歳をとってから読める「本」もある
前回書いた話の「はてブ」コメントが面白い。 こういうコメントをいただけると「戯れ言でも書いてみるもんだなぁ」という気になる。 いや、 これは私の思い上がりです。 すみません。
せっかくなので以下に紹介してみる。
「学生時代にわかりもしないのに見栄はって買った本は歳食ってからじゃもう完全に理解できない→勢い頭使わなくていいアレゲな新書類に→買わないで図書館へ。元々文化資本の少ない階級出身だとこのパターン多そう。」
私もそういう本がある。 (SF方面などでなぜか評価が高い)「ブルーバックス」シリーズだ。 当時通ってた中学校の図書館で見つけて貪るように読んだ覚えがある。 このシリーズの怖いところは、 読むとなんとなく理解できたような気になるところだ。 「自然科学をやさしく紹介するシリーズ」なんて書かれているがとんでもない。 だいたい中学生程度の知識で相対性理論や量子力学が本当に理解できる筈もなかったのだ。 そのことを私は大学に入ってから思い知ることになる。 幸いなことに(?)当時は本を買い漁れるほどの経済力もなかったので、 「ブルーバックス」シリーズは一冊も持ってない(筈)。
この経験から私は2つのことを学んだ。 ひとつは「生兵法は怪我の元」ということわざの意味(つまりものを学ぶためには学び方の戦略が必要ということ)。 そしてもうひとつは身の丈に合わない本は知的好奇心を励起するということだ。
「歳食ってからじゃもう完全に理解できない」ってのは本を読んで理解できなかったことをスルーしてしまうから。 「理解できない」ということに興味が向かわないからだ。 更に『下流志向』によると最近の子供たちはこの手の「スルー力」に長けていて、 「理解できない」ことが全く気にならないそうだ。 「歳食ってからじゃもう完全に理解できない→勢い頭使わなくていいアレゲな新書類に」っていう過程には一種の「諦め」があるけど、 今の子たちにはそれすらないというわけだ。 例えば最近のベストセラーが薄っぺらに見えてしまう(というより薄っぺらな本がベストセラーになってしまう)のは、 本に対して「無時間モデル」の消費しかできないからじゃないのか。
読書というのは時間の経過を伴う作業で、 しかも絶対に一冊の本で完結しない。 沢山の本を読むことで最初は見えなかったことが突然見えるようになることもある。 それは読書を通じて本と本の間にある「本」が「読める」ようになるからだ。 本好きにとって歳を重ねることの強みはここにあると思う。 (って書くとすごい爺さんみたいだけど私はまだ中年だ)