『ゲーム的リアリズムの誕生』を読む
この本は『動物化するポストモダン』 の続編だけど単独でも読めるようになっている。 内容は大雑把に2つの章に分かれていて, 前半は主に「ゲーム的リアリズム」という概念を導出するための理論にページを割き, 後半は前半の理論を踏まえて実際の作品を批評してみせている。 演習問題つきの教科書って感じ。 ただ私の場合, ライトノベルにも美少女ゲームにも SF やミステリーにすら明るくないので, 後半は丸々パスさせてもらう(いや,読んでて面白かったけど,面白いという以上に踏み込めないというか)。 で, この読書録では(読書録だったのか)前半の中のメディア論に絞って思いついたことをメモっておく。
その前に, 「ゲーム的リアリズム」と聞いて ゲーム理論とか遊び全般を意味するゲームなどを連想された方がいらしたら(いや,普通そうだと思うけど), それは大いなる誤解なので先に『ゲーム的リアリズムの誕生』を読まれることをお薦めする。 まったく前著の「動物化」といい, なぜ東浩紀さんは誤解を生みやすい危なっかしい語を使いたがるのだろう。 ひょっとしてワザと誤配を演出(=釣り)している?
話を元に戻して, 『ゲーム的リアリズムの誕生』ではいくつかの「想像力の環境」が登場する。 モダンな意匠を残す「自然主義的リアリズム」, それと逆位相に位置する(厳密には違うがそこは本を読め)「まんが・アニメ的リアリズム」, そして両者をメタに畳み込む「ゲーム的リアリズム」だ。 これらの環境を支えるメディアが「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」。 消費者から見てコンテンツという形で「物語」が上から降りてくるのが「コンテンツ志向メディア」, 消費者同士のやり取りの中から沢山の「物語」が生まれてくるのが「コミュニケーション志向メディア」といったところか (絶対不可侵であるはずの「大きな物語」は機能しない点に注意)。 「コンテンツ志向メディア」は「自然主義的リアリズム」や「まんが・アニメ的リアリズム」とも相性がいい。
「コンテンツ志向メディアは、ひとつのパッケージをひとつの物語で占有し、それを受容者に伝達する。 コミュニケーション志向メディアは、ひとつのパッケージあるいはプラットフォームの上で、まずコミュニケーションを組織し、その副産物として複数の物語を産み落とす。」(p.148)
このメディア区分は色々と想像力をかきたてる。 「コンテンツ志向メディア」の「物語」はコンテンツとして取引の対象にできる。 つまり「コンテンツ志向メディア」ってのは私がよく書く「コンテナ」を指すものであり, また市場を指すものでもある。 一方, 「コミュニケーション志向メディア」の「物語」は取引の対象にできない。 なぜならそれは「コミュニケーション」の構成員の間で共有されることによってのみ存続し得るからだ。 すなわち「コミュニケーション志向メディア」とはコミュニティ(あるいはコミュニティの間にあるなにか。コモンズ?)を指すものだと言えないだろうか。 (ただしここで言うコミュニティは「繋がりの社会性」を前提としたものである点に注意。 まずお互いに Keep Alive を発信しあう状態があって, その中で「物語」が生成されるという構図である)
「コミュニケーション志向メディア」では「物語」がコンテンツの形をとらないため常に不安定な状態であることに加え, 「外部」に伝達する手段がない。 それを回避するために無理やりコンテンツにしようとすると, それは共有物ではなくなり「誰か」のものになる。 ギコ猫とかのまネコとかの騒動は, 「コミュニケーション志向メディア」にある「物語」の不安定さを露呈したものだったとも解釈できる。
「コミュニケーション志向メディア」で生み出されたものは, コンテンツに実装することによって「コンテンツ志向メディア」に載せることができる。
「たとえば、前掲の『ロードス島戦記』は、コミュニケーション志向メディア(ゲーム)のうえで交わされた会話の一部を切り出し、小説として加工し、コンテンツ志向メディアの論理で商品化した作品だと言える。」(p.149)
しかし(ここからが私の妄想),一度「コンテンツ志向メディア」に載ったコンテンツは, そのままでは「コミュニケーション志向メディア」に回収できない。 「コミュニケーション志向メディア」に回収するには一度ガジェットにまで解体する必要がある。 消費者は「授かった物語(=コンテンツ)」をただ貪り食うのではなく, 「活動(Action)」すなわちコミュニケーションの中で解体し無数の「物語」に再構築する。 再構築された「物語」は再びコンテンツに実装され消費者に降りてくる。 「物語」は2つのメディアを往復する間に破壊と再生を繰り返し多様性を増していく。 つまり「物語」自体にリアルがあるのではなく, 「物語」の生成サイクルにこそリアルがある。
ただしコンテンツをガジェットにまで解体する行為は法的リスクを伴う。 コンテンツは市場を流通する知財とみなされているからだ。 更に「コミュニケーション志向メディア」を拡大解釈すると, それは先日書いた職務上の著作行為の話にまでいきそうな感じだ。 しかしポストモダンにおける「リアル」の在りようが上述のようなものだとすると, 「物語」をどちらか一方のメディアに滞留させておくことは健全ではないかもしれない。
なんか 『ゲーム的リアリズムの誕生』 の内容から外れてしまったが, まぁいいや。 この本の面白さのひとつは解答を提示しないことにある。 「ゲーム的リアリズム」が何なのかすらはっきり示さない。 ただ事例を挙げてイメージさせるだけ。 それはある意味で「ゲーム的リアリズム」という概念の脆弱さを示すものかもしれないが, 全然問題ない。 なぜなら常に「物語」は解体され新しい意味に再構築されるからだ。 『ゲーム的リアリズムの誕生』 は「演習問題つきの教科書」でありながら同時に次のステップに進むための素材になっている。 ならば, 積極的にこの本で遊ぶべきだろう(笑)