Digital Rights Description としての CC ライセンス
私はまだ読んでいないのだが(だって積読状態の本が山ほどあって...), 『CONTENT'S FUTURE』に適用されている CC ライセンスを巡って面白い議論になっているようだ。 (最近は CC-license (CC ライセンス)という表記が一般的みたい。 なので, この記事でも CC ライセンスという表記で統一する)
いや, 最初はあまり興味なかったんだけどね。 なんか話が大きくなってるみたいで面白くなってきたし。 (← 対岸の火事が大好き)
事案自体は平凡なもの。 『CONTENT'S FUTURE』には by-nc-nd ライセンスが適用されているが(目次のみとかじゃなくて著書全体にライセンスを適用するのは日本ではきわめて異例), それを見てある方が本を OCR でディジタル化(つまりフォーマット変換を伴う逐語的コピー)しようとした。 でも当然 OCR データは大量の誤変換を含む。 それを完全に修正せずに公開したもんだから, すったもんだの末に公開を取り下げてしまったという話。
本を OCR 等を使ってディジタル変換するということはよく行われているが(Google だってやっている), そこでネックになるのは誤変換にどう対応するかということだ。 また文章の構造は文字列の配置(レイアウト)によって決定されるが, ディジタル変換して文字コードに落とせば, それらの情報は脱落してしまう。 例えば「青空文庫」では入力作業を行うボランティアの方々を「工作員」と呼んでいるが, 「工作員」による作業をスムーズに行うための「青空文庫工作員マニュアル」を作成している。 マニュアルには底本の選び方,入力から校正の仕方,文字コードやルビ表記についてまで事細かに書かれている。 ことほど左様に「本のディジタル変換」というのは手間がかかるし, 難しい問題を含むものなのである。 それを知ってか知らずか安易に手を出してしまったのは失敗だったというほかない。 (まっ, 試み自体は評価できるので, 仕切りなおして是非完遂していただきたいものである。 私はまだ本の保存性と一覧性に関する優位を信じているので, いずれ本を買っちゃうけどね)
by-nc-nd 下でライセンスされるコンテンツのコピーを配布することについて クリエイティビティの有無が取り沙汰されているみたいだが, これについては ced さんの記事が参考になる。 つまり CC/CC-license の機能を
- making derives(creation:創造)
- dissemination(access:アクセス)
に分けて考えるということだ。 by-nc-nd 下でライセンスされるコンテンツでは前者の機能は小さいけど, 後者の機能は失われず残っている。 そこは評価すべきだろう, と。
ところで本をディジタル形式に変換・コピーした場合, その著作権は誰に帰属するのか。 普通に考えればそれは本の著作(権)者たちに帰属する筈である。 何故ならそれは単なる複製だからだ。 であるならコピーしたコンテンツのライセンスも元の著作(権)者たちが適用したそれに準ずる筈である (CC ライセンス第4条)。 孫コピーがどうのという話も聞かれるようだが, CC ライセンスで「改変禁止」オプションをつけている限り, 孫コピーどうのとか気にする必要はない。 (ただし「校訂者の権利」とかいうものがあるらしい。 この辺どう考えるか難しい気もするが, 校訂者として著作権を主張するのであれば, それはもう複製ではない)
逆に改変を許可する場合, 「継承」オプションを付けていなければ(コピーではなく)二次著作物のライセンスに対してオリジナルの著作(権)者はコントロールできる立場にない。 ファースト・セルの原則が働くからだ。
と, ここまでが前振り(頭で考えると一瞬の思考なのに文章にすると長い長いw)。 面白いのはここから。 内容については inflorescencia さんの記事が参考になる。
まず, 個人的な意見として, 以下の CC ライセンス関連 microformat を使うことは(現時点では)お薦めしない。
- attributionName
- attributionURL
- derivativeDescription
- morePermissions
ライセンス定義でまともに使えるのは rel-license くらいである(もちろん rel-license は CC ライセンス専用ではない)。 microformat はユーザによって勝手な解釈を行ったり語彙を創作できてしまうのが最大の欠点。 microformat はもともと機械によって「意味」を読み取れるよう考えられたものなのに(故に一意で論理的な整合性がとれていなければならない), ユーザによる勝手な解釈や創作を許容してしまうようでは台無しになってしまう。 もしどうしても microformat を使いたいなら GRDDL などの仕組みを活用すべきである。
ちなみに従来の RDF の語彙を使って morePermissions のような記述を加えることは可能である。
この記事を読めば分かるが, CC メタデータの語彙は非常に柔軟性に富んでいて CC ライセンス以外(例えば俺ライセンス)にも応用できる。 GRDDL は RDF の語彙を応用するので, 上述の貧弱な microformat を使わずとも優れた記述が可能なのだ。 (もっともその語彙をちゃんと読めるパーサはまだ少ないけどね)
実際問題, CC ライセンスに追加条件が付加できるかどうかは難しいところだろう。 私は追加条件を付加することは可能だと思うが(昔この辺を議論した記事があったと思ったが忘れてしまった), それを利用者に誤解なく伝えるのは難しいように思う。 それよりもデュアル・ライセンスのような形にするのが利用者にも分かりやすいだろう。 幸い CC ライセンスは非排他ライセンスなので, デュアル・ライセンスにすることは難しくない。
こういう話になると必ず出てくるのは「CC ライセンスは DRM か」という疑問だ。 CCJP の FAQ ではこの疑問に明快に答えている。 以下にいくつか引用しておこう。
「私たちはクリエイティブ・コモンズの活動の技術的な側面をデジタル・ライツ・ディスクリプション(digital rights description:デジタル著作権解説)と呼んでいます。 DRMが著作物の特定の使い方を防止したり利用者の権利を狭めたりするのに対して、 私たちは逆に利用者の権利を保証しつつ著作物の特定な使い方の数々を奨励します。 ソフトウェアに「あなたはこのファイルを変更してはいけません」と表示させるのではなく、 CCライセンスはむしろ「著作者はこのファイルをあなたが変更することを認めますが、 その代わりに著作者のクレジットを明記してください」と伝えたいのです。」
「私たちはライセンスの「エンフォースメント=執行」という役割を法律や社会規範、 そして参加者の良心に任せています。 私たちのツールの数々は規制の道具としてではなく、 補助的な情報として機能するのです。 私たちは著作権利者が自分の著作物に対する義務と自由について他の人々に教えられるようにお手伝いをして、 また全員がインターネット上でクリエイティブな再利用ができる場所を見つけられるように応援したいのです。」
DRM の問題点は, それによって著作(権)者は必ずしも守られない, ということだ。 例えば DRM に載せた音楽や映像を利用するためには著作者自身も DRM の制限に(アーキテクチャ的に)従わなくてはならない。 自身の作品であるにもかかわらず, だ。 自身の権利をシステムに委託してしまうという点で, DRM (Digital Rights Management)はむしろ(key escrow に引っ掛けて) DRE (Digital Rights Escrow)とでも呼びたくなる装置だ。 日本は昔からこの仕組みで動いている。 JASRAC などは典型的な権利預託システムだ。 日本人は権利意識が薄いといわれることもあるが, 自身の権利を平気で預けてしまうメンタリティがあるのかもしれない。 (あくまで邪推)
DRD としての CC ライセンスは DRM に対して疑問を投げかける手段として活用されるかもしれない。
(追記 9/23) その後の議論 on Twitter: