ディズニーランド的コモンズと Creative Commons
今読んでいる 『排除型社会』 の中に以下のような記述がある。
「人口の相当部分は、 フルタイムの仕事に就き、 確実にキャリアを積み、 安全な人生を歩んでいる。 そこは能力主義が保証された世界であり、 男女は平等な関係にあって、 カップルの両方が働いている。 安定した核家族が形成され、 労働時間は長く、 夫婦の収入はますます高くなっている。 職場と学校には能力主義が浸透し、 刑事司法制度には新古典派的な方法が定着している。 それは、 人々が信用調査や消費者調査によって格付けされた世界である (これこそなによりも重要な市場である)。 しかし、 それが優しく親切な世界であるのは表向きのことに過ぎない。 そこでは職場からレジャーの場にいたるまで、 社会統制の網がますます広がっており、 そのさりげなさはまるでディズニーランドのようである [Ericson and Carriere 1994]。 人生におけるトラブルは、 保険が完全かつ包括的にカバーしてくれる。 たとえ健康上のトラブルであっても、 事故や失業、 あるいは犯罪の被害であっても、 すべて保険がカバーしてくれる。 日常を離れた第三世界のリゾートで休暇を過していても、 そこは危険が取り除かれて安全が確保された飛び地であり、 あいかわらず自分の世界は守られる、 という具合である。」 (p.60)
私はこの「ディズニーランド」のアナロジーがちょっとお気に入りである。 少なくとも「マクドナルドの椅子」よりはリアリティがある。 もちろん, 上の引用は更にこのように続く。
「しかし、 このような中心領域は、 今や縮小する一方である。 労働市場で最も増加しているのは、 非正規雇用市場の人口である。 そこでは仕事はさらに不安定になり、 キャリアへの道は閉ざされ、 人々はよりどころのない人生を送るはめになっている。」 (p.60)
「包摂」と「排除」はコインの表裏の関係である。 あるルールの実行に際して, ドメインに組み入れることを「包摂」といい, ドメインから取り除くことを「排除」という。 「ルールを実行する」という点において「包摂」と「排除」は同じものなのである。
さて, 前置きが長くなってしまった。 本題に入ろう。
先日ニコニ・コモンズに関する詳細が発表された。
私は Tumblr 上で 「ニコニ・コモンズのやり口は同人に対して出版元などがやる「ガイダンス方式」と同じ」 と散々けなしたが, どうやらちゃんとライセンスとして提供するようである(今までけなしてゴメンネ)。 ライセンスを構成するということは, ライセンサーとライセンシーとの間で責任範囲を決めて分担するということだ。 ライセンスの内容については以下の記事が参考になる。
ガイダンス方式の問題は責任を明確にせず, 力の強いほうが弱いほうに対して一方的にルールを変更できることにある。 これは典型的な搾取である。 この方式をとらなかったことは評価すべきと思う。
(といっても, 公表されている限りでは不備だらけだけどね。 そもそもニコニ・コモンズのライセンスのオプションは定義されているのに, そのベースになるデフォルトのルールが記述されていない。 例えば「サイト限定」というオプションがあって, その定義は「ニコニ・コモンズ対応サイトへの掲載目的に限定する」とある。 つまり「サイト限定」オプション下では(掲載目的に限定されるのだから)派生の派生は許可されない (=ニコニ・コモンズのライセンスは設定できない。なぜなら「派生」は必須オプションだから)。 一方「サイト限定」オプションがない場合には派生に関する縛りがない, といった具合である)
ニコニ・コモンズ・ライセンスの特徴は, オプションを後から変更可能なことである (ライセンス自体を破棄したり他のライセンスと非排他的に組み合わせることができるかどうかは不明。 多分無理だと思うけど)。 ライセンシーによる派生作品への縛りは作品の公表時期に影響を受ける。 オプション変更後に公表された作品は変更後の縛りを受けるということらしい。 こういうことができるのもニコニ・コモンズ自体が作品およびライセンスの管理者で, 作品を利用するユーザの行動を(ニコニ・コモンズ内であれば)追跡可能なシステムだからである。 つまりニコニ・コモンズってのは「ディズニーランド」なのである。 これは Flickr や YouTube のようなサービスとは真っ向から衝突する。
