『〈海賊版〉の思想』を読む
素晴らしい, いや, 抜群に面白い本だった。 こういうのって歴史物語って言うんだろうか。 これは法学の本やその解説書ではないし, 歴史の本ともちょっと違う感じ。 『〈海賊版〉の思想』 は「海賊出版者」アレクサンダー・ドナルドソンを軸とした (サブタイトルにもあるとおり)「18世紀英国の永久コピーライト闘争」の物語である。 (こんなこと書いて著者の方が気を悪くされたらゴメンなさい)
私はあらゆる歴史(観)はすべからく歴史物語だと思っている。 史実だけを追っていては見えないものもある。 それを見えるようにするためには史実同士を繋ぐ「物語」を編む必要がある。 だから100人いれば100通りの歴史(観)がある。 『封神演義』 のまえがきで書かれているとおり 「歴史とは現実に何が起こったかではない。何が起きたか、と人々が信ずることだ」 である。 でも今回は「永久コピーライト闘争」を切り口とした 『〈海賊版〉の思想』 という物語をベースに色々と考えてみる。 (なお, 厳密な議論を追いたいなら, この本の巻末にある参考文献リストが役に立つだろう)
「永久コピーライト闘争」という切り口が面白いのは, その構造が現在の日本の著作権法を巡る諸問題とほとんど同じという点である。 この一点だけで(日本の著作権法について問題意識を持っておられる人は全て)この本を読む価値がある。 かつての輸入権や今話題のダウンロードの違法化などは (以前「パブコメ・ジェネレータでダウンロード違法化に反対してみる」でも書いたけど) 権利者と利用者との間のコンフリクトなどではなく, 既存の流通システムの思惑を通そうとする「著作利権」の問題なのである。 このことは(さすがに「著作利権」なんて過激な言葉を使う人はいないが)様々な方々が指摘しているが, 『〈海賊版〉の思想』 を通じて現在の状況を見てみればよりはっきり分かる。
もうひとつ 『〈海賊版〉の思想』 で面白いと思ったのは, 「永久コピーライト闘争」を善悪の色分けで描かなかったことだ。 既得権の独占を頑なに守ろうとする大書店主も, その牙城を崩そうとする「海賊」ドナルドソンも, 訴訟に関係してくる貴族達も, それぞれの思惑があって行動している。 だからこそ彼等のぶつかり合いが面白く感じられるのだ。 そしてそのぶつかり合いを通じて分かってくることは, コピーライトは人工的に作られた概念であるということだ。 そしてその保護期間についても著者の山田奨治さんがあとがきで書かれているとおりだ。
「この本でひとつだけ結論めいたことをいうならば、 コピーライトあるいは著作権がいつかは切れるという仕組みは、 神や天から与えられたものではなく、 文化の独占者に挑んだ「海賊」の闘いによって、 勝ち取られたものだということだろう」(p.225)
以上の問題はこう要約できるのではないだろうか。 「文化的リソースは独占されるべきか共有(share)されるべきか」。 ならばこれは経営(リソースの再配分)の問題であると言える。 そして18世紀の英国は(条件付で)共有することをよしとしたのである。
『〈海賊版〉の思想』 のあとがきではこんなエピソードが紹介されている。
「最近のことである。小学校の四年生以上の授業で、こんなことが教えられている。
ひとが作った文章や絵を、勝手に真似したり写したりしてはいけません。音楽CDの中身をみだりにコピーしてもいけません。どんな作品にも著作権というものがあって、それを作ったひとに断わりなく真似やコピーをしてはいけないのです。図工の時間に、ある児童が行詰まってしまった。いいアイデアが、どうしても浮かばないのだ。先生は「お友だちが作っているのをみて、参考にしてごらん」という。そこで、図工の得意な子が何を作っているかをみにいったら、こういわれた。「ぼくのまねをすると、著作権のしんがいになるよ。」」
(p.215)
日本においては, 著作権を刑罰のようなイメージで教え込まれているらしい。 公道で制限速度を超えて自動車を走らせたらおまわりさんにとっ捕まって罰金を払わせられる。 これと似たイメージを著作権にも抱いているのではないだろうか。 違うのである。 著作権が人工的に作られたインセンティブ法であるとは, 例えばお友達が自分の作ったものを真似しようとするのが嫌なときに「真似しないで!」と主張することを法的に担保する, ということなのである。 故に著作権法違反は親告罪なのだ。 自分の「してほしくない」という思惑を隠し, 「著作権」という盾をかざして「著作権法で禁止されているからしてはいけない」と言うのは欺瞞である。 (そういう意味では著作(権)者が亡くなって「意思」が消失した後も保護が有効であるというのはおかしな話である。 別の言い方をするなら著作物に対する著作(権)者の「意思」なるものはそもそもなく, ただコンテンツ・ビジネスというシステムに取り込まれていくだけで, 著作権の存在意義はそのシステムの延命のためにだけ利用されているということだ)
ところで「18世紀英国の永久コピーライト闘争」にあって現在のネットにおける著作権の議論にないものがある。 「ドナルドソン」がいないのだ。 ネットにおいてはクリエイターとユーザとの間に明確な区別はなく(フラットで入れ替え可能), 両者は容易に直結できる。 つまり「ドナルドソン」を必要としなくなっているのがネットである。 あるいは「ドナルドソン」は不特定多数のユーザ=クリエイターに拡散してしまっていると言ってもいいかもしれない。 既存のコンテンツ・ビジネス(=大書店主)と対峙しようにも配役が足りないのである。 故に戦略としては「ドナルドソン」に代わる何かを立てる必要がある。 例えば「環境保護運動が「環境問題」を創ったような方法で」問題を指し示す言葉を創るとか, MIAU のような圧力団体を利用するのもいいかもしれない。
最後に。 「キャプテンハーロック」という素晴らしい作品とキャラクタを創った松本零士さんには, この本を是非読んでいただきたいと思うのだった。 (駄洒落だよw)