどれほどの意味があるのか。 そういう意味で 『思春期ポストモダン』 は青少年だけに向けられたものではなく, 「成熟」しきれていない(あるいは「成熟」していると勘違いしている)「大人」たちに向けられた本であるとも思う。