「テレビという共同体」
いや, ホント, 凄い分析。 でもなぜか頷いてしまう。 私がそう思うのは多分この記事を見たからだ。
「「こんなに信用されているとは思わなかった」
調査委員会のヒアリングで、制作関係者が語った言葉だ。
受け止める側の視聴者はどうだったのか。「納豆ダイエット」の回が放送されて以降、スーパーなどの店頭から納豆が消えた。納豆業者は増産に追われ、影響は新聞も報じた。視聴者の反応は実に敏感だった。
メディアリテラシー(能力)の観点から、視聴者が無批判に番組情報を受け入れる危険性を説く声は多い。しかし多くの専門家がお墨付きを与える番組構成は、視聴者を信じさせるのに十分。ここに「私たちが作っているのは科学番組ではない。報道でもない。情報バラエティーだ」とうそぶく制作サイドとの大きなずれが生まれている。」
要するに「制作関係者」は「この番組は「ネタ」でした」と言っているわけだ。 しかし番組のつくりからいってこれはむしろ「釣り」に近い。 きっと本音では自分たちが仕掛けた「釣り」に引っかかる人たちを見て「みんな釣られてやんの」とあざ笑っているのだ。 それが「こんなに信用されているとは思わなかった」という言葉の(おそらく)真意だ。
そもそも「メディアリテラシー」なるものが高い人は「あるある…」なんか見ない。 それを見るのは(「あるある…」をネタとして楽しんでいる人を除けば)「メディアリテラシー」が低い人なのだ。 つまり包含関係が逆。 「視聴者が無批判に番組情報を受け入れる」のではなく「無批判に番組情報を受け入れる」タイプの視聴者が「あるある…」のような説教番組を見るのである。 「調査委員会」とやらは問題の根本が分かっていない。 ...と私はこの記事を見て思ったのだ。
しかし「テレビという共同体と芸人の進化的戦略」を補助線にすると異なる見方もできる。 つまり「あるある…」ってのはネタを提供する「制作関係者」と提供されたネタを「ヲチ」する視聴者の間で構築された2ちゃんねる的共同体なのだ。 この共同体にとって「メディアリテラシー」の高い人と「メディアリテラシー」の低い人は「外部」に位置する。 そして時々闖入してくる彼ら部外者をもネタとして楽しんでいるのである。 かくて TV 番組を媒体とした「ムラ社会」が完成する。
かつて「一億総白痴化」などと揶揄された時代はとっくに過ぎ去り, 今や TV は「誰もが見る」メディアではなくなった。 私の周囲でも TV を持ってない人が普通にいる。 また TV を持っている人たちも多様化しているので, 視聴者全体で TV 番組を共有することは難しくなりつつある。 そういう状況では TV 番組を媒体とした共同体が「ムラ社会」化していくのは必然といえる。 おそらく「制作関係者」もそれは十分に分かっているはずで, だから「あるある…」に見られるような「釣り」はせめて「ムラ社会」を維持するために必要な仕掛けだと考えているんじゃないだろうか。 そのためには「報道」を解体し全てを「バラエティ」に再構築しなければならない。
こう考えると「メディアリテラシー」なるものが要求するものも変わってくる。 全てをネタにする「テレビという共同体」に対し, 「ニセ科学だ」とか「捏造だ」とかいう批判は意味を持たない。 なぜならそれらはただのネタだからだ。 彼等はこれまでの「メディアリテラシー」をメタに畳み込むリテラシーを獲得している。
って考えると私としてはやっぱり「TV は捨て」なんじゃないかと思うけどねぇ。 もっとも他の報道メディアが「報道」を維持してるかといえば, それも相当怪しいが。(「なんたら君臨」とか)