今日の戯れ言
最近はそれなりに仕事に没頭しているため, ネット上で興味を引く記事があってもその場だけの反応で「ここに書くまでもないか」で終わってしまったり (ゆえにブックマークのコメントが我ながら凄いことになっている。あぁ,でも某 SNS ではネタにしたりするが)。 というわけで, 今回は独立した記事にするまでもない小ネタを列挙してみる。
「おふくろさん騒動」の禍根
最初は著作者人格権の問題かと思いきや, ネットに上がってくる情報を見ると 「歌謡曲というのは、作詞家・作曲家先生が、歌手に 「下賜」 するものだという風潮」 (=黴臭い因習)があるそうで, これを見た時点で急速に興味を失ってしまったのだが, いただけないのは訴えを受けた JASRAC が妙な形で「注意喚起」なるものを行ってしまったこと。 この辺は「コデラノブログ SP2」の記事に全部書いてある。 そもそも JASRAC への訴えにしても正式なものではなく役員に直接送られたものだそうで, 組織としての JASRAC は完全に無視しても構わなかったのだ。 (「コデラノブログ SP2」の記事にもあるように)この件を本気で問題にするなら, まず司法の判断を仰ぐのが本筋で, その結果にしたがって JASRAC にも「通達」すればいいのである。 更に「いただけない」と思ったのは JASRAC の「注意喚起」をマスコミ(特にスポーツ新聞w)が「法的判断」として報じたこと。 もう「JASRAC 何様?」って感じである。 もし JASRAC 自身が自らの影響力を分かった上で今回の「注意喚起」を行ったということなら, かなり悪質だと言える。 そりゃあもう無垢(笑)な大学生を脅して訴訟に持ち込ませずに「和解金」をかすりとる RIAA くらいには。
Napster の「しっぽ」は短い
実は私, 今年に入って Napster の BASIC コースを打ち切りました。 最大の理由は, まさに yomoyomo さんが「万人にお勧めできるかというとそれはなく」と書かれた部分。 もともと調査目的で Napster を使い出したのだが, そっちも今宙ぶらりんの状態で, しかもオープン時150万曲もあると豪語したそのラインナップに私の好みの人はいなかった。 私は山本正之さんやクレイジー・キャッツや笠原弘子さんや太田貴子さんが聴きたかっただけなんだよー
結局 Napster の「しっぽ」は私の手に届くほどは長くなかったわけで, おまけに現状の DRM について調べれば調べるほど釈然としないものを感じずにはいられないわけで。 まぁ私みたいなロートルは昔の CD に引きこもってろよ, ということなのかもしれない。 ちうわけで私は iTunes の古いバージョンで(バージョンアップしたくない) CD から落とした楽曲を聴き続けています。
「「Second Life」は『BOOM TOWN』の夢を見るか?」
我らが IT 戦士, 岡田有花さんによる「Second Life“不”人気、7つの理由」は「線メリシリーズ」に匹敵する反響だそうで。 私も Second Life には興味があるものの, すっかり耳年増になってしまって手が出せずにいる。 それでも「ちゃんとした日本語版が出たらやろうか」なんて思っていたが, PlayStation Home の話を聞いて「こっちでもいいか」と揺らいでしまっている。 件の記事に関しては 「second lifeの7つの不人気に対する反論」 なんてのもあるが, あまり反論になってない。
Second Life においてユーザは「消費者」のままでは存続できないのかも。 Second Life では何をするにもコストが(お金も時間も)かかる。 「消費者」のままでは一方的に搾取されるだけだ。 一方的に搾取されたくなければ単なる「消費者」ではない何者かにならなくてはならない。 「何者か」になれればその人は Second Life において成功者かもしれないが, 殆どの人は「消費者」に留まってるんじゃないの(まぁある意味リアルだけど)。 ゲームに限らず日本のネットサービスは「消費者」自身がウロボロスのように喰らいあうことで成り立っているが, そんなビジネスモデルに慣れた人たちがただ喰われるしかない「ゲーム」に果たしてコミットできるものなのだろうか。 (まっ憶測だけどね。 ゲームだけはプレイしてみないと分からないし)
思うのだが, 日本においてこの手の「ゲーム」の理想はやっぱり『BOOM TOWN』なんじゃないだろうか。 単なるコントロールじゃなくて身体感覚に繋がる何か。 ケータイは身体の一部であるがゆえに PC やスマートフォンとは替えられない。 mixi だって何らかの身体性があるからハマったり疲れたりするんじゃないのか。 同じようにゲームも身体感覚に繋がるインタフェースを備えたとき, 本当に劇的に変わるのかもしれない。 (それは案外 Wii だったりして)
「定年退食」
面白い。
そもそも「老人一人あたりのvalue」などという発想が「尊敬」から遠く離れたところにある。 この発想は「老い」を市場価値で評価しようとするものだ。 市場価値の高い人は尊敬され低い人は蔑まれる。 しかし人は年を取ればとるほど(できることが限られてくるので)市場への貢献度が下がる。 ある時点で市場活動から完全にリタイアする人もいるだろう。 要するに原理的に老人が評価されない物差しを使って「ほら,だから老人が尊敬されないでしょ」と言っているのである。 チャンチャラおかしい。
チャンチャラおかしいが, これは重要な指摘だ。 「老人が尊敬される時代は終わった」というのは昔に比べて老人が役立たずになったということではなく, 人を見る目が変わったということなのだ。 この変化をうまく書いているのが『下流志向』だ。 「消費主体」としてしかふるまえない人は市場の「外部」を想像できない。 だから市場の「外部」に位置する人を評価できない。 「消費主体」としてしかふるまえない人は時間の流れを想像できない。 自分も「老い」るのだということを想像できない。 だから「老い」の中に積み重なる時間そのもの(老成)を評価できない。
学生のときに読んだ筒井康隆さんの「定年退食」がこのような形でリアルっぽく見えてくるとは思わなかった。