『数学ガールの誕生』 ...「眼差し」という意匠
結城浩さんの『数学ガールの誕生』読了。 読んでてハタと気づいた。 しまった,『数学ガール/ガロア理論』をまだ読んでない。 いや,買ってはあるのよ。 発売日直後くらいに。 でも昨年は仕事が忙しすぎて読むことができず,部屋の積読蟻塚に埋もれたままになっている。 今は仕事もそんなに忙しくないので,なんとか積ん読を消化しなくっちゃ。
結城浩さんの著書は(『数学ガール』に限らず)他の作家にはあまり見られない大きな特徴がある。 それは「眼差し」である。 著者から作品への眼差し,著者から読者への眼差し,そういった「眼差し」を読みながら感じるのだ。 それは決して不快なものではなく,無闇に明るすぎる街灯ではなく,闇夜のランタンのように優しく道を照らしてくれる。 あるいは常に生徒の先回りをして次に開けるべき扉を指し示してくれる教師のような(もちろん扉を開けるのは教師ではなく生徒である)。 これは,結城浩作品の意匠なのではないかと思う。
『数学ガールの誕生』ではその「眼差し」の源泉についてわりと赤裸々に語られている。 「数学ガール」ファン必読の書だ。 もし「数学ガール」を子供や生徒に読ませて大丈夫かとお考えの人がいたら,『数学ガールの誕生』を先に読んでみるのも手だ。 大丈夫,ネタバレにはならない(と思う)。
「眼差し」は監視やコントロールの反対側に位置する。 例えばこんな発言がある。
「作品には作品の命があり、作品の力があり、自立性があります。 自分の勝手な思いで世界を狭くしてしまわないように注意したいと考えています。
それは、自分の子供の成長に少し似ているのかもしれません。 小さいころはしっかり手を掛けるのだけれど、ある程度大きくなったら手を離し、自由に動かす。そのようにしたほうが、思いがけない世界へ羽ばたいてくれるように思うのです。
自分がすべてをコントロールするのではなく、作品の力に「まかせる」という姿勢が必要だといってもいいでしょう。」
(『数学ガールの誕生』 p.178 )
そして結城浩さんは「作品の力」だけではなく「読者の力」も信用している。
読者(ユーザ)は「数学ガール」を中心に様々な活動(activity)を行っている。 そしてそれを容認するどころか,結城浩さん自身が curator となって活動を広めている。 「数学ガール」シリーズ自体は cc-license ではないけれど,これはまさに Free Culture の見本といってもいいのではないだろうか。
(日本では Creative Commons は全く根付いていない。 世界では cc-license バージョン4の最終ドラフトについての議論が盛んなのに,日本語でその手は話題はついぞ聞かない。 だから日本では CC 抜きで Free Culture をどう広めていくかという少々いびつな構造になっているように思う。 そういう意味では結城浩さんの事例はなかなか参考になる。 それにしてもキュレータ。 懐かしい言葉だ。 2年くらい前に流行った言葉のような気がするが,もう古語になってしまったw)
さて,それじゃあ『数学ガール/ガロア理論』を読むか。