Flickr や YouTube の特徴は, そこで公開されるコンテンツを通してサービス利用者とサービスの外にいる人が繋がっていくことにある。 サービスの外にいる人と繋がるためには, そこで公開されるコンテンツはサービスに帰属してはいけない。 かならず利用者の「誰か」に帰属させなければならない。 故に CC-license のような道具立てが必要になるのである。
一方のニコニ・コモンズは「サービスの外にいる人」を基本的に許容しない。 人も作品もそこから派生するものも全てサービスに組み入れようと(つまり包摂しようと)する。 この点は 「座談会 UGCの可能性を考える(前編)」 で津田大介さんが以下のように言われたこととも関係してくる。
「嫌儲につながる考え方というと、 ネットコミュニティーと権利意識とか、 著作者の帰属性とか、 匿名性って、 実はすごく関わり合っていて。 CCの1つの問題点というか、 日本になじまないところが1つあるんですよ。 それはクリエイティブ・コモンズを付けるときに「BY 誰それ」、 要するに著作者表示をデフォルトで入れなければならないということ。」
ニコニ・コモンズのようなディズニーランド的コモンズでは, コンテンツを人ではなくサービスに帰属させる必要がある。 人に帰属させれば(人が移動することにより)コンテンツはサービスの外に逃げてしまうからだ。 逆にコンテンツをサービスに組み入れれば, それを利用するために消費者が集まりバンバン囲い込むことができる。 そしてサービス内では, 人やものを包摂させた状態を維持するために無意識かつ強力な同調圧力がかかる (匿名性については様々な観点で様々な議論があるが, コンテンツ共有サービスにおける匿名性は必然的にコンテンツの帰属先をサービスに「付け替える」よう機能する)。 更にサービス提供者もそれを利用してどんどん人やものを囲い込んでいくわけだ。
(8/2 追記)
「iCommon Summit 2008」 でニコニ・コモンズの仕組みについて解説があったそうだが,
「米国生まれのクリエイティブ・コモンズに対し、ニコニ・コモンズは法闘争などを好まない「より日本的な手段」(木野瀬氏)とのこと。クリエイティブ・コモンズが法律に基づくライセンスであるのに対し、ニコニ・コモンズはユーザー間の合意によるガイドラインに過ぎないとも言う。」
(ニコニ・コモンズとクリエイティブ・コモンズはどう違う?--ニワンゴ取締役が解説)
だそうで, 例のルールはライセンスとして扱われないことが明確になった。 言っておくが, ガイドラインに「合意」など存在し得ない。 ガイドラインというのは「通達」に過ぎないからだ。 だから後で勝手に内容を変えることができるし, 場合によっては反故にすることもできる。 コンテンツや素材の提供者がニコニ・コモンズを離脱すれば, その時点でガイドラインを破棄して別のルールを適用することができる。 ニコニ・コモンズもルールそのものを変更・破棄することができる。 そこに合意は必要ない。 こんないい加減なものを「Creative Commonsと話をしながら作っていった」というのは, にわかには信じられない話である。 (が, ご本人が言うのならそうなんだろう)
こういったものに対し, 「合意」だの「日本人の美徳」などといった美辞麗句で脚色しようとするのは相当胡散臭い話であるが, 私はニコ動のアカウントは持ってないし, ニコニ・コモンズに対してもここに書いた以上の関心はないので, もうつっこまないことにする。 願わくば, これが悪しき前例になりませんように。
従来, コンテンツには入れ物(コンテナ)が必要で, 更に入れ物を置いておくための場所が必要だった。 しかしネットにおいては入れ物も場所も必要条件ではない。 Creative Commons でいう「コモンズ」は特定の「場」を指すものではないと思う。 いや, 元々はそうだったのかもしれないが, Flickr や YouTube などの成功により意味が変わってしまった。 それはもはや人やものをノードとしたネットワークそのものを指している。 ネットにおいてディズニーランド的コモンズは存在意義を失いつつあるのだ。 それなのにまだこういったものにしがみついてる日本のサービスは, やっぱり「周回遅れ」なんだなぁと思うのである